欠けた音
はじめまして、遠音です。
静かな物語になります。ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
山あいの町の朝は、いつも同じ速さで始まる。
戸が開く音。
水を汲む桶の響き。
遠くで火を起こす乾いた音。
風は山を越え、家々の隙間を通り抜けていく。
それが、この町の朝だった。
彼女は長屋の戸を開けた。
冷たい空気が頬に触れる。
空は薄く明るく、雲がゆっくり流れている。
いつもと変わらない朝。
――のはずだった。
一歩外へ出たとき、彼女は足を止めた。
何かが違う。
音がある。
人も動いている。
けれど、ひとつだけ足りない。
しばらく考えて、分かった。
風鈴の音がしない。
通りの角、古い茶屋の軒先に下がっている風鈴。
毎朝、風が通るたびに小さく鳴る。
それが聞こえなかった。
壊れたのかと思い、目を向ける。
風鈴は揺れていた。
確かに揺れている。
なのに、音が届かない。
彼女は首を傾げたが、それ以上考えなかった。
理由のない違和感は、名前を与えなければ日常の中へ戻っていく。
彼女は歩き出した。
坂道を上り、町の外れへ向かう。
空き地がある。
子どもたちがよく遊ぶ場所だった。
朝はまだ誰もいない時間――のはずだった。
一人、いた。
少年だった。
十歳ほど。
地面にしゃがみ込み、草を指でなぞっている。
遊んでいる様子ではない。
ただ、同じ場所を触り続けていた。
彼女は通り過ぎようとして、少しだけ歩みを緩めた。
少年が顔を上げた。
目が合う。
驚いた様子はない。
けれど、どこか探している目だった。
「ねえ」
少年が言った。
声は小さい。
「風、ないよね」
彼女は周囲を見る。
草は揺れている。
髪もわずかに動く。
風は吹いていた。
「吹いてるよ」
そう答えると、少年は首を横に振った。
「ちがう」
言葉を探すように黙る。
「……こない」
説明になっていない言葉。
それでも、彼女には少し分かる気がした。
届いていない。
そんな響きだった。
彼女は少年の隣まで行かない。
少し離れた場所に立つ。
同じ空き地を見る。
風が通る。
けれど中央だけ、わずかに流れが逸れていた。
気のせいかもしれない程度の違い。
彼女は何も言わなかった。
少年もそれ以上話さない。
しばらく沈黙が続いた。
遠くで町の朝が動き始める。
荷車の音。
誰かの呼ぶ声。
少年は立ち上がった。
「……帰る」
そう言って歩き出す。
数歩進み、ふと振り返る。
「ねえ」
彼女を見る。
「ここ、変だよ」
子どもの率直な言葉だった。
彼女は答えなかった。
ただ、小さく頷いた。
少年は満足したように坂を下りていく。
空き地に一人残る。
風が吹く。
草が揺れる。
それでも、どこか通り抜けきらない。
彼女は少しだけそこに立っていた。
理由はない。
ただ、すぐに離れてはいけない気がした。
やがて、町の音が濃くなっていく。
日常が戻る。
彼女は長屋へ戻るため歩き出した。
振り返らない。
違和感に名前はつけない。
けれどその朝、確かに世界からひとつ音が欠けていた。
そしてそれは、
まだ誰にも気づかれていなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
少しずつ風が動き始めます。
次話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




