煙になるまで ― 娘の門出に
ぼくは、たばこ。
箱から抜かれ、指先に挟まれたときから、
今日の火は、いつもより重いってわかった。
場所は結婚式場の裏、スタッフ通路の脇。
吸い手は、新婦の父親。
きれいに決めたスーツの袖が少しだけよれているのは、
この日が、どれだけ特別かって証だ。
カチッと音がして、火がともる。
ぼくの先端がじわりと赤くなって、煙を上げる。
一口目。
吸い込まれて、彼の胸の奥へとしみ込む。
そして長く、静かに吐き出された息に混じって、
なにか言葉にならない感情がひと筋、流れてきた。
「……あいつがな、初めて自転車乗れた日があってさ」
誰に語るでもない、ただの独り言。
でも、それはたしかに、ぼくに語りかけているようだった。
「サドル高すぎたんだよ。足つかなくて転んで、それでも“乗れた”ってドヤ顔してさ……あれ、なんだったかな、小一?」
彼の口元が少し緩んで、煙と一緒に笑いがこぼれる。
ぼくは燃えながら、その話を黙って聞いていた。
「もうそんな子が、白いドレス着て、俺の手ぇ離れてくんだよなぁ……はは。参ったな」
声は笑ってる。でも、煙は少し湿ってた。
きっと、泣くほどじゃない。でも、泣けるくらいの気持ちがある。
ぼくの仕事は、そういう“揺れてる気持ち”を吸い取って、
煙にして空に逃がしてやること。
吸って、吐いて、落ち着かせる。
何も言わなくていい時間をつくる。
それがぼくの火の使い道。
彼はまたひと口吸って、
空を見上げた。
「……スピーチな、書いてきたけど、たぶん読めねえな。
あんなの、声に出したらたぶん…途中で……」
言葉は消えたけど、
そのあとに、煙が“言えなかった気持ち”のかたちをして、ふわりと立ちのぼった。
ぼくはもう短い。あと数吸いで、火は尽きる。
でも、そのあいだに彼の呼吸は、少しずつ落ち着いていった。
指が軽く震えるのも止まって、
目線が、前を向く。
最後の一吸い。
ぐっと吸って、静かに吐いたあと、
彼はぼくを灰皿に押し付けた。
「……よし、行ってくるか。俺の一番、大事な仕事だ」
ぼくは灰になったけど、
きっと彼の胸の奥には、ぼくの煙が少し残ってる。
それは、ドレス姿の娘にちゃんと届けるための、
言葉にできない“想いの火”だったんだ。
そして今日も、ぼくは火を灯して、誰かの背中を押す。
煙になるまで、精一杯のぬくもりを残して。