間に合わなかった風
村を出てしばらく、道は緩やかな丘へ続いていた。
背後の集落はもう小さく、煙だけが空に細く残っている。
風は昨日より軽かった。
草が素直に揺れている。
騎士は前を歩き、彼女は少し後ろをついていく。
急ぐ旅ではない。
けれど立ち止まる理由もなかった。
しばらくして、騎士が口を開いた。
「……さっきの子」
唐突だった。
彼女は顔を上げる。
「戻ったな」
確認するような言い方だった。
「うん」
短く答える。
騎士はそれ以上続けない。
だが歩調がわずかに遅くなる。
考えているときの歩き方だった。
丘の上に出る。
風が強くなる。
視界が開け、遠くの山並みが見えた。
騎士は立ち止まらずに言った。
「昔、似たことがあった」
彼女は何も尋ねない。
待つ。
騎士は空を見る。
言葉を選ぶように。
「影が広がった土地だった」
淡々とした声。
「祓った。何度も」
草が揺れる音だけが続く。
「流れは戻った」
そこでわずかに間が空く。
「……だが、戻らない者がいた」
彼は振り返らない。
ただ前を見て歩く。
「影は消えていた」
確信の言い方だった。
「だから、遅かったんだと思った」
誰に向けた言葉でもない。
結論を確認するような声。
彼女は静かに聞いている。
慰めも、同意も言わない。
騎士は続ける。
「深くなる前なら戻る」
強い言葉だった。
長く積み重ねてきた信念。
「だから今は、迷わない」
風が横から吹き抜ける。
外套が揺れる。
彼の手が無意識に剣の柄へ触れる。
習慣のような動き。
彼女はその手を見る。
そして小さく言った。
「待ってたのかもね」
騎士の歩みが一瞬だけ止まりかける。
だがすぐに戻る。
「……待つだけでは戻らない」
静かな否定。
怒りではない。
経験から出た言葉。
彼女はそれ以上言わない。
二人の間に沈黙が落ちる。
風だけが通る。
丘を下り始めたとき、騎士が小さく付け加えた。
「……もう、遅れない」
それが誰のことなのか、彼女は聞かなかった。
聞く必要がない気がした。
遠くの空に雲が集まり始めている。
次の土地の方向だった。
風が少しだけ重い。
騎士は歩みを速める。
いつもよりわずかに。
彼女もその後ろを歩く。
まだ知らない場所へ。
まだ触れていない風の続きを探すように。




