残された場所
井戸のそばの空気は、まだ完全には軽くなっていなかった。
風は通り始めている。
けれど流れは慎重だった。
長く閉じていた道を確かめるように。
騎士は周囲を見渡す。
剣は抜かないまま。
彼女は井戸の縁から離れ、静かに息を整えていた。
足音が近づく。
振り返ると、年配の女性が立っていた。
小柄で、背は少し曲がっている。
二人を見て驚いた様子はない。
むしろ、諦めたような目だった。
「……そこ、入ったのかい」
穏やかな声。
騎士が軽く頷く。
「使われていない場所のようだが」
女性は小さく笑った。
「使われなくなったんじゃないよ」
少し間を置く。
「使えなくなったんだ」
風が弱く吹く。
草が揺れる。
女性は井戸を見つめた。
「昔ね、この町はここが中心だった」
市場も、祭りも、この中庭でやってた」
彼女は黙って聞く。
「井戸の水はきれいでね。みんなここに集まった」
懐かしむ声だった。
「けど、ある年に事故があった」
言葉が静かに落ちる。
「若い男の子が落ちたんだよ」
騎士の視線が井戸へ向く。
「助け出されたけど……それからだった」
女性は手を組む。
「町の人が、ここに来なくなったのは」
風が少し止まる。
「助かったのに、その子が外に出なくなってね」
責める調子ではない。
ただの事実。
「井戸を見ると動けなくなるって言ってた」
彼女の胸がわずかに締まる。
女性は続ける。
「家族も最初は連れてきたよ。慣れれば大丈夫だろうって」
小さく首を振る。
「でも無理だった」
沈黙。
「そのうち誰もここを使わなくなった」
市場は別の場所へ移り、祭りも消えた。
「時間が経てば忘れると思ったんだろうね」
女性は井戸から目を離す。
「でも忘れきれないものって、残るんだよ」
風が渦をほどくように流れる。
彼女は気づく。
止まっていたのは一人ではない。
町全体だった。
触れないようにした記憶。
避け続けた場所。
流れを止めたのは、恐怖ではなく――
置き去りにされた時間。
騎士が低く尋ねる。
「その者は……今は」
女性は少し考える。
「生きてるよ」
穏やかに答える。
「年は取ったけど、あまり外には出ないね」
騎士の表情がわずかに動く。
女性は続けた。
「悪い人じゃないんだ。ただ、ここで止まったままなんだろうね」
風が井戸を越えて町へ流れていく。
さっきより、少しだけ素直に。
女性は二人を見る。
「旅の人かい」
騎士が頷く。
女性は彼女を見て、静かに言った。
「久しぶりだよ。この場所に長く立っていられる人は」
それだけ言って、ゆっくり去っていく。
中庭に再び静けさが戻る。
騎士は井戸を見つめたまま動かない。
祓えば終わる。
そう思ってきた場所。
だがここは違った。
影は出来事の後に残っていた。
彼は初めて理解しかける。
断たれなかったものがあるのではなく、
終わらなかった時間が残っているのかもしれないと。
風が通る。
井戸の底から、かすかな冷たい空気が上がってきた。




