戻らない場所
翌朝、風は弱かった。
止んではいない。
けれど、どこか遠回りしているようだった。
焚き火の跡を消し、二人は集落を離れた。
道は細く、山肌に沿って続いている。
草は揺れているのに、音が遅れて届く。
彼女は何も言わなかった。
騎士も同じだった。
歩きながら、彼は周囲を観察していた。
空気の重さ。
鳥の飛び方。
風の抜け方。
長年の旅で身体に刻まれた感覚だった。
やがて、谷へ降りる道に差しかかる。
そこで彼は足を止めた。
「……あるな」
低い声。
彼女も気づいていた。
冷たいわけではない。
暗いわけでもない。
ただ――進まない。
風が谷の入口でほどけている。
まるで先へ行くことを避けているようだった。
二人はゆっくり降りていく。
谷底には、小さな家が一軒あった。
畑は荒れていない。
戸も壊れていない。
生活の形だけが、静かに残っている。
けれど――
音がない。
鳥も鳴かない。
虫の気配も薄い。
騎士の手が自然に剣へ触れる。
「遅い」
彼が呟く。
「何が?」
「影の深さだ」
彼は家を見つめた。
「普通なら、もう崩れている」
戸を押す。
軋む音だけが響く。
中は整っていた。
椅子。
食器。
途中まで編まれた布。
誰かが、さっきまでいたような空気。
だが人はいない。
彼女は部屋の中央で立ち止まった。
胸の奥が重い。
空き地の影とは違う。
温度が残っている。
長く、長く、止まっていた場所。
騎士は剣を抜いた。
迷いはなかった。
刃が静かに光る。
「断つ」
短く言う。
彼は床へ剣を振り下ろした。
空気を裂く音。
見えない何かが弾ける。
風が一瞬、強く吹いた。
――だが。
何も変わらない。
静寂が戻る。
騎士の眉がわずかに動いた。
もう一度。
今度は深く踏み込み、斬る。
剣の軌跡が空間を断つ。
風が巻き起こる。
埃が舞う。
それでも――
戻らない。
音が生まれない。
流れが繋がらない。
彼は初めて動きを止めた。
「……おかしい」
断てば戻る。
それが世界の理だった。
彼女は目を閉じる。
感じ取ろうとする。
ここには恐怖がない。
絶望でもない。
ただ――
諦め。
長く、静かに積み重なった停止。
彼女はゆっくり言った。
「ここ……待ってない」
騎士が振り向く。
「何?」
「戻るのを、待ってない」
言葉にしながら、自分でも驚いていた。
影が閉じ込めているのではない。
誰かが、世界へ戻ることをやめていた。
風が入れない理由。
騎士は剣を下ろした。
理解が追いつかない。
祓えば戻るはずだった。
斬れば終わるはずだった。
だが今――
剣が届かない場所がある。
外で風が吹こうとして、止まる。
彼は初めて思った。
自分のやり方では、救えないものがあるのかもしれない。
彼女は静かに立っていた。
何もせず。
ただ、そこにいる。
風はまだ、入ってこない。
けれど――
ほんのわずか。
窓の隙間で、空気が揺れた。
騎士はそれを見逃さなかった。
剣ではなく。
彼女のそばで。
流れが、探し始めている。




