風が届かない場所
翌朝、町はいつもより早く騒がしかった。
人の声が重なっている。
慌てた足音。
戸を叩く音。
彼女が外へ出ると、通りの先に小さな人だかりができていた。
昨日、空き地で会った少年の家の前だった。
母親が何度も名前を呼んでいる。
少年は座っていた。
怪我はない。
泣いてもいない。
ただ、動かなかった。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
呼びかけにも反応が遅い。
まるで、どこか別の場所を見続けているようだった。
「朝からこうなんだ」
近くの男が小声で言う。
「熱もない。だけど……戻ってこない」
戻ってこない。
その言葉が、彼女の胸に静かに落ちた。
少年の視線がふと揺れる。
そして小さく呟いた。
「……風、ない」
昨日と同じ言葉だった。
周囲の誰も意味を理解していない。
そのときだった。
通りの奥から、別の足音が近づいてきた。
一定の速さ。
迷いのない歩き方。
人々が自然に道を空ける。
長い外套をまとい、剣を帯びた男だった。
旅人――だが空気が違う。
彼は少年を一目見て、立ち止まった。
周囲ではなく、空気を観察している。
風の流れ。
光の揺れ。
音の届き方。
「……影か」
低く呟いた。
母親が縋るように言う。
「助けられるんですか」
男は答えない。
代わりに一歩前へ出た。
彼女は少し離れた場所から見ていた。
男の気配が変わる。
剣に手が触れる。
次の瞬間。
鋼の音が空気を裂いた。
剣が振られる。
何もない場所へ。
だが――
風が弾けた。
見えない膜が裂けるように。
空気が一瞬、強く渦巻く。
人々が息を呑む。
少年の身体が揺れた。
呼吸が深くなる。
目が瞬く。
「……あれ?」
小さな声。
母親が泣きながら抱きしめる。
「戻った……!」
ざわめきが広がる。
騎士は剣を収めた。
仕事は終わった、という動きだった。
だが。
彼は動かなかった。
視線がわずかに空き地の方向へ向いている。
風がまだ、不自然だった。
完全には流れていない。
彼女も同じことに気づいていた。
少年は戻った。
けれど。
どこかに、残っている。
人々が散り始める。
安心した空気が町へ戻る。
彼女は去ろうとした。
そのとき。
少年がふと彼女を見た。
そして無意識に袖を掴んだ。
弱い力だった。
助けを求めるほどでもない。
ただ――確かめるような触れ方。
彼女は動かなかった。
握り返さない。
離させもしない。
ただ、そのまま立つ。
沈黙。
風が通る。
ほんの細い流れが、二人の間を抜けた。
少年の肩が下がる。
呼吸がさらに整う。
手が自然に離れた。
彼はもう、普通の子どもだった。
騎士がそれを見ていた。
剣を使っていない。
祓っていない。
なのに――
流れが変わった。
彼の眉がわずかに寄る。
理解できない現象だった。
彼は初めて彼女へ視線を向ける。
「……今、何をした」
問いは静かだった。
責めてもいない。
だが確かに警戒している。
彼女は少し考え、
「何もしていません」
と答えた。
事実だった。
騎士は沈黙する。
否定できない。
目の前で起きたことが、これまでの理屈と合わない。
風が二人の間を通り抜ける。
避けるのではなく、選ぶように。
彼は理解し始めていた。
この女は祓う者ではない。
だが――
影の“後”に触れている。
名前も名乗らないまま。
二人は初めて、同じ風の中に立っていた。




