巨大蜘蛛
「後ろ!」
白マフラーに触ろうとしていた手を、無理やりホンファに突き出す。
不意を突かれてよろけた彼女と刹亜の隙間を、成人男性の腕ほどある太い蜘蛛の糸が貫いていった。
ホンファは振り返ることなく一瞬で怪獣化すると、真上に飛び立った。
置いて行かれた。そんな考えが脳裏を過るも、すぐに目の前の相手に集中する。
音もなく糸の上に現れた一体の怪獣。見た目はまんま巨大蜘蛛。白黒の縞模様で、この場にあっては保護色として機能している。
ただ、巨大なのは間違いないが、件の真珠蜘蛛に比べると遥かに小さいように感じられた。実物こそ見ていないが、資料によれば真珠蜘蛛の大きさは優に十メートルを超えるサイズと書かれていた。しかし目の前にいる蜘蛛はせいぜい体長二メートル程度。人と同じサイズというだけで十分脅威ではあるが、絶望感はそこまで覚えずにいられた。
「……いや、もしこれが真珠蜘蛛の子供だったりしたらまずいか」
怪獣が子供を産むという話は聞いたことがない。それは同時に、どうやって怪獣が増えているのかを説明できていないという意味でもある。
つまり今この場で、真珠蜘蛛の子供が唐突に生まれている可能性も否定はできない。
「うお!」
そんなことを考えていると、再び巨大蜘蛛が糸を吐き出した。
体をよろけさせながら間一髪で避ける。すぐに正面に視線を戻すも、巨大蜘蛛の姿は消えていた。
「……逃げたか? いやそりゃ楽観的過ぎるか」
刹亜は白マフラーを軽く二回タップする。
それから目を閉じ、聴覚と触覚に全神経を集中させた。
首の真後ろから微かに振動が伝う。
刹亜は目を開けると、素早く右に飛び退き背後を確認し――
「安心しろ。もう終わった」
巨大蜘蛛を踏み潰したホンファが立っていた。
原形も留めないほどバラバラにされた巨大蜘蛛の上で、彼女は怪獣化したまま刹亜を見つめる。
刹亜は数秒間呆気に取られていたが、助けてもらったことを理解し感謝の言葉を述べた。
「助かったわ。てっきり見捨てられたかと思ってたのに。ありがとな」
「礼には及ばない。こちらも目的は果たせそうだからな」
「ん? どういう意味――」
素早くホンファの手が動き、刹亜の首に巻かれた白マフラーを掴み奪い取る。
あまりの速さに何が起きたか分からず、刹亜は抵抗することなく呆然と見守る。
ホンファが興味深そうに白マフラーを調べるのをしばらく眺めた後、はっと状況を理解し、慌てて白マフラーに手を伸ばした。
「お前何すんだ! 人のもん勝手に取ってんじゃねえ!」
「これがお前たちの秘密なんだろう」
刹亜を軽くあしらいながら、ホンファは誰にともなく語りだす。
「戦艦亀での一件。御園生が解決したとするには不自然な点が多い。お前たちの証言通り裏切者が奴だったのなら、御園生の『篝猫』についても対策は十分立てていたはずだ。犯人だとばれることが想定外であり、直接の戦闘を考えていなかったとしても、それで怪獣化したての新人に負けるなど考え難い。何かもっと、イレギュラーが発生したと考えるのが自然だ」
「……そのイレギュラーが俺ら、つうか俺の巻いてるマフラーだってことか」
「その通りだ」
怪獣人間相手に力で取り返せるわけもなく、刹亜は諦めて座り込む。
ホンファは白マフラーを引っ張ったり揉んだりしてから、眉を顰め首を傾げた。
「おい、これはいったいどうやって使うんだ」
「知るか」
刹亜は投げやりに返す。
最初こそ急なことで戸惑ったが、今はだいぶ冷静さを取り戻していた。
特務隊に入ることを決めたとき、いや、リュウを居住区に連れていくことを決めたときから、こうして白マフラーを奪われることは想定していた。
それゆえ、対策もしっかりと練ってある。
いくら弄り回しても何の反応もないため、ホンファの表情が徐々に陰っていく。それからぼそりと「刻んでみるか」と呟いた。
「おいおいおいおいおい。流石にそれはふざけんな」
刹亜は素早く立ち上がり、再び取り返そうと手を伸ばす。
彼女は今度はあっさり返却すると、じっと刹亜の顔を見つめてきた。
「大切なものなのは事実か。しかしどうにも余裕が感じられるな」
「そりゃ後ろ暗いところはねえからよ。それよか、これで少しは疑惑は晴れたかよ」
「いや。より疑わしくなったな」
「……」
無表情で淡々と答える様からは、冗談か本心かがさっぱり読み取れない。
ただ楽観的に捉えることなどできるはずもなく、刹亜は大きく息を吐きだした。
「仲間同士でそんな疑いあうのは無駄だと思うんだがな」
「そう思うなら本当のことを話せ」
取り付く島もない態度にもう一度溜息を吐く。
これ以上問答していても平行線だと考え、刹亜は最奥へと向かって歩みを再開する。
と、そんな二人のすぐ近くに、丸いボールのようなものが転がってきた。
まさかまた蜘蛛が襲ってきたかと身構える。しかしボールは一度動きを止めると、それ以降全く動かなくなった。
近づかずに、目を凝らしてボールを見つめる。
黒と肌色。一部やや赤く染まって見えるボールの正体。
それが先ほどまで行動を共にしていた、第六部隊の隊員――斎藤洋司の生首であることに気づき、刹亜はヒュッと息をのんだ。