龍と妖狐と魔法の小刀(38)納得できない男:ヤフェル・フォルゲンゼル
四方を砂漠に囲まれたオアシス都市を渡る風は、太陽に晒されて乾燥している。
人々はその乾燥した気候のなかで、ラクダと共に砂漠を歩き、船と共に河を渡り、商いをしながら生きている。
バルナガラン、オルジェンらに同行してエルバハンまで来たヤフェル・フォルゲンゼルは、活気に満ちたエルバハンの街中を何ひとつ見もせず通り過ぎ、漁師たちが小舟を浮かべる湖を眺めながらひとり失望に打ちひしがれていた。
自分の祖父たちは、神の加護を受けた王子の遺骸を盗賊の手から守った。
その祖父はフォルゲンゼル一族の英雄であった。
祖父の故郷スタルサランから訪ねてきた者たちからも、豪商であった祖父は王子の遺骸を守った英雄なのだと褒めたたえられていた。
リゲル・ヴァン・フォルクサンが「自分の物だ」と主張してその遺骸を買い取ったとはいえ、祖父や自分が盗賊だと判断していた人々がエルバハンというひとつのオアシス国家の王とその兵であり、長年、殺された我が子の遺骸をひとつひとつ探しては取り戻してきた父親であることなどは彼女が来るまで誰からも言われなかったし、彼女がいなくなってからも言う者はいなかった。一族中から、リゲル・ヴァン・フォルクサンにジャファール王子の遺骸を奪われたことに苦言を呈されはしたが、それだけであり、一族のなかではリゲル・ヴァン・フォルクサンこそが悪人だった。それゆえにヤフェルは、ここに来るまで祖父のこと、フォルゲンゼルの一族のことを「王子の遺骸を守った英雄とその一族」であると信じていることができた。
だがここに来てエルバハンの兵士が祖父の故郷であるスタルサランの名を聞いて嫌悪を示したことに、ヤフェルの矜持は傷つき、心は重くなる。
(まさかエルバハンでは本当に、祖父やうちの一族が敵だと思われているのか?)
ヤフェルは心の片隅で、リゲル・ヴァン・フォルクサンがなんと言おうと、王子の遺骸を守った祖父はエルバハンの民にも歓迎されると思っていたし、だからこそオルジェン教授がエルバハンに行くという話を聞いて随行を申し出たというのに、エルバハン王宮の兵士がヤフェルに見せた態度によって、その期待は裏切られた。
(王子の聖骸をヤフェル・アーバハンに見せなければよかった)
ヤフェル・アーバハンと名乗った子供、リゲル・ヴァン・フォルクサンにジャファール王子の遺骸を見せなければ、王子の頭と心臓を彼女に奪われることはなく、祖父たちは英雄のままでいられただろう。
なぜ彼女に王子の遺骸を見せようと思ったのか。
(あの子がジャファール王子の物語を知って、その王子様に憧れる女の子なのだと思ったから、その王子様を見せてあげたいと思っただけだ)
普通の女の子ならばいくら憧れの王子様とはいえ、王子様の首を見せられて喜ぶはずもないが、子供の頃から王子の首と心臓を聖遺物として見せられてきたヤフェルはそんなことを思いもしなかった。
ただ、リゲル・ヴァン・フォルクサンに見せたら驚くだろうと、期待した。
驚かせ、それからどうして欲しかったのかと言われれば、自分の一族を称賛してほしかった。
貴族として何ひとつ不自由なく育ったであろう少女に、ひたすら遺骸を守る一族として認められ、あわよくば第一環状区の侯爵邸に招かれたり社交界に同伴したりという、思惑すらあった。
(こんな異国まで来たのに)
リゲルに遺骸を奪われるきっかけを作ったことで自分は一族から罵倒され、義に篤い一族に対する侯爵家からの称揚も得られなかった。
(リゲル・ヴァン・フォルクサンが何を言おうと、畢竟バルキア人なのだから気にする必要もない、彼女がどうあれ、エニシャに行けば、エニシャ人はきっと一族を称賛してくれると信じていたのに)
鬱々とした表情で湖を眺めていたヤフェルは嘆息し、それからバルナガラン・ガトゥーシュに思いを馳せる。
元は第八環状区の警邏隊長であった男。
第八環状区は、バルキアの王都シャタンカルに住む者たちのなかでも、中流階級以下の貧困層が多い区画で、それだけ、ほかの環状区と比べて警邏隊の質も低い。ヤフェルは彼ら第八環状の警邏隊を、賄賂でどうにでも動く連中と認識して軽蔑していた。
なかでも、バルナガラン・ガトゥ―シュという男は、今は失脚した宰相に尻尾を振って死刑囚を見逃し、さらには宰相派の求めに応じてカルシュ・ヴァン・ゴージャンという中立派期待の星であった伯爵家の青年に対する冤罪を偽証する協力者を見繕うことまでしておきながら、頭に血が上った勢いで部下を殺した際に、図々しくもその偽証を証言し、再審をカルシュに有利にすることで、自分の刑期を短縮するという司法取引を行った狡猾極まりない男である。
そしてヤフェルから見れば「そんな程度の男」であるはずのバルナガランが、ヤフェルに向かって、現実を言葉にして突きつけた。
煙みたいに消えちまう空想の悪魔には、人も龍も殺せない。だが従弟ってやつには殺せる。なら、悪魔ってのは現実にいて、実際、ここの王子の従兄弟だったんだろう。そうしてそいつは殺した従兄の死体をバラバラにして、まるでありがたい物かのように王子の信奉者たちに与えた。そんなところかね。
おまえさんのジイサンみたいに、王子の死体をありがたがるヤツは、犯人にとって殺した死体を隠してくれる都合のいい協力者だっただろうよ。よかったじゃねえか、あの小僧はこの国がおまえさんご自慢のジイサンをどう思ってるのか、教えてくれたんだ。
ヤフェル・フォルゲンゼルは英雄である祖父や一族を受け入れてほしくてエルバハンまで来たというのに、ヤフェルが受け入れることのできる現実はここになかった。
否定、また否定、そして否定。
自分の家から聖骸を奪ったリゲルは、今や人民の守護者という称号を得た。
俯かせていた顔を上げ、ヤフェルは眼前に広がる湖を見た。
砂漠に湧いて澄み切った水は陽光にまぶしくきらめき、白い三角帆を張った小舟の上で動き回る漁師たちを点のように朧げに見せる。
ふと、その上に広がる黒味すら帯びた青空が、ヤフェルの思いに濃い影を作り出した。
「リゲル・ヴァン・フォルクサンは、そんな聖人君子ではない」
幼いころから見慣れた顔で自分の前に姿を見せたジャファール・エルバハンもまた、ヤフェルに違和感を抱かせた。
子供の頃から、王子の亡骸を守らねばならないのだと言われ、その首を見てきた。だが目を開くことも喋ることもなく、ただ物体としてヤフェルの前にあり、ヤフェルが思うことを好き勝手に話しても反論すらしてこなかった首とは違い、ジャファール・エルバハンは、目を開き、表情を変え、言葉を喋る存在として現れ、さらにあろうことか、首の持ち主として、自分たちフォルゲンゼルの一族に守られてきたことについて感謝すらしなかった。
ヤフェルはまた言葉を音にする。
「ジャファール・エルバハンは恩知らずだ」
思ったことを口から言葉に出してため息をつき、それからおもむろに、湖を囲むように作られた遊歩道に置かれたベンチから立ち上がり、ヤフェルはエルバハン王宮に戻る道を歩き出す。
雑踏を歩くヤフェルの耳に、エルバハンの人々が発する明るい声は苛立ちをもたらすものでしかなく、その声から逃げたくて人の波でごった返す市を足早に通り抜けようとすれば、当然のように往来で人とぶつかった。そうして、ぶつかった相手から困惑や批難の視線がヤフェルに向けられることになり、ヤフェルは苛立ちを表情に出した。
「邪魔だ、通らせてくれ」
声に乗る棘を隠しもしないヤフェルに、相手は呆れた声を返してくる。
「ぶつかった相手に謝りもせず、なんだい」
「そっちが道を塞いでたんじゃないか」
ヤフェルの愚痴に、ぶつかった相手が唖然とした。
「こっちは店の旦那と交渉してたんだよ、あんたが避ければよかっただろうが」
「道のど真ん中で交渉しないでくれよ!」
「道のど真ん中だって? 店の前だ」
「店の前? 雑踏のなか、道のど真ん中に露店を広げているこれが店だっていうのか?」
バルキアでは通りに大きな市が立つことはない。市が立つのは大通りと地続きで露店の設営が認められる広場であって、例えば王都シャタンカルであれば中流階級の市民が多い第四環状から第五環状に限定されていた。
ヤフェルは父や祖父と同じ系統の顔立ちを持ち、彼らと同じエニシャ語を喋る相手を前にして、エニシャの法はバルキアの法とは異なるという、法律家ならば知っているはずの些細な常識を失った。
「なんだい兄ちゃん、俺の店は店じゃないとでも言うのか」
ぶつかられた男ではなく、彼が交渉していた店の主人が露店の商品越しにヤフェルに言い返す。
そこからは三方が売り言葉に買い言葉で言い争いに勢いが付き、ヤフェルは口を滑らせた。
「エルバハン人というやつはどいつもこいつも……」
ヤフェルの相手の男たちも、露天商の周りに集まった野次馬たちも、ほんの一呼吸分ではあったが言葉を失い、次の呼吸を肺に吸い込んだ者から口々に罵声が飛ぶ。
「なんだと?」
「エルバハン人が嫌いならなんでここに来た!」
「そもそもおまえがよそ見してぶつかってきたんだろう!」
市が荒れる。
日々同じように繰り返される生活の音で作られた雑踏は罵声が飛び交う喧噪に変わり、ヤフェルを追い詰めた。
「お聞きしたいのだが」
バルキア人でもエニシャ人でもなさそうな格好の男が、人混みをかき分けるようにしてヤフェルの前にまろび出る。
男は黒髪を頭上でひっつめて簪で留めるという、ヤフェルが見たことのない髪型で、ボタンのひとつもないバスローブのような服を着た、見たところ二十代ぐらいの若者だった。
「事情が分からないで差し出がましいことと思わないでいただきたいのだが、周りに聞いたら、人にぶつかっただけの諍いが、どうしてかこの国の人たちを貶すような言葉にまでなったと言うので、興味がわいてしまった」
青年は申し訳なさそうな苦笑を浮かべつつ、実のところはそんなこと心にも思ってなかろうとわかる程度の軽さでヤフェルに訊ねてくる。
「あなたはエルバハンになにか、嫌な思い出でもおありなのだろうか?」
ヤフェルは、青年を睨んだ。
「うちの一族は百年の間ずっとこの国の王子を守ってきたというのに、王子も、エルバハン人も、恩知らずばかりだ」
青年はヤフェルをじっと眺め、それから呟くように「なるほどね」と頷く。
「場所を変えて話を聞きたいのだが、お忙しいだろうか?」
のんびりとした口調で返してくる青年は、少しばかり周りを見回してからまたヤフェルに視線を戻した。
「失礼、私の言葉はあなたに通じているだろうか? 道具を使っているので一応は通じていると思うのだが」
困ったように言う青年に向かって「通じていますが」と返事をしてから、ヤフェルはどういうわけか、罵声を飛ばすことに熱を入れていた野次馬たちが静まり返っていることを知る。
青年は安心したのか満足そうに表情を動かし、それからヤフェルがぶつかった相手に視線を向けてひとつ頷き、ヤフェルに視線を戻した。
「私はこの国の法に精通しているわけではないので、まずはこの人混みについて、他人にぶつからずに歩くのは至難の業だろうと思う。だから、ぶつかったあなたも、ぶつかられた彼も、お互い様ではないだろうか?」
ヤフェルは嘆息しながら頭を振る。
(場所を変えてとは言うが、結局、この男も僕が悪い前提か)
しかし男は、露店商の主人と交渉していた男のほうに顔を向けた。
「あなたは、きっと『当然、避けてもらえるだろう』と思っていたのだろうが、急いでいる人間が、必ずしも都合よく避けてくれるとは限らない。しかも、これだけの大きな市だから、そんなことは日常茶飯事だ。違うかな」
有無を言わさぬ様子で訊いた青年は、ヤフェルにぶつかられた男が頷くのを確かめる。
曖昧な雰囲気はあったが、ぶつかられた男はヤフェルを見て息をついた。
「そいつは兄ちゃんの言い分で違いやしないが、あいつが先に難癖付けて来たんだよ」
青年は反論を聞いて頷く。
「なるほど。ところで、少々、冷静になっていただけたかな?」
「あ?」
「水掛け論になっているようだった」
青年に言われて、相手は困ったような表情で「ああ」と天を仰いだ。
「だがな、そいつは『エルバハン人というやつは』と貶してきたんだよ。そう言われちまったらこっちだって腹の虫がおさまらん」
ヤフェルは男の言い分に唇をかみしめ、青年はそんなヤフェルを振り返って苦笑した。
「その文句は私にも聞こえていた」
青年に向かって首を振り、ヤフェルは嘆息する。
(そこに戻るわけだ)
だがヤフェルはふいに少し前の会話を思い出す。
青年は先ほど「この国の法律に精通しているわけではないが」と前置きをしていたのだから、少なくとも法律の知識があるのだろう。
法律の徒として、諍いの仲裁というのは、ある程度とはいえ感情が最後に物を言う世界であることはヤフェルも理解している。
そして、相手は顔見知りだったわけでもなく、ただ、往来でぶつかり、ヤフェル自身が先に「そっちが道を塞いでいたからだ」と、この市が日々どのように開かれているかもしらないままに、自分が知る世界の常識だけで苦情を言った。もちろん「この市がどんなものか知らなかった」と主張することはできるが、外国人だから何をしても無罪放免だというわけでもない。それも理解できる。
ヤフェルは俯いて自分のつま先を見てから目を閉じて首を振り、それからぶつかった相手を見て息を吸い込み、一度、じっと黙り込んでから唇を湿らせて口を開いた。
「申し訳ない。ここに来る前から少し苛立っていたもので、ぶつかった相手に失礼な物言いになった」
パチンと横でひとつ手を叩く音がしてヤフェルが振り向けば、仲裁に入った青年が無表情で相手の男に視線を向けている。
「聞いた通りだ。はっきり言って八つ当たりだが、別のところでエルバハンの人と揉めたばかりであれば、異国から来た御仁が見知らぬエルバハン人を相手に、『エルバハン人というやつは』と苛立ってしまっても仕方ない。この御仁はまだ『善きエルバハン人』と巡り合えていないのかもしれないし」
ヤフェルは青年の言い分を聞いて呆けた。
ぶつかられた男や、野次馬たちも呆けていた。
青年だけが、ひとり同意を求めるかのように周囲を見回し、それからおもむろに腕組みをして顔をしかめる。
「ところで私は、この御仁と少し話をしてみたいのでいい店があれば紹介していただけないだろうか」
ヤフェルにぶつかられて怒鳴り返してきた男からの謝罪は待ちもせず、青年はさっと話を変えてヤフェルの肩を掴んで耳元に顔を寄せてきた。
「あんたが言ったこの国の王子様ってのは、ジャファール・エルバハンだな? ちょうどエルバハン人以外で王子様の話を聞かせてくれる人間を探してたんだ。食事でも間食でも財布はこっちで持つから来てくれ」
小声でそう言ってから、青年はヤフェルを掴んでいた手をそのままに体を離し、露天商の男に顔を向ける。
「交渉の邪魔をされて商売あがったりだったかもしれないが、野次馬が集まった。あとはご主人の腕次第だな」
笑った青年を見て露店の主人は頭を抱え、それから気を取り直した様子で胸を張った。
「ひとつ裏の通りだが、商談に使える店がある。今の時間ならまだ開いてるだろ。行ってみるといいよ」
「助かる、ありがとう。情報料だ、指輪をもらってくれ」
「こりゃどうも、翡翠だね」
「骨董屋のタジャンという男をご存じだろうか?」
「知ってるよ、あいつはこの国でも指折りの鑑定上手だ」
「はは、指折りの鑑定上手か。その指輪をタジャンのところに持っていけば、言い値で買わせることができるだろうよ」
「あー、そうかい、そりゃすげえ」
露天商は指輪を渡してきた青年に向けて棒読みのお世辞を言いながら、身振り手振りで「あっちだ」と「ひとつ裏の通り」の方向を告げた。
少し前までひとり不満と愚痴で全身の血を沸騰させていたヤフェル・フォルゲンゼルは、どうしてこうなったのかすらわからないまま、出会ったばかりの異国人によって拉致同然の勢いで、知らない店に連れていかれるはめになった。
お目に留めてくださってありがとうございます。
前話の投稿からだいぶ時間が空いてしまいましたが、読んでくださる方の足跡に支えられて少しずつ話を進めております。




