閑話2 小さな酒器
夕暮れの広大な湖の遙か先に、黒色の山々が薄っすらと見える。
湖の上空を一機の哨戒浮艇が横切っていく。その機体は、湖面と同様に東からの夕日に照らされて半身を輝かせていた。
そんな風景を望む、湖畔の崩れかかったあばら家の縁側に、ぽつんと少女の姿があった。
アルアータは脇の大きな徳利の口に直接口つけようとしてから、思い返したようにその暴挙を踏みとどまり、小さなコルン(卮)に冷たい酒を一杯注いで一息にあおった。
徳利からの直飲みは、彼女が15歳で成人するより前から続けていた伝統ある飲み方だったのだが、少し前にアールンに見つかってきつく注意されていたのだ。
透き通った感覚が喉を一気呵成に下り、心地よい冷感が身体の中心から染み渡っていく。
タナオードの清水で作る酒には及ばないが、香りの高さでは米どころであるエーダの地酒も中々良く、今は気候も丁度よい。この至上の夕べを題に一作吟じてみようとしたが、彼女の頭の中には秀句が全く浮かんでこなかった。
「よう、こんな所あったんだな。」
ふと、あばら家の裏からヴェラードの声がした。
「何故ここが...?まさか、つけてきたのですか?」
「人聞きの悪いな。これは...競争相手の研究だ。」
ほぼ同じだろう。顰めっ面のアルアータをよそに、ヴェラードはあばら家に上がり込んで彼女の隣に置いてあった徳利の銘を確認した。
「うおっ、これ”ホーハン”じゃねえか。しかも年代物って...やっぱりハルムローディ様は小さくても飲むもんが違えなぁ。」
「あげませんよ。」
「分ーってる。そもそも、人の金で飲む酒は大概不味いからな。」
そして、男はアルアータの隣にどっかりと腰を下ろした。反対側にずれて距離をとった少女を横目で見、鼻で笑いながら、ヴェラードは前方に広がる夕暮れのエーダ湖を眺めた。
遠方には、越冬を終えて北に渡る雁の、幾重にも渡る隊列が見えた。
「雁は春風に汗ばみ、而して忍びてそれに乗る、か...。」
そう口走った男の顔を、アルアータは意外そうに覗き込んだ。
「エイワンの『北都賦』ですか。」
「ああ。...意外か?こんな奴がって顔だな。」
「いえ...。」
ヴェラードは笑って続けた。
「最初は、軍団の古詩好きの奴らと話合わせる為の付け焼き刃だったんだが...やってる内に入れ込んじまってな。詩集をめくる度に、自分では到底できそうもねえような物の見方が次々現れるもんだから、楽しくてよ。」
それから、ヴェラードはああ、と言って
「作る方はからっきしだけどな。所謂”見る専”ってやつよ。」と付け加えた。
それから、腰にぶら下げていた瓢箪の栓を開け、中身をドカドカと飲んだ。
「...。」
その様子を恨めしげに見つめるアルアータに気づき、ヴェラードは不思議がって理由を尋ねたが、返答を聞くや大声で笑い出した。
「はーっはっはっ!殿下が!ああ、そうか!」
「笑い事ではありません...。」
「いやいや、あいつらしいというか、何と言うか...。まあ、実際危ねえしな、特にあんたはちっちゃいから。」
「馬鹿にしているのですか...!?」
「いいや?」
そして、男はあばら家の中を見回して、その隅の暗がりに何かを見つけて声を上げた。
「ん、あれは...。」
「...?」
ヴェラードがそこから取ってきたのは、一枚の古ぼけた方形の木盤であった。
盤の上部は高さが様々の四角い区画に分けられ、区画ごとの中心には小さな穴が空いていた。
アルアータは、この盤に見覚えがあった。酒場などにもよく置かれている、盤上遊戯ピシャールの盤だろう。
彼女自身は遊んだ経験は無かったが、”山颪の館”の侍女や使用人連中が賭け事のネタにしていたのをよく遠巻きに見ていたので、大体のルールは覚えていた。
「お、ご丁寧に駒まで揃ってるじゃねえか。ここって酒肆(酒場)か何かだったのか?」
そう言いつつ、ヴェラードは持ってきた革袋から、台郭、街、歩兵団や騎兵団、行商、船などが立体的に象られ、底面に突起のついた”駒”をその場に広げた。
ピシャールとは、一口に言えば”模擬国家運営”である。
まずは双方の”都”を定め、そこを起点に軍隊の駒を使って「自国」の領土を拡張しつつ、領内に防衛拠点となる”台郭”や商工業の中心となる”街”、農業や税収に直結する”農村”の駒を盤上の任意の区画に置き、「建設」していく。
暫くすると相手の領域に接近するので、そこからは戦や外交で相手の都市を奪い取るも、通商や更なる自領開発を通して自らの富を蓄えるも自由である。
「折角だし、一戦どうだ?」
「2人だけでやっても、面白みに欠ける気がしますが。」
三、四人で盤を囲み、複数国間で駆け引きをするのが醍醐味だ。一対一では、精々互いに戦争と和平を繰り返すだけの、しょうもない試合になってしまうだろう。
「それもそうだなぁ...じゃあ、あいつ等も呼ぶか。」
「あいつら...?」
翌日の夕方も、アルアータはそのあばら家に居た。
しかし、今日は酒に手を出さず、彼女は床に溜まった砂塵を払ったり瓦礫をどかしたりして、来たるべき訪問者を待っていた。
「へぇ...こりゃあ確かに穴場だな。」
「でも、ここにアルアータさん一人は...ちょっと心配になっちゃいますね...。」
「それは大丈夫だろ。あいつ強いし。」
そんな話し声とともに、あばら家の裏からアールン、ソーラ、ヴェラードの三人が現れた。
ソーラの右手首には、光り輝く”紅玉の霊石”が嵌った腕輪が付いていた。
「よっ。今日はこの面子でピシャールやるんだって?」と、アールンが手を上げつつアルアータに声を掛けた。
「お待ち申し上げておりました。」
「別にそんな気張らなくて良いって...。それで、制限はどうする?遷都アリ?」
「それは流石に無しで、それ以外は全部アリで行こうぜ。」と、ヴェラード。
「了解!」
そして、四人は昨日ヴェラードが発見した盤を囲んだ。
辺りはだいぶ暗くなり、湖に向かって吹く夜の風が、あばら家の茅葺き屋根を揺らしはじめた。
持参した燭台の灯りに、四人の身体や盤、そして広げられた駒たちが優しげな橙色に照らされていた。
「久々だな〜この感じ。」と、アールン。
「私、そんなに詳しくないんですよね...。」と、ソーラが頭を掻きつつ言った。
「大丈夫大丈夫、そういうのが一人ぐらい居てくれたほうが、楽しくやれるからな。」
「おうおう、こいつ平然と食い物にしようとしてるぞ。」
「え、酷い。」
悪い顔をしてそう答えたアールンに、ヴェラードが瓢箪から酒をがぶ飲みしつつ茶々を入れた。
「んじゃ、取り敢えず都定めるか。」
四人はそれぞれ都を示す駒を取り、互いに距離を取りつつ場所を選んでいく。
四人の位置取り:
アルアータ:盤を南北に貫く大河川沿いの、北の微高地。
ヴェラード:盤の東部の山間の高地。
アールン:大河川南部の、西側からの支流との結節点近くの微高地。
ソーラ:盤南西端の平地。
ちなみに、東西南北は盤の側面に記載がある。
そして、試合が始まった。
まずは、各々最低限の収入を確保するための拡張を行っていく。
大河川沿いに都したアルアータとアールンは、互いに”船”の駒で通商を行いながら、川沿いに次々と街や農村を建設して勢力域を広げていった。
それに対し、ヴェラードは険しい山間部の都の守りを固めて引き籠りつつ、遠隔地にも設置できる”交易所”の駒を要衝に配置して利益を上げていく。
最序盤で最も積極性を見せたのはソーラであった。
しかし、それは彼女の戦略というよりは、必要に迫られた末に嫌々...という方が近い。
取り敢えず他の人間から距離を取ろうと彼女が都に選んだ盤の辺境部は、交易などの観点から見れば下の下の立地である。彼女がお金稼ぎをするには、既にアルアータやアールンの手に落ちた要衝を力ずくで奪い取らなければならなかった。
この盤上遊戯は、決して”模擬戦”ではない。むしろ、戦争の前段階となる富国強兵と、それで扶植された力に物を言わせた外交が肝である。戦争自体は相手との直談判でどうとでも回避できるので、それを変に気にして中心から距離を取るのは、初心者が陥りがちな下策である。
ソーラは隣接するアルアータやアールンの勢力域に頻繁に侵入したが、一時的な占領や略奪を行えても、長期的に見ると目立った成果を上げられてはいなかった。
そして、度重なる出征により彼女の勢力が十分に疲弊したところで、アルアータが果敢に動いた。
「あっ、待って...!」
ソーラの悲鳴をよそに、アルアータの大軍が瞬く間にソーラの勢力域を席巻した。
ソーラもなけなしの戦士団を出して抵抗を試みるが、数的有利は覆し得ず、甚だしい損耗の末に都が包囲されてしまった。
「...攻撃しないんですか?」
「そうしたいのは山々なのですが、不穏な動きをなさっている御方が居りますので...。」
そう、都のあるマスを四方から包囲しているアルアータ軍の更に外側には、アールンの手勢の駒が布陣していたのだ。
首都を攻める戦の疲弊度の溜まり具合は、それまでの戦の比ではない。今アルアータが兵を動かして首都を攻め、その背後をアールンに突かれれば、彼に「一挙両得」されてしまう可能性だってある。
しかし、反転してアールンの兵に攻め掛かるという選択肢も、そこまで現実的ではない。彼もまた精強な軍を揃え、支流を利用することで補給事情もアルアータの軍の何倍もマシであった。数ではアルアータが勝っていたが、ぶつかれば只では済むまい。
「フフフ...。あんた、足元はちゃんと見とかないと駄目だぞ。」
「...?...ッそれは!!」
アールンが人の悪そうな笑みを浮かべて指差した所には、大河川を征く大量の船の駒があった。それが商船でないのは、雰囲気でわかった。
「俺はあんたが軍を都に戻すよりも少ない手数で都に辿り着けるし、そっちの軍が背中を見せればこいつ等が黙ってない。さあ、どうする?」
「くっ...!」
「おー、策士だなぁ。」
そう、山奥で黙々と防備を固めるヴェラードが、一人他人事のように感嘆の声を出した。
水上での船の移動速度は桁違いであり、川沿いにあるアルアータの駒を落としながら、アールンの遠征船団は悠々と首都に進撃し、陸川双方からの包囲陣を完成させて攻撃を始めた。
首都攻略戦では、ターンが五回一巡する間、攻撃側が城に張り付くことで陥落させることが出来る。
一、二、三。アルアータは軍を分けて引き返させたが、あと一歩間に合わない。
間に合わない筈だった。
「よっと。策士策に溺れるってな。」
「なっ...その軍どこから...!」
唐突に、アルアータの都を攻めるアールンの軍の後背至近にヴェラードの軍が現れた。
「”交易所”には兵を潜ませておけるんだよ。施設防衛用の雑魚だが、ここには沢山の”交易所”があるし、雑兵の大軍でも都攻めで疲弊してる軍隊を背後から突けば十分戦える。」
「うーわ、何だよそれ。次があったら俺も使ってみるか。」
幾つもの”交易所”から吐き出された雑兵の大”群”がアールンの兵をタコ殴りにし、追いついてきたアルアータの正規軍も合流して、遂にアールンの企みは打ち砕かれた。
この大一番に惜しみなく兵力を注ぎ込んでいたアールンは、再起を図るもののついぞ及ばず、結局彼はソーラに続いて二番目に早く退場させられた。
「ほ〜、私のこと食い物にする〜とか調子のいいこと仰ってたのに、結局これですかぁ。」
「うるせー。あんた最初っから後手後手だったくせに!順位だって俺のほうが1つ上だからな!」
「これが王国の北半を統治するエルドーレン朝の王子と霊石持ちの”紅玉の従者”の姿だってよ。信じられねえな。」
子供のように言い争う下位2人を見て、ヴェラードが笑いながらそう言った。
「クソ...こうなったら、アルアータ!何が何でもこの騙し討ち野郎を倒せ!!」
「はっはい!!」
「祟り神みてえだなお前。」
息巻くアールンを背後に抱え、アルアータは最後の敵に勝負を挑んだ。
と言っても、ヴェラードは狭い本土に防衛機能を集中させているため、財源である遍在する”交易所”をプチプチ潰していくだけで、ほぼ丸裸にすることが出来た。
アールンとソーラを潰して得た広大な領土にて育てられた、百万に上る大兵力による蟻の壁を伝うような侵攻には、さしもの要塞も耐えきれず陥落し、勝利はアルアータの物となった。
「しゃああああ!!!!」
「何で本人以上にあなたが喜んでるんですか...。」
「はっはっは、あんたはどうだ?勝利の味は。」
ヴェラードの問いに、ぼーっと他の三人を眺めていたアルアータはそこで我に返った。
「...正直に申せば、不思議な感覚です。初めてのことなもので、どう反応してよいか分からず...。」
彼女の言葉の意味は、一度の”ピシャール”での勝利に留まらなかった。
今まで、入りたくても入れなかった世界。
同世代の侍女や童僕たちが楽しそうに、ときに白熱して遊ぶ姿を、彼女は影から見ているしかなかった。
その孤独を紛らわそうと、幼年の内から飲酒に走り、詩作に耽った。
自分は大人びているのだ、あんな幼稚な遊びで騒ぐことしか知らぬのは哀れで仕方が無い。
そう自分に言い聞かせ、疎外感と満たされなさを虚栄心で押し込めていた。
そして、満たされることを知らぬ浅い器は、ただ一度喜びを注がれただけでいとも容易く決壊してしまったのだ。
幼いのはどちらだ。そう思い、少女は肩を震わせ、鼻をすすり目を拭った。
それを見て、アールンは軽く肩をすくめ、”ハリージェ”から酒瓶を取り出しつつこう言った。
「...さ、もう一戦するか?ほれ、殿中から上等な酒を持ってきたんだ。これでアルアータとヴェラードをいい感じに酔わせちまえば...。」
「おいおい、俺以上に卑怯じゃねえか。ま、頂けるもんは頂くがな」
「はい、貴女の分ですよ?」
ソーラから手渡された小さなコルンには、澄み切った酒が注がれていた。
そこに薄っすらと映った自らの顔は、ひどく歪んでいた。




