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青炎紀  作者: 二十二郎
〈1〉破魔之役:紅玉の従者
42/54

40 復活

年越しの夜は、特別な高揚感に包まれる。

夜中に年越しを告げる鐘が鳴り響き、朝日が西から昇れば、王侯将相の別無く誰もが一つ齢を重ねるのだ。


そして、読星台が国家の新年の運局を読み解き、骨卜(こつぼく)、手相、顔相、数、果ては髪の毛や銭、その場で拾ってきた石に至るまで、多岐にわたる占い師達が、新年の僥倖を願う民たちの受け皿となり、彼らの吉凶を占う。

占い師たちは、験担ぎのため城や街の西に集まっている事が多く、その溜まり場がまだ日も昇らない内から人でごった返しているというのも、元日の風物詩だ。


そんなサンダ暦621年の正朔の未明、静まり返ったヤイダ要塞の台郭上の広場に、二機の輸送浮艇が篝火に照らされながら静かに降り立った。


「いやはや...やはり空を飛ぶというのは慣れませんな...。」


二機の浮艇の扉が開き、片方の中からは額に汗かく長髪のタナオード公コートを先頭に、豪奢な長衣に身を包んだイズレールや”守聖使”のフレーンなど、タナオードの高官達が現れ、もう片方からは、防寒着に身を包んだ使用人達が黒塗りに金細工の装飾が施された豪勢な長櫃の数々が運び出された。


「遠路遥々お疲れ様です。」

「はは...年越しは、浮艇の乗組員に教えてもらいましたよ。」


出迎えたソーラに、コートは苦笑いを浮かべながらそう答えた。


「しかし...テオンデール(元会)の儀礼など、いつぶりでしょうな...。」

「グレンデル卿は、王都の元会のご経験が?」

「はい。亡き先代に付き従い何度か。幼心には、各地からの珍しい献上品を見るのが楽しみであるだけでしたが。」


テオンデール(元会)”とは、元日の朝に行われる新年拝賀の儀式である。

各地から公卿百官が都に集結し、諸々の儀礼を通して主君に新年の挨拶と末永い繁栄を祈るものだ。


”大災禍”の後は、タナオードやヘイローダ(抵抗衆)などで、拝する対象を公爵や首長に変更し、規模を縮小してほそぼそと続けられていたものが、今年はアールンの統治・エルドーレン朝の復活を強調するため、旧制に則ったものが復活したのだった。


「では、一先ず控えの間に向かいましょうか。」

「ええ。」


ソーラの言葉にタナオードの者達も頷き、一行は階下の控室へと歩いていった。





主君の出御を伝える清らかな笛の音が、白み始めた空のもと、ヤイダ西郊の仮設会場に響き渡った。


白い幕で仕切られ篝火の焚かれた大庭の中では、ソーラやコート、ハニスカの代表としてゲルト、そして両市の高官や財務官達、更には今日のためにわざわざ招かれた”ヌアチャルテ”のユテ・アラサ・ホナ三氏族の長やそのお付き達が、一様に白色の衣を纏って左右に控えている。


百官達の更に外側には短槍を手にしたタナオード兵が、彼らの正面、殿上へ上がる階段の両脇では霊気銃を手にしたハニスカ兵が目を光らせ、会場の秩序を監視する。


彼らが平伏する先の一段高い殿上に、アルアータを含む4人のお付きを従えて、アールンが姿を現した。

その頭には羽や金の飾りが沢山付いた儀礼用の冠が乗り、纏う衣も、一体何枚重ねているのかと言いたくなるほどの大仰なものであった。


彼が所定の座に腰を下ろすと、それと代わるように大庭に控える群臣達が、視線は伏せたまま一斉に立ち上がった。


そして、ソーラを先頭にコート、ゲルト、ミダルなどヌアチャルテ三氏族の長が順に殿上に上がる。先頭のソーラはアールンの座の前まで歩いていき、そこに設けられた長卓上の赤い酒杯を手にし、両手で胸の前で掲げてこう唱えた。


「臣ソーラ=ベルハール、新年を共に迎えられましたことをここにお慶び申し上げると共に、天下の安寧と王国の繁栄の長久を願います。タロント・サンダ(サンダ万歳)。」


そしてアールンが頷くと、彼女は手にした酒杯の酒を一気に飲み干し、賜物の絹織物をアルアータから手渡され肩がけにし、殿上に定められていた自らの宴席に向かった。


同様にして、あとに続く者達も順に参賀していく。ヌアチャルテの者達はミダルを除いてサンダ語が喋れなかったが、それでも前々から暗記していた定型の祝辞を精一杯口に出していた。


一級の貴人達の拝賀が終わると、続いて殿下の群臣達からタナオード・ハニスカ両市の首席財務官が正面階段のたもとまで出てきて、白木の四角い盆に入った一冊の冊子を恭しく献上する。

これは両市の昨年一年間の会計・政務報告書であり、もともとアールンの管理下にあるものであるが、これを儀礼的に彼に献上して見せることで王権の所在を再確認しているのだ。


「大儀であった。」


二冊の報告書の盆をアルアータともう一人の侍従が回収し終わると、アールンは微笑み、口を開いて労りの言葉を述べた。


それが終わると、大庭では群臣達は庭の端に移動し、空いた空間には使用人や料理人達が、彼らに向けた膳や料理を並べていく。


ここからは、宴の時間だ。


庭の隅に控えていた楽人達が一斉に鈴を鳴らすと、大庭の中央に空いた空間の隅っこに突然光の渦が現れた。

光の渦の中からは細目の女を象った仮面を被る一人の踊り子が現れ、くるくる舞いながら大庭の中央まで移動してくる。


「うわっ!?」

「おおっ!?」


そこで、今度は”水”が爆ぜた。しかし、四方の参加者達に襲いかかったように見えた水しぶきは只の幻であり、群臣達は恐れ慄き思わず身を引くも、自身の衣が無事なことに気付いて呆気にとられていた。


大庭の中心では、踊り子は大きなヒレを持つ半透明の”魚”に身を変じていた。ソーラにとっては少し鳥肌の立つ見た目だが、幸いこの”魚”は害はないらしい。


鈴や太鼓や銅鐘が打ち鳴らされ、笛が高らかに吹かれ、軽やかにして上品な音曲が形成されていく。

魚はその音楽に合わせて会場の空間を縦横無尽に飛び回り、各所で体をのたうたせ、またも幻の水を跳ね上げる。その躍動感のある動きに、並み居る者達は供された美食の膳も忘れ、都度都度驚きの声を上げていた。


”魚”が跳ね上げた水は雲となって会場を覆い光を遮るので、会場は曇天の朝のような暗がりに包まれてしまった。


アールンが立ち上がったのはその時であった。彼は正面階段の上までゆっくりと進み出て、三足の青銅器を両手で天に掲げた。


すると、激しく打ち鳴らされる鈴の音と共に、会場を覆い尽くしていた雲が彼の持つ青銅器に吸い込まれていく。外はちょうど日の出であり、晴れ渡った空の下、西からの陽光が彼の体全体を照らし出していた。

”魚”はいつの間にか消え、代わりに多数の踊り子達が、まるでアールンの聖蹟を寿ぐかのように舞い踊っている。それを前にして、アールンは尚器を掲げて微動だにせず、遥か西の山々の上に昇る太陽に向かって高らかにこう言った。


「遠大なる天よ。神々よ。人界を代表し、ご挨拶申し上げる。恙無きや。」


その言葉が発せれると、踊り子たちは二列に整列して彼に拝礼した。

風に会場の幟旗がはためき、それらも太陽に照らされて煌めいている。


その荘厳な光景に、殿上の人々も、殿前の群臣達も、衛兵すらも見入っていた。彼らはこの時、遥かな昔より栄えしサンダ(中央の人々)の王国、エルドーレン王朝の復活を確かに見たのだった。





新年の儀式は、正朔の”テオンデール(元会)”と二日目の”ランデール(東会)”の2つに分かれている。

前者が”天”と世に在る神々に対する”祭天儀礼”の性格を持つとすれば、後者は”地”と、そこに眠る祖先に対し新年の挨拶をする儀式である。そのため、儀式場の場所も西の城外から東の城外へと移動し、参列者も一日目と対照的に黒い衣を纏うのだ。


それらの儀式が終わると、要塞は新年の高揚感も幾分か落ち着いてくる。そんな中、軍の再編令が下された。


今までタナオードとエーダの連合体の様相を呈していた軍隊は、ここにて新生のサンダ軍に統合・再編され、その兵権はアールンに委譲された。


新サンダ軍の総数は、常備兵力約3万、募兵の推定数も合わせた最大動員可能数は5万に上る。

常備軍は十個の”軍団”、その下の約二百個の”百人隊”に分たれ、各百人隊には霊気銃兵・長槍兵・白兵戦要員の重装歩兵、騎兵、楽隊で構成され、軍団ごとに護衛の武装偵察浮艇が一機ついている、豪華な布陣である。


基本的には、ヤイダ要塞攻略戦で浮き彫りとなったハニスカ式の集団戦術の穴を、タナオード兵の力で埋めた形である。”大災禍”によって中央に居た強力な武人階級の多くが消滅した今、あくまでも戦術の主体は一般民でも十分使い物になるものでなければならなかった。


また、空戦専門の”ケルーケン(飛行部隊)”は残され、王(今は王子)の直属とされた。


各種武官職の授与も改めて行われ、これにて、エーダ平定戦の準備は整った。




ソーラは新たに建設された南の物見櫓の上で、冬の黄色い陽光に照らされる北の平原を眺めていた。


暦は既に”タン=タルシンス(大寒ノ下)”(1月)も終盤である。まもなく山々から雪解け水が流れ出し、川が増水する”ホーロシンユ(融雪)”の月になるだろう。

思えば、チロンへの征戦が”ヘイローダ(抵抗衆)”内で定まったのが去年のタン=ホーロシンユ(融雪ノ下)(3月)のこと。あれからもうすぐ一年、かくも様々なことが変わってしまったものだ。


(あの時の自分は、今思えば本当に世間知らずでしたね。)


ソーラは漆黒の髪の毛をいじりながら溜息をついた。この世は、本で読んだよりもずっと広かった。広く、恐ろしく、そして美しかった。


「おう、居ねえと思ったらこんな場所に居たのか。うっしょ、うっしょ。」


不意に、足元から声がした。

背後の梯子の方を振り返ると、そこからはヴェラードが、その大きな体躯を梯子穴から一生懸命引き抜くようにして上ってきた。


その肩には、王国軍の軍人を示す濃緑の布が掛かっていた。


「建設部に言って、梯子穴を広げてもらいますか?シルスレン卿。」

「いや...遠慮しとくぜ。」

「さっさと上がりなさーーい!!!」


体を中程まで出したヴェラードの下から、これまた聞き慣れた声が響いてきた。

彼に続いて物見櫓の上に上がってきたのはアルアータであった。最近は、非番の時はヴェラードと共に飲み比べの再戦をしていることが多いらしい。2人は真反対の性格の筈だが、不思議とその凸凹が噛み合っているようだ。


「いや〜、いい景色だなぁ。」


高所からの景色を眺めながら、ヴェラードはそう言って深呼吸した。


「して...私を探していたようですが、どうしたんですか?」

「ああ、そうそう...これはあんたにとっちゃキツイ話かもしれんが......エーダに密偵を放った事は知ってるよな?」


ヴェラードの問いに、ソーラは頷いた。

相手を知るという戦略の常道に則り、サンダ軍は数日前にエーダに複数の密偵を放っていた。


「その多くは相手に気取られたのか、音信不通となってしまっているのですが...今日只一人帰還した者が、このような報告を齎したのです。『ワンデミードからの援軍が、街に入った。』...と。」


ヴェラードの言葉を継いだアルアータの言葉に、ソーラは目を剥いた。


「それは...つまり...まさか...。」

「恐らく、戦になればあんたは身内に刃を向けなきゃならなくなるかもしれねえ。その心の準備...を、しとけっていうことを言いに来たんだ。」


彼らは既にソーラの出自を知っていた。これは彼らなりの気遣いなのだろう。しかし、長い試練の旅を経た彼女には、その言葉に悲観以外の感情を抱けるようになっていた。


「ならば...なんとか出来るかもしれませんね。」

「んん...?何とかって...。」

「これは、魔物の大軍がでてくるよりも寧ろ好都合でしょう。なんたって、彼らは顔見知りなんですから。」


そう言って、ソーラは微笑んだ。





増水したカイラン川の薄青色の本流に沿って、河原に馬防柵や緑の幟旗、長槍の群れが並んでいる。川の流れの上では背後の戦陣に見守られつつ、渡河のための仮設橋の建設が始まっていた。


新型の霊力浮遊足場の上を伝いながら、川の直上で男たちが水底に丸太を打ち込み、梁を通し、釘を打ち付け、板を被せる。


サンダ軍は、増水期に入ったカイラン川の渡河に際し、蛇行した川の流れが戦陣に近く安全に渡れる位置にある地点で、早々に本流を突破してしまう作戦に出た。


そこさえ突破してしまえば、あとは時折現れる河跡湖の深みに足を取られないようにだけ気をつけつつ、浅い支流を渡渉して河原を一挙に突破できる算段であった。


「あれは...。」


馬防柵を挟んで、薄い霧の向こうに、見慣れた橙色の幟旗が見えた。今になって、ソーラは自信がすこし揺らいでいるのを感じ、密かに息を呑んだ。


5基の仮設橋の設営が完了し、工人達は戦陣の後方に退避する。


ソーラは左手を固く握った。そこには正朔の折、挨拶に来ていたラディンとティナが安装(インストール)してくれた彼女用の”ハリージェ”が嵌っていた。


その中には、霊気短銃と大量の弾倉が入っていた。


「危なくなったら、何があろうと必ず戻ってきて下され。」


緑色の軍服の上に肩当てのない簡易な札甲を纏い、外套をたなびかせてネルトレイフに騎乗したソーラの横で、アルアータが神妙な面持ちでそう声を掛けた。

戦を避けられるならば、それに越したことはない。だからか、交渉役としてのソーラの推薦にはアールンも二つ返事で頷いた。

しかし、そうはいっても危険な役回りであった。


ソーラは心配する兵たちの視線を受けつつおもむろに陣地を出て、厳しい鉄仮面を被った四騎の重装騎兵を伴って川を渡り、礫の河原を進んだ。



向こうが交渉に応じるかは全くの未知数であり、その面でこの作戦は半ば賭けでもあったが、幸いにして対岸のエーダ・ヘイローダ軍陣地からも、少数の騎馬が出てきた。


彼らの真ん中の大槍を携えた輝く鎧の騎士に、彼女は見覚えがあるような気がした。



騎士は両軍のちょうど中間で手を上げて配下を止め、紫がかった短髪を風に揺らしながらソーラを見た。

それに対し、ソーラも重騎兵達を止め、口を開いた。


「貴方は、確かラインタ家の...。」

「ジアンだ。サンシェラエン(央監軍)、ジアン=ラインタ。オルトアネタルエブン(右面大尉)、ホレーム=ラインタが第二子。」

「そうでしたね。御父上はご息災ですか?」

「ああ、絶好調さ。まあ...そっちの親父殿はぁ、その限りではないようだがなぁ...。」


少し不遜な物言いでそう言った目の前の青年に、ソーラは笑顔を貼り付けたままに、僅かに眉間にしわを寄せた。


「私の父はお元気ですか?」

「病気の話は聞かないがなぁ...もう随分前に首長の座を()()()ぞ。他でもないお前のチロンでの大敗のせいでなぁ...。」


大方、引きずり降ろされたのだろう。20年も経てば、嘗て軍を仕切っていた人物とは言え、父ワールディの独裁状態を妬む者は数多かったのだ。

わざとらしく顎に手を当てて、ジアンは続ける。


「思えば...お前が俺やリードとの縁談を全部断ったのが、あの爺さんの運の尽きだったのかもしれんなぁ..。」

「そうですか。」


その挑発は露骨すぎて、もはや乗るほうが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

唐突に吹いてきた強風に耐えた後、ソーラは口を開いた。


「ともあれ、我々にはここで争う意味はありません。我らの陣の軍旗をよく見なさい。このままでは、貴方は朝敵の汚名を着せられてしまいますよ。」


その言葉に、ジアンは手を翳して大仰にサンダ軍の陣を眺め、馬鹿にした口調でこう言った。


「ほほーう、確かにあれはエルドーレンの軍旗だ。蔵から引っ張り出して埃を払うのがさぞや大変だったことだろうなぁ。で、あの主は...果たして本物のエルドーレンなのか?」

「何を言い出すかと思えば...。」


ソーラは大きな溜息をついた。


「エーダの長から聞いたぞ。あのエルドーレンは偽物だってな。」

「その”長”は魔との繋がりがある者なのですが、其の者の言う事は信じるのですね。」

「まあ...俺にとっちゃ、どっちの真偽もどうでもいいんだがな。実を言うと、大義名分は何だっていい。大事なのは、エーダと”ヘイローダ(抵抗衆)”はある”契約”を行ったということだ。それを破り、信用を失えば、エーダとはおろかエイローアとの通商すら覚束なくなるだろう。まあ...自軍の兵を見捨てて雲隠れした無責任なお嬢様には、分かるはずもないかな?」


ジアンはそう言って、ソーラの顔を覗き込んだ。


「はぁ...。しかし、それが朝敵に、ひいては魔に与することでサンダの人々皆の敵となるに足る理由と申せましょうか?」


ソーラが何度目かの溜息をついて冷たくそう言うと、今度はジアンが顔を顰めて語気を強めた。


「フン...その顔、覚えてるぜ。見合いの時もそんなんだったよな。もうちょっと柔らかくなれよ。いや、強情な所はあの親父殿譲りなのか?クソ、いらいらするぜ。」

「質問に答えなさい。」

「朝敵となるに足るかって奴か?答えは、そうだな...。」


刹那、彼女は顔に風圧を感じた。


目を見開いて思わず振り返ると、斜め後方にいた護衛の重騎兵が、ジエンの大槍に胸甲を貫かれて落馬していた。


「ッ!!」


反射的にソーラはハリージェから短銃を素早く出し、両手でジエンに向けて発砲した。

至近距離から放たれた3発の霊気弾は、全弾が彼の輝く胸甲を貫通し、彼はもんどり打って落馬した。

彼を守ろうと、ヘイローダの騎士達が抜剣する。


一触即発の空気の中、ジエンは震える手をついて起き上がった。


「はっははは...。」


裏返ったような声で、笑いながら青年は続ける。


「クソ、何なんだよお前、親父のゴリ押しで総大将になりやがって...今度は”紅玉の従者”だぁ!?ふざけんなよ...!」


そこで、ジアンは一瞬ぼーっと立ち尽くしたあと、不意に再び笑い出した。


「ハハハハハハハハ!!!良し!この負の力さえアりゃあ...ったく、やーっと出られるぜェ。」

「貴方...ラインタ殿ではありませんね。誰ですか。」


ソーラの誰何に、”それ”はふっと笑みを返すのみだった。


そして、胸の3つの穴から赤黒い何かを沸き立たせ、それで全身を包んでいった。瘴気はジアンの体を覆い尽くしても尚止まらず、何倍もの大きさに膨れ上がっていった。


「これは...まさか...!」


赤黒く禍々しい渦の中から、背丈が城壁の高さほどもあるずんぐりした魔物の姿が現れた。


「ドッドロイ(巨大)だ!!!!」


ソーラの護衛の一人がそう叫んだ。

その名の通り巨大な魔物の腕が、近場にいたヘイローダ騎兵達を、彼らの馬とともに薙ぎ払った。




ソーラは河原を駆け回りながら、あらん限りの霊気弾をドロイに叩き込む。図体が大きい分馬上で移動しながらもしっかり命中させられるが、魔物は命中部から黒煙を上げるのみでいっこうに倒れる兆しすら無い。


(であれば...!)


短銃を”ハリージェ”に仕舞い、彼女は剣を抜いた。

右手の能力もあるが、体への負荷を考えれば攻撃手段としての使用は奥の手にしておきたい。


「行きますよ!!!」


そう叫んで。ネルトレイフに拍車をかける。彼女の護衛の重騎兵達も一旦退避して体勢を立て直し、次々にドロイへ向かっていった。


対して、ドロイは河原の礫岩を取り、彼女らへむかって投げつけてきた。

それに対し、ソーラは瞬時に光壁を展開してその散弾を防いだが、直撃した一騎の騎馬が地面に崩れ落ちた。


ドロイは肉薄してきた別の騎兵に対し、再びその凶悪な腕を叩きつけ、騎兵は馬と”一体化”してしまった。しかし、ソーラはその光景にも臆すること無く隙をつき、ドロイの無防備な足を剣でざっくりと切りつけた後、すれ違いざまに光の槍を一つ生成してドロイの背中に投射した。


「グォオオ!!」


魔物はそう鳴き、膝をついた。


(よし!!これなら勝てる!!!)


あの”怪異”ならいざ知らず、魔物に対してならばこの光の攻撃は有無を言わせぬ強さを発揮するようだ。


ソーラは反転し、追撃を加えんとして魔物に迫り、再び足に斬りつけた。

しかし、通り抜けざま、ソーラは背中に特大の衝撃を受けた。


「があッ!?」


ネルトレイフとソーラはほぼ平行に飛ばされ、近くを流れていた水の流れの中に落ち、彼女は川底に腰を打ってしまった。


「ごぽっ、ぶはっ!」


剣はどこかに落としてしまった。ネルトレイフは近くの河原に倒れていた。

冬の冷たい川の水は、彼女から体温と冷静な思考とを奪っていく。


「はあっ、はあっ。」


震える足で立ち上がるソーラの視界に、巨大な魔物が腕を振りかぶり、大岩を投げようとする姿が映った。

その標的は、無論彼女だ。

しかし、痛みと寒さにソーラは何も考えられず、これから襲い来るであろう苦痛の濁流を想像し、涙目を瞑った。


大岩は投げられ、彼女に向かって一直線に向かってきた。



しかし、そこでひょうううという音がした。

刹那、大岩には大量の「矢」が命中し、その衝撃から軌道が逸れた岩は彼女のすぐ近くの水面に落下して水しぶきを上げた。


矢は大岩だけにとどまらず、幾つかはドロイ本体の頭部にも命中していた。


振り返ると、そこには待ち侘びた人の姿があった。





全てを捨てる覚悟ができなくなったのは、いつからだ?


自分一人でやろうとして、些細なことに拘って、恐れて、大事なものをまた失おうとしている。


脳裏に、コアルやクレール、カートの顔が浮かんでは消える。


もう、疑うのはこれまでにしよう。どうなってもいい。ソーラを彼らの列に加えるのだけは嫌だった。


アルアータ達の制止を振り切り、アールンは厚い外套を脱ぎ去ってクルキャスに飛び乗った。愛馬は待ってましたと言わんばかりに急加速し、橋を渡って河原を突き進んだ。


しかし、馬上のアールンの体感時間は徐々に遅くなっていった。


(もう一度、力貸してくれ。)


彼は背中から”巻狩の弓”を取り、矢を一本つがえた。狙いは、彼の宿敵が投げた大岩。あの時防ぎ得なかったもの。でも、もうあの時とは違う。


彼は動きの遅くなったクルキャスの上で、次々に矢を放っていった。矢は弓から離れるとゆっくり標的に向かって飛んでいく。それに構わず、彼は矢を次々放っていく。


何十本も入っていた背中の矢筒が空になると、世界は加速していった。


岩は大量の矢の衝撃で軌道をずらし、ドロイは頭を抑えて倒れた。


彼はへたりこむソーラの横を走り抜け、ドロイに肉薄。馬の背に立って跳躍し、仰向けに倒れたドロイの腹の上に着地、即座に首元まで走り、そこを得物の長剣で滅多刺しにした。


赤黒い血が吹き出し、魔物は二度と動くことはなかった。


「はあ...はあ...。」


彼は長剣を引き抜き、血を浴びながらドロイの胴体を滑り降り、クルキャスを引きつつソーラのもとに駆け寄った。

しかし、ずぶ濡れになった彼女のもとに到着した途端、彼は彼女に何と声をかければよいかわからなくなってしまった。


その身を案ずるには、彼女を傷つけすぎてしまったような気がした。

押し黙ってしまったアールンに、ソーラは息をついてから口を開いた。


「大丈夫ですよ。」

「...本当に?」


思わず訊き返してしまったアールンに、ソーラは優しく微笑んだ。


「ええ。全身が痛くて、水に濡れて寒いこと以外は。」


その言葉に、彼は暫しの思案の後、ソーラの体を両手で包んだ。


「...こうすれば、ちょっとは温かくなるか?」


ソーラは最初こそ少し目を見開いたが、すぐに笑顔で彼の体に手を回し返し、こう答えた。


「はい、とても。...あら?」


ソーラの背を、いつの間にか起き上がっていたネルトレイフが、その鼻で小さく押した。

首を振って鼻を鳴らし、自身と主人の無事を喜んでいるようだった。


「ん?...はあ、無粋な奴だな。」


少し不満げに言ったアールンに、ソーラは苦笑した。


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