龍と妖狐と魔法の小刀(37)「人民の守護者」
バルキアからエルバハンまでは空都と砂漠を経由して移動する必要がある。
木造帆船が空を飛ぶ技術はかつてあった文明の遺産だと言われているが、バルキアがあるヴェスタブール大陸でその技術を再現できる国はひとつもない。
ヴェスタブールからエルバハンまで、そのいわば過去の遺産で旅をしてきた期間は約一か月、バルキアのルタンデル大公から「エルバハンの医師イブレイムの招聘」という使命を帯びて移動してきたバルナガラン・ガトゥーシュは、日焼けした鷲鼻をひっかきながらエルバハンの王子ジャファールを眺めた。
相手は大人にも子供にも姿を変えて、その上、自分のかつての主人であると主張してくる痴れ者だが、いかんせん、王子という目上の存在である。
バルナガラン・ガトゥーシュにとって、権力とは正義だった。
かつては。
今は違う。
今現在のバルナガラン・ガトゥーシュにとって、正義とは「自分を認めてくれる者が追及しているもの」である。
バルナガランとオルジェンにあてがわれた客間で、バルナガランは気を揉んでいた。
オルジェンはバルナガランの前に置かれた小さな銀の杯にワインを注ぐ。
「まさか王宮に来て、王子に接待されるとは思わなかった。その上、この国の王子は不思議な術で人を幻惑する」
「大公閣下の親書だ。対等な地位は王族だとあんたが言ったんだろうが、法律家先生」
バルナガランはオルジェンが注いだワインを眺めながら返す。
銀器の表面には細かい蔦の模様が描かれ、内側に注がれた紫を帯びた深い赤の液体が銀器の鈍さを帯びてぬるりと揺れている。
夕方を過ぎ、窓の幾何学模様は室内の床ではなく、庭に向かって灯りをこぼし、室内では天井から吊るされたランプの灯が色ガラスを透して蠱惑的な空間を演出しつつ、バルナガランとオルジェンの影を床に作った。
「ここは変な国だな」
バルナガランは呟く。
庶民出身で元々が知識階級ではないバルナガランとて、エルバハンはヴェスタブール大陸とは別の大陸にあり、自分が知っている「国」とは勝手が違うということぐらいは心得ていたが、それにしてもエニシャという大陸に来てから、法律家たちですら困惑することが起きているということはオルジェンたちの様子を見ていれば分かる。
オルジェンがバルナガランを見て「そうですね」と頷く。
「まず、王が、ドランであるということ。ヴェスタブールにはそのような国はひとつもありません。ヴェスタブールの王族は、人です。私たちの常識では、ドランとは英雄に退治されるべき悪しき獣であり、おとぎ話のなかにしかない存在だというのに、この国の王はドランであるという……それだけにとどまらず、かの王子は、自分がリゲル嬢であったと言い、姿を色々に変えて見せる。まるで悪い夢を見ているようです」
オルジェンの言い方に、バルナガランは鼻を鳴らした。
「悪い夢は十年以上も殺人犯として収監された獄中で見飽きた。王が人間だろうがドランだろうが、そいつは別に悪夢でもなんでもないだろう、ただ生きている年数だの、できることだのが違うだけだ」
バルナガランは銀の杯を手に取る。
「ヤフェル・アーバハンを名乗った小娘は魔女狩りに遭ったが、あれがヴェスタブールでいうドランの先祖返りというやつなら、俺はドランに何ができるかを他の連中よりも知っているだろうし、ここの王子、兄王子のほうが言うように、リゲル・ヴァン・フォルクサンがあの兄弟がバルキアで生きるための入れ物だったってのが本当なら、あの王子たちがどんな考え方をするのか、俺はたぶん、あんたよりも理解できる」
そんなことを言ってからワインを飲み干し、バルナガランは倒れ込むように背後にあるクッションに体を預けた。
「これはな、俺が警邏隊で色んなやつを尋問した経験から来る勘てやつだがな、先生」
バルナガランはオルジェンには顔を向けず、クッションに体をめり込ませたような姿勢で天井に吊るされたランプを眺めて饒舌に喋る。
「あんたの前で色々としでかしていたリゲル・ヴァン・フォルクサンは弟のほうで、俺が最初に追いかけた、第八環状で暴れたクソガキも弟のほうだ」
「ふむ」
オルジェンはバルナガランが床に置いた銀器には次を注がず、自分の手元にある杯にだけワインを注いで目線の高さまで掲げると、銀器が作り出す硬質な赤紫をランプで照らした。
「だがしかしだな、先生」
バルナガランは続ける。
「俺が施療院に逃げ込んでから見てきたリゲル・ヴァン・フォルクサンは、たぶん兄王子のほうだ。天真爛漫な弟とは違って、権力ってものに馴染みがある。そういう立場に縁があったし慣れている。多少、汚い話術も躊躇いなく使う、そういう相手だ」
ランプのなかで蝋燭の火が揺れるたび、色ガラスの影が揺れ、バルナガランはまたそれをじっと見つめた。
「いまバルキアが戦おうとしてるのは、兄王子のほうから思考力を奪った薬物、そういうシロモノをバラ撒いている連中だ。だが逆に言えばだな、カストール・ヴァン・フォルクサンとしてバルキアにいる従兄弟王子ってのは、そういう厄介なもんでも使わなきゃ、ここの王子たちを蹴落とせなかった程度の相手だってこった」
オルジェンは右手でつまむように持った銀の杯と、器に入ったワインから目を離し、バルナガランに顔を向ける。
「なるほど、兄王子と弟王子の、兄のほうをあなたが知っていて、弟のほうを私が知っている、ですか」
バルナガランは「そう」と言ってから「ふん」と鼻を鳴らした。
「どこからが兄でどこからが弟か、兄王子が割ったりくっつけたりした色ガラスと色水みたいなもんで、境目は曖昧で無意識だったんだろうが、兄王子のほうは平気で脅しみたいな交渉をしてくるから気を付けろ」
「気を付けるのは私ですか」
オルジェンはバルナガランの忠告を聞いて笑った。
「そりゃ先生、大公閣下の親書を施療院設立の立役者として預かったのは、俺じゃないからな。バルキアとしちゃあ、まともに国交もない国に医者の派遣を要請するついでに、条約やら国交のなんやらとかいうのを請け負う羽目になったのは先生だろう」
バルナガランは肘をついてクッションから上半身を起こし、オルジェンの前で前かがみに座りなおす。
「条件によっちゃ、バルキアに有利な交渉が出来たはずだってのに、相手が悪い」
瞬きをして、オルジェンはバルナガランを見据えた。
「ヤフェル・アーバハンは、交渉相手として悪い?」
肯定を示すために強く目を閉じて見せ、バルナガランは繰り返す。
「相手としちゃ、最高だが最悪だ。特に兄のほう」
そう言ってから、バルナガランは言葉を継ぐために、すうと少しばかり息を吸って自分の掌を見た。
「フォルクサン侯爵令嬢としてバルキアで過ごしていたときに、俺を忠義者だと言ってくれたのは、兄王子なんだろう。大公閣下に俺の身柄を預けようと紹介状を書いたのもたぶん兄王子だ。冤罪事件の証言が嘘っぱちだってことを証言する見返りだったが、それで人生がガラッと変わった。施療院の私設警邏隊長で、こともあろうに看護師長が妻になってくれるなんぞという幸せのオマケ付きだ」
オルジェンの視線は感じたが、バルナガランは自分の手を見つめたまま嘆息する。
「リゲル嬢がいなけりゃ俺は宰相から野良犬扱いされていることも知らず、番犬気取って第八環状闊歩してたんだろうが、性格はろくでなしのまんまだったんだろうな」
小さく笑った声が聞こえて、バルナガランは顔をあげた。
「なにがおかしいんだ、先生」
「リゲル嬢があなたを忠義者と褒めて大公閣下に紹介状を書いてまでその身柄を守ったことは、兄王子にもあなたにも損のない交渉だったわけだ。それは確かに、私が知っているリゲル嬢ではないなあと思ったんですよ。私が知っているリゲル嬢は、たった二十タパカのために自分が不利益を被る契約書を作られて、内容も分からずご満悦だった子供でしたから」
オルジェンの言ったことを少しばかり時間をかけて理解し、バルナガランはぞっとしたように肩を竦めて首を振る。
「それはやっぱり俺が知るリゲル・ヴァン・フォルクサンとは違う。俺が知っているのは施療院に入院するために怪我を作って来いと言ったり、兄の後ろ盾は宰相だが自分の後ろ盾は大公家だと脅してくるような小娘だ」
オルジェンは呆けたようにバルナガランを見つめ、鼻からずり落ちそうになった眼鏡をかけ直した。
「私は、そんなリゲル・ヴァン・フォルクサンを見たことがない。税がどのようなものかも把握しきっていないような子供だった」
「そうだろうさ。だから俺は、あんたがた教授や学生が、みんなあのお嬢さんに騙されているんだろうと思ったもんだよ」
バルナガランは呆れたように言い捨てる。
「だが今日の王子様たちの接待を見ただろう。俺は兄王子の話し方をリゲル・ヴァン・フォルクサンとして知っていて、弟王子の態度はヤフェル・アーバハンと名乗ったクソガキとして知っている。あんたがたは、弟王子のほうだけをリゲル・ヴァン・フォルクサンとして知っている。つまり先生がたと俺が知っているリゲル・ヴァン・フォルクサンは同じだが中身が違ったってこった。信じがたいがな」
オルジェンはバルナガランを眺め、それから天井に目をやり、息をついた。
「それで、気を付けろ、だったのですね。私たちは彼ら兄弟のうち、兄王子がどのように交渉してくるかを判断する材料を持っていない」
バルナガランは大きく頷く。
「無邪気な弟王子と違って、兄王子は冷静に自分と敵の優劣を見極めにかかってくる」
ワインのボトルを手に、オルジェンは頷いて返した。
「バルキアが望んでいるのはケシ中毒の治療経験を持つ医者の派遣だけであると訴えることに専念して、この国に不利な条約や取引を持ち掛けてきだと思われないようにしなくてはなりませんね」
「俺が知るリゲル嬢は、これはリリアナ夫人も知っていることだが、自分では宰相を追い詰めずに宰相の密貿易を政治の材料として大公に売り付けた」
オルジェンはワインを注ごうと傾けていたボトルを取り落とす。
「それは……リリアナ夫人がお膳立てしたと思っていました」
バルナガランは小刻みに首を横に振る。
「あんたがたが冤罪の再審でカルシュ・ヴァン・ゴージャンを助けた。その一切合切、八割はリゲル・ヴァン・フォルクサンの政治手腕だ」
オルジェンはワインのボトルを床に置いて、両手で顔を覆った。
「若いお嬢さんたちがよくまあ、あの悪政に対抗したものだと思っていたら、その素性はドランの王子ですか……ああ、いや、でも不可解な話だというのに、腑に落ちてしまうのが恐ろしいものですねえ」
エルバハンのクッションは大きく柔らかいが、布はしっかりとした頑丈なもので、大人の体躯を悠々と支えられる。
「リゲル・ヴァン・フォルクサンは第一環状の侯爵令嬢だった。あの王子兄弟も大公の為人は十分に知っている。あの兄弟が知らないのはリゲルがいなくなったあとのバルキアと、カストール派の動きだ」
バルナガランは大公家に雇われてから培った教養を披露し始めた。
「エニシャとの交易ルートは宰相から別の誰かに変わった。それからカストール自身はこの半年ほどフォルクサン侯爵家を離れている。魔女狩りでリゲルは処分されたが、腐っても独立した侯爵家だ。王室からフォルクサンの領主として爵位を預かったわけじゃなく、フォルクサンの領主として王室の支配に権威を与える周辺貴族のひとつだから、王はあの家の爵位を落とすことはできない。落としたが最後、フォルクサンが隣国支持に回ってバルキアは窮地に陥ることもあり得る」
オルジェンはクッションに凭れたままで目を閉じ、じっとバルナガランの説明に耳を傾けてからおもむろに手を挙げ、ひらひらと動かした。
「大公はフォルクサンの離反を恐れる?」
「そうだ。だが、大公が怖いのは父親の現フォルクサン侯爵の離反だ。フォルクサン侯爵は息子と違ってしっかりとした領主だから、王や大公とも対等に政治で争える」
バルナガランは自分の杯にワインを注いで、ひとくち喉に流す。
「先生は法的な手続きさえ明確になっていればいいと思うかもしれないが、俺に言わせれば『娘が望むからという理由だけで、第八環状に治外法権の土地を施療院として簡単に用意できるだけの権力がある家』なんだよ。王族の流れを汲む公爵家にも伯爵以下の家にも治外法権は認められないから、警邏隊にはなんのお触れもでない。だが治外法権の場所が増えるとなりゃ、警邏隊にも通達が出されて立ち入り禁止が徹底されることになる。その独立侯爵家にだけ許される特権を、娘のおねだりを受けて惜しげもなく行使したのはフォルクサン侯爵夫妻だ。それだけなら王室から嫌がられるが、権利者にルタンデル大公夫人を入れることで、大公家を共犯者に仕立て上げた」
オルジェンは目を見開いてクッションから体を起こした。
「そう言われてみればそうだ」
「先生は、ときどきそういう学者バカな一面を晒すことがあるな」
呆れた口調のバルナガランに、オルジェンは頭を掻く。
「あのときは、リゲル嬢とリリアナ嬢から場所を用意したからと言われて法的な手続きができる知人を総動員するほうに頭が行ってしまった」
「まあそうだろうな」
バルナガランは首を振りながら言った。
「それじゃ次だ、どうして施療院の共同権利者は、王妃でなく大公夫人だった?」
オルジェンはバルナガランを見つめ、小鼻をひっかく。
「そりゃ大公家は当時宰相家と対立していたからではないのかな」
そのオルジェンの反応に大きく頷いて見せたバルナガランは、目を細めて続けた。
「あんたが知ってるリゲル嬢は、あの施療院についてなんと言っていた?」
「施療院ならば、農民や貧民に安価に治療を施したり、優しくしても文句を言われないはずだ、そう言っていた」
バルナガランがニヤリと笑う。
「俺が知るリゲル・ヴァン・フォルクサンはな、施療院に寄付してくれる貴族は名声を金で買う連中だと言い切った。あの兄王子のほうは権力ってものがなにかってのを熟知していて、息をするかのように自由に使いこなす。大公夫人を共同権利者にしたことで、フォルクサン侯爵夫妻は、独立侯爵家のなかでも『人民の守護者』として王家と肩を並べる立ち位置を手に入れた。治外法権に文句は言わせねえってことを示すのに、王家じゃなく、大公家だったわけだ」
オルジェンはバルナガランを見つめる。
「人民の守護者ね……『人民の守護者、リゲル・ヴァン・フォルクサン』と、施療院の中庭に誰かが置いたプレートに書いてあったのを見ましたよ。誰かが金属プレートに、かな釘のようなもので刻み付けたものが最初にあって、それを誰かが石板に刻んで、いつのまにか中庭の真ん中に置かれた敷石がそれに挿げ替えられていましたね」
「最初のは俺だ」
バルナガランがオルジェンの言葉を聞いて鼻を鳴らした。
「は?」
「俺はあのお嬢さんに、正義の味方になりたかったと言った。あのお嬢さんは、施療院での正義は、弱者の保護と寄付者の名声の保護で、それを守ってくれるなら、俺は正義の守護者になれると言い、俺はそれを引き受けた。俺が施療院のための正義の守護者なら、俺みたいな前科者を許容して、貧民まで差別なしに助けるのは、人民の守護者だろう」
オルジェンはバルナガランの言葉を聞きながら、口を閉じるのも忘れて呆けた表情を晒してから頭を掻いた。
「いやあ、なるほどあなたが最初のプレートを……これは、なるほど」
「俺は最初ただ、あれをカストール・ヴァン・フォルクサンに見せ付けるために書いたんだが、それを大公夫人が気に入ったんだよ。施療院の創設に尽力したご令嬢が魔女狩りの汚名を着せられて潰されたなんてのは、共同権利者になった大公夫人にとっちゃ、夫人の不名誉になりかねない。そういうわけで『誰が書いたかわからないあのプレート』はその不名誉を払拭して、リゲルを魔女から聖女に祭り上げるための道具になった。お嬢さんはもういないが、大公の後押しで司教たちが動いて名誉は回復された。めでたしめでたし」
めでたいとは思ってもいない口調で言って、バルナガランはクッションに倒れ込む。
「明日になったら先生は、リゲルとしてある程度バルキアを知っている王子様兄弟とまた顔を突き合せなきゃならん。がんばってくれ」
オルジェンはバルナガランの言葉を聞いて笑顔を引きつらせた。
バルナガランとオルジェンの「異国の夜」は、ランプの灯と共に更けてゆく。




