7
迅が小学1年生の時、クラスで兎の世話をしていた。とても小さな、真っ白な兎だった。
頼子の「化け物」という絶叫が村に響き渡り、迅が頼子を狂わせた化け物として認知されてから月日が経ち、村人が機械的に迅を嫌うようになっていた頃のこと。
当時の迅は、小学校でならば友人が作れると期待を抱き、そして瞬く間に崩れたことで絶望し、心を開けられる存在が兎だけだった。
クラスメイトは兎を可愛がるが、面倒なお世話をすることは無く、迅が精力的に世話をしていた。
結果、兎は迅によく懐き、また彼も兎を愛した。
クラスメイトが撫でるときはジッと動きを止める子だったが、迅が近づくと物凄い俊敏さで近づき、「キュー、キュー」と可愛らしく鳴き、甘えるのだ。
───今の様に、甘えるような声を出していたのだ。
「てめぇ………」
迅の言葉に、耳をピクリと動かす巨大な兎。
九十九を吹き飛ばした前足からは粘り気のある赤黒い液体が垂れており、濃密な鉄の臭いが迅の鼻孔を突き刺す。
不愉快で不愉快で仕方がない、血の臭いだった。
「───はぁっ!」
九十九の鋭い声が聞こえたと同時に、刀を逆手にした九十九が落ちてくる。兎に刀を突き刺すような、奇襲の一撃。
完全な死角からの一刺し、しかしながら兎はそれを容易く回避をした。
「内に入れッ!」
九十九の叫びを聞き、迅はなりふり構わず鳥居に飛び込んだ。と同時に、九十九も鳥居に飛び込んできており、二人でもみくちゃになりながら滑り込む。
九十九に覆われるように伏した迅は、イテテと呟きつつ膝を払いながら立ち上がる。
「無事だったのかよ………俺てっきり、死んじまったとばか───」
絶句した。言葉が出なかった。
未だ地面に倒れ込む九十九の右腕は本来曲がらない方向に折れており、肉が裂けて血が溢れ、至る所から骨が突き出ていた。
「お、おい、大丈夫か………?」
震える唇を必死に堪えて、迅はなんとか言葉をひねり出す。誰が見たって重症だった。
「………問題ない。主こそケガはないか?」
口角を上げながら迅に問う九十九であったが、額に浮かぶ脂汗が強がりだということを雄弁に語っていた。
「俺のことより九十九だろッ⁉ なんだよあいつ、速すぎる………!」
ずっと遠くに居たはずなのに、次の瞬間には迅の真横に移動した。生き物として考えられない速度であり、怪異に相応しい正真正銘の怪物。
「あれは『兎の神使』、神の遣いじゃ。怪異ではなく、精霊じゃのう」
精霊───それは、肉体という楔から解き放たれかけている、半精神体のこと。
体もある、血もある。感情もあるし、おおよそ生き物として持ちうる機能は万全に稼働しているが、肉体の一部が『令力』によって構築されている。
通常の生き物の『肉体』と全く同じであるが、決定的に違うパーツを持った存在。
精霊とは、完全に肉体から解き放たれた不老不死とはいかないものの、重要な器官が令力で構築されている不老の存在なのである。
「神の遣いって………。じゃあ、なんで九十九を狙うんだよ⁉」
「吾の眷属ではなく、月詠様の眷属なのじゃ。故に、月詠様の指示しか聞かぬ」
「はぁ⁉ なら、今すぐ止めてもらえよ⁉」
痛みを堪え、何とか立ち上がった九十九の表情は病的なほど真っ青であり、ぐちゃぐちゃに捩じれた右腕から漏れ出る血液が、彼女の命を削っていた。
他人の大けがを見たことなど迅にとって初めての経験であり、目の前で弱っていく九十九の姿に、彼の唇は震えていた。
───突如、振動が空間に伝う。
「な、なんだ⁉」
何度も何度も、衝撃が迅たちを襲う。
いや二人をではない。本当に世界が揺れていた。
「むぅ、暴走しておるっ。このままでは結界が持たん………!」
結界は、令力を用いて世界を区切る空間を作り上げる術であり、その外殻は非常に堅固である。
そんな結界に向かって、兎の神使は持ちうる力で何度も何度も体当たりをし、膂力を持って壊そうとしていた。
その結果、空間全体が振るわされ、まるで世界全体が転がされるかのように揺れたのだ。
史上最高の陰陽師、安部晴明の傑作であるこの『対怪異結界』は、並大抵の攻撃では壊せない強力なものであるが、精霊の全力を防ぎきることは叶わない。十、百と打撃を受ければ、いずれ壊されることは明白である。
時間は残っていない───今にも死にそうな九十九は、覚悟を決めて、刀を左手で強く握った。
その姿に迅は、九十九の尋常ではない決意を感じた。
あぁ、きっと迎撃に向かうのだ、と。
「九十九じゃ無理だよ! 月詠って奴に止めてもらえって⁉」
うっすらと見える、鳥居に何度も体当たりをする巨体。今の九十九に敵うはずがない。
「……なぁに、助けが来るまでの時間稼ぎじゃよ。それにな、奴の暴走の理由が分かるか?」
「………なんだよ」
「愛する存在を失くして、どうしようもなく苦しいんじゃ。抑えられないのじゃ。───今は亡き、月詠様を希うことしかできぬのじゃ………」
今は亡き───月詠という神は既に死んでいた。
完全に肉体から解放された神々は、その躯体は『信仰』によって構成されている。
故に誰かに想われている限り、誰かの祈りがある限り、神は不滅なのである。
だが信仰が失われ、誰からも祈られない神は、普通の生き物と何ら変わらず、容易く死ぬ。
例え、知らぬ者がいないほどの知名度を持ち、権能を有した夜を配する神であろうとも。
辛そうに、苦しそうに俯く九十九は、同情していた。
それがどのような意味なのか、同質の苦しみを携えた九十九以外に理解できる者はいない。
「………………おさえらないほど苦しい、か」
九十九はそう言ったが、迅にはどうにも違って見えた。
迅の目には、絶望の淵から蘇り、歓喜の舞を躍っているように思えた────ただ、この瞬間を、強く深く噛みしめるように。
──────
九十九は迅の静止を聞かず、結界の外へと向かっていった。
時間稼ぎなどと言っていたが、利き腕を無くした状態でそれが可能な相手ではないと迅にすら分かることであり、無理をしていることなど一目瞭然であった。
『絶対に出るでないぞ』
そう言って数分。先ほどまで結界に何度も体当たりしていた神使は九十九を追ってどこかへ行き、地震のような衝撃は収まっていた。
「大丈夫か………?」
───たった一発で腕を持っていく相手に、果たして九十九は戦えているのだろうか。
迅の不安は高まっていく。
「───くそっ!」
己の不甲斐なさに、迅は嘆いていた。ただ待つことしか出来ない不出来さに、思わず拳を握りこむ。
だからといって、迅に出来ることなど何もない。怪異と戦う力も、強者に抗える知恵もないのだから。
何も持っていないから弱い。弱いから待つことしかできない。
『…お前は、救うために産まれてきたのだ』
その時、迅が思い出したのは、宗隆の言葉だった。
「救う………」
『…お前は特別だ。だから、守る人間になりなさい』
宗隆はいつも他者を愛せと言っていた。石を投げられても抱擁で返せ、そう言い続けていた。
迅には、それがどうにも理不尽に思えた。自分を排する者たちのために、何故傷つかなければいけないのか、と。
───俺を嫌う奴のために戦うなんて、絶対に嫌だ。
九十九は違う。九十九のためなら、迅は戦える。
そして、戦うのなら「なにも持っていない」などと泣き言は言わない。
───外に出ても何もできないけど、結界の境でウロチョロして、神使の気を引くことぐらいは出来るかも。
「………行くかっ!」
迅は悩んだ末、結界の外に出る。
覚悟を決めた迅は、迷わない───当然だ、『人』が覚えるべき、恐怖を知らないのだから。
「……………いないな、あいつ」
周囲には九十九も特徴的な純白も見えず、遠くまで行っていることが伺えた。
「……とりあえず、ここにいるか」
───九十九も死にそうになったら逃げてくるだろう。それまで待っとこうか。
「?」
違和感を感じた迅が耳を澄ますと、キンという澄んだ音が微かに聞こえる。剣戟のように小気味いい音で、九十九の剣音だと想像できた。
きっとまだ、九十九は戦っている。
「……様子だけ見に行こう」
絶対に九十九の邪魔をしないと心に決めた迅は、足音を消しながら慎重に音の場所まで進んで行く。
最近何度も森に赴いていたことで、森での歩き方も上手くなっていた。熟練のレンジャーのように、完璧に森に溶け込む迅は、令力探知以外で発見されることはないだろう。
どんどん件の音が大きくなっていく。それに伴い、迅の鼓動の音も大きくなっていった。
緊張を押し殺してずんずんと森を進んでいき、やがて九十九の姿が目に入る。
迅は咄嗟に木の裏に隠れて、様子を窺う。
「…………?」
そこにはおかしな光景があった。
九十九は刀を振るっているが、神使の姿は見えず、なにかが刀とぶつかる音だけが森に響く。
何度も何度も虚空に刀を振るう九十九。姿勢を変え、向きを変え、構えを変えて、振るい続ける。
「………ぐうぅっ!」
九十九の苦しそうな声と同時に、その左腕に裂かれたような傷口が生じ、血が流れる。
「⁉」
それで、迅は気づいた。
迅の想像通り、兎の神使は、超高速で九十九を襲っていた。周囲の木を用いてピンボールのように跳ね続けており、九十九の周囲を縦横無尽に移動、隙を狙っているのだ。
『古行』───基本から外れた陰陽術を用いた移動のため、音速を越えているにも関わらず、音を発することは無く、ソニックブームも発生させていない。足場に使われている木ですら、時折ヒビは入るものの、大した衝撃はないようだ。
そんな高速移動を、幸い九十九には見えている様で、なんとか凌いでいた。
とはいえ、片腕では完全には厳しいのだろう。九十九の全身は傷だらけで、儚い空色の着物は、美しさとは無縁のようなボロボロの状態である。
「───ぐあっ!」
悲鳴と共に九十九の体が宙を舞う。美しい放物線を描いた後、ぶちゃっ、と肉が潰れながら地面にぶつかる。
九十九を倒したからだろうか、神使は高速移動を止めて、伏した九十九を見下ろすように佇んだ。その姿は、自分の仕事を忠実にこなす冷徹な殺し屋のよう。
“殺される“
そう思った時、迅は木から飛び出し、九十九の下へと走っていた。
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