龍と妖狐と魔法の小刀(29)貸本と悲劇とその悲劇
熊震が砂州関で頴州の道士たちと揉めている頃、王都の芦諷は、王城に設けられた従者たちの控えの間に蘇透と並んで座していた。
もっとも、ただ座しているわけではなく、貸本屋から借りた講談の本を読んでいる。
講談の各回に付けられた題名を見て小説化を引き受けることにした本だ。
講談の始まりは、幸せなものだった。
父王、母妃、兄皇子、弟皇子。
物語は弟皇子に従う宦官の目線で進んでいく。
弟皇子の幸せは、小さなものだ。
母に寄り添い、毎日のように虫を追い、父王に日々の話をする。
兄皇子にはときに嫉妬と牽制の目を向けられるが、天真爛漫で政争にもまだ縁のないような幼い弟皇子には届かない。
この弟皇子の人生の転機は、意地の悪い異母姉が登場したところから始まった。
芦諷は講談の語り口を見ながら、どのように小説向けの文章にするかと思案する。
(この異母姉が出てきた経緯が分からん……これをどうするか……)
そこまでの物語は、ひたすら、兄皇子と弟皇子のふたりしかいなかった。
父王との会話や奥宮の関係からは、他にも妃や異母兄がいることがちらりと伺えたものだが、異母姉については影もなかった。
講談というのは、場面転換が突然でも登場人物が急に出てきても、毎回ある程度独立した話しとして成立するが、小説はそうではない。
(この「意地悪な異母姉」が、弟皇子にどのようなことをするのか)
芦諷は当然のように、不必要に虐げられる弟皇子を楽しみにして読み進めたのだが、異母姉は弟皇子に対して虐げるようなことは何もしなかった。
そう、何ひとつ、弟皇子を虐げるようなことはしなかった。
しかし異母姉の世話役だという女は違った。
兄弟皇子の母妃に対して異母姉に必要な物を催促し、父王に色目を使い、異母姉を可愛がる。
(嫌な女だ)
その女は芦諷に、本家の女たちを思い出させた。
ことあるごとに芦諷を見下してくる女たちだった。
(いや、忘れよう)
自分に言い聞かせて本を持ち直し、芦諷は先に進む。
本家の芦楓は比轍の繋約者として何不自由なく過ごしてきた。引き換え芦諷は、官職には就かずに分家の離れに閉じこもり、市井に馴染んで過ごしてきた。
虐げられる弟皇子には親近感が持てるのではないかと期待していたが、読み進めるにつれてその期待が裏切られてゆく。
父王は弟皇子に州をひとつやろうと約束するが、その州は異母姉の世話役が策を弄したことで、異母姉に与えられてしまった。
(ここでも異母姉ではなく、その世話役の女が画策してくるのか……)
芦諷は呆れながらも、袖から手帳と筆を取り出す。
隣に座っていた蘇透がちらりと芦諷の仕草を見て苦笑した。
「阿轍と仲良くなれそうなのに、蟠りのせいで歩み寄れないのが残念だな。阿轍は牢に入れられても紙と筆を欲しがった」
芦諷は蘇透を振り返る。
「牢に? 比轍殿がですか?」
「ご存じではないかな。あれは芳俊殿下の世話係をしていたときに炎二妃に捉えられて天牢に入れられたことがあったのだが、食事や恩赦より、紙と筆を欲しがったそうだ。数年前の天乱のときだ。芦一族も天牢に入れられただろう?」
蘇透に問われて芦諷は首を小さく捻り、それから「ああ」と小さく頷いた。
「三殿下の冤罪を訴えて、芦氏と比氏が捕らえられたときですね」
「……失礼だが、芦諷殿はどうなさっていらした」
その蘇透の疑問を聞いて芦諷は苦笑する。
「私は芦氏の名前から外されていましたから、特になにごともなく市井に引きこもっておりましたよ」
おまけに芦諷が過ごしていたのは王都内とはいえ、分家の離れという名目の郊外だったので、王宮で政争が起きていることも知らず、本家が静かだ、という程度の認識しか持っていなかった。
しばらく考え込んで、芦諷は「そうか」と呟く。
「乳母が、今だけは芦氏一門から名前が削除されていてよかったと感謝したい気持ちですと泣いたときか」
蘇透は芦諷の淡々とした感想に言葉を失った。
本を蘇透の手から取り返し、蘇透を無視して物語の世界に戻る芦諷は、読み進めた先で「嫌な女」が天牢に入れられた下りを見つけて「そうでなくては」とひとり頷く。
違和感はなかった。
異母姉には母妃が縁談を紹介し、父王もそれを承諾する。相手は牢に入れられた罪人であるという。そうして本来、弟皇子が得るはずであった州は、その縁談で異母姉から没収され弟皇子に返されることになった。
(禍福は糾える縄の如し。因果応報ではないか)
悪女には悪女の行く末がある。
場面はまた、微笑ましい家族と、異母姉との団欒に戻ったが、この異母姉が罪人に嫁がされることを知っている芦諷は、一読者としても、物語を小説に直す者としても、小気味よい展開を見据えて文字を追った。
その文字の向こうで、弟皇子は異母姉に甘え、異母姉はそれに応える。
虫が好きな弟皇子が異母姉に言うのだ。
「姉上様、虫を作ってほしいのです」
異母姉はその弟皇子のために、蝶を舞わせ、バッタを跳ねさせ、蜻蛉を飛ばす。
芦諷はただ、ただ微笑ましく見ていた。
母妃が異母姉である公主に対して、あり得ないセリフを告げるまで。
「公主、あなたはわたくしの皇子たちには何も生み出せないと知っていて見せ付けるのね」
文字の意味を理解した瞬間、芦諷の背筋に怖気が走った。
芦諷の思考は法を司る五心龍の貴族として、知るべくして知っている『央玄君の矩』と母妃の言葉と法の関係を突合する。
州を治めるのは六心王龍でなければならない。
六心王族であれば、虫や花を生み出す程度のことは難なく出来る。むしろ六心龍であるならば、王族でなくてもそうあらねばならない。例えば、比一族の末子たちが、王の分身を務めるためにこの世界の構造を変えることがあるように。
だが母妃のセリフは、兄皇子にも弟皇子にも、それはできないと告げている。
講談を聴くだけの人間は、龍族がどのようなものかなど知らない。
だから異母姉のことを、弟皇子の前で蝶やバッタや蜻蛉……果ては空想上の動植物まで求めに応じて作り上げて自分の力を見せ付けるひどい姉であり、その異母姉の世話役が弟皇子に与えられるはずの州を異母姉にと奪い取ることには納得がいかないだろう。
芦諷もまた、ここまではそう思いながら物語を読んできた。
しかし芦諷の目には、ここまで読んできた「微笑ましい家族」が「歪な家族」に形を変えて見え、王龍を知る者として「困った」と呟いた。
(これでは弟皇子が市井に追放されたとしても、王の温情であったのだとしか言えない)
人はこの物語を「力ある異母姉が不当に州を奪い弟皇子を虐げ、市井に追い出した。その弟皇子はいつか、この宦官と力を合わせて異母姉に復讐するに違いない」と期待して聞くはずだ。
市井を知り、人の世界を知った王として即位する物語を望むはずだ。
この講談を小説にする仕事を引き受けた陸風としては、その期待に沿うように書いていくしかないだろうが、司法の芦氏に生まれた者である芦諷の倫理には反している。
(困った……この異母姉は六心なのだろうが、兄皇子と弟皇子は五心なのだ)
そうして芦諷はぞっとして、講談を冒頭から読み直し始めた。
微に入り細に入り、詳細な宮中の描写。
宦官たちの会話。
父王、母妃、兄皇子、弟皇子たちの会話。
読み始めたときは気にも留めていなかった、兄弟皇子たちに供される食事や飾り。
母妃と兄皇子は父王に、折に触れて「立太子を」と求める。
最初に読んだとき、皇子たちが六心であるという前提でいたがために、芦諷は物語に違和感を持たなかった。
(五心の皇子の立太子など、あり得ない)
物語のすべてが、根底から覆る。
思いつめたような芦諷の手から、講談の種本が奪い取られた。
蘇透だった。
「読んでいて面白くないのであれば、一度、読むのをやめた方がよかろう」
芦楓は首を振る。
「小遣い稼ぎの仕事です。巷で人気のある講談の種本を、小説にして貸本屋に納めるのですよ」
苦笑した芦諷を見て、蘇透は「貸本?」と首を傾げ、その蘇透を見て芦諷は苦笑した。
「今、口語から文語に直しているのは、この宮中から出ることを余儀なくされる皇子の話ですが、王宮での生活が細かい描写で書かれているので市井で喜ばれている講談で……」
言いかけた芦諷の目に入ったのは、蘇透が目を眇めて眉間に縦皺を刻んだ表情だった。
「講談はお嫌いですか」
「いや、そうではないが、芦殿が途中から難しい表情になったので気になった」
蘇透は数頁ほど講談の種本を捲ってから、ふむ、と小さく唸る。
「芦殿、これを小説に手直しするのであれば、もう少し描写を現実から遠いものに変えたほうがよろしい。市井の人々はこれをおとぎ話だと思うだろうが、王宮に関与することがある者は容易にこの兄弟皇子が蘭俊殿と菖俊殿であることに気付く。そうなれば、本来は罪人の子として奥宮の奴婢に落とされねばならなかった菖俊殿が市井に逃れたのを見逃したのだと、玄太后の汚点が囁かれることになりかねん」
芦諷は蘇透が言わんとすることを咀嚼した。
それは、先王の王妃たちが、炎二妃の不義密通で生まれた子供が王宮の外に逃れたことに目を瞑ったと、王族ならば庶子でも知っているという宣言に他ならず、王太后の汚点が「それと知れる状態で世に出る」ことで、見逃したはずの子供を裁かねばならない羽目になるという脅しでもある。
少なくとも、芦諷はそのように理解して蘇透に目を向け、蘇透は片方の眉を跳ね上げて見せることで芦諷の理解を肯定した。
理解が正しく伝わっているかどうかはどうでもよい。ただ、言外に言わんとすることがあることは心得たと、互いに合意することが重要なのであって、芦諷と蘇透の間ではその合意が得られただけで十分なのである。
たとえ齟齬があろうとも。
芦諷は深いため息をつく。
「貸本屋向けに講談を小説化するのは割の良い仕事なのだが、これは、癪だな。兄皇子は蘭俊殿下、弟皇子は菖俊殿下。蘭俊殿下は、私が九十年もの長きに渡って、芦氏一門のなかで蔑まれることになった原因だ。この講談を人が好むような、兄皇子と弟皇子が異腹の公主に虐げられた物語に仕立ててしまうと、私は自分の半生を無意味なものにし、菖俊殿が生まれたことで死なねばならなかった子供の命を踏みにじることになる」
蘇透は芦諷から視線を外して、小さく鼻を鳴らした。
「芦氏は、やはり法の家だな」
「なんです?」
芦諷は蘇透の言葉を聞きながら、右手に持った筆を揺らし、左手で頬杖をつく。
「法というのは人の情に寄り添うものだと、当家の父は言う」
「人の情に寄り添うもの、なるほど、王爺はそうおっしゃいましたか」
蘇透は芦諷の返しに「うむ」と頷いた。
「父の州で州宰相を務める芦貫が定めた州律には曖昧なところが多いのではないかと意見したときに、法が曖昧でなければ、人の情に寄り添う余地がなくなるのだと窘められた」
芦諷は頭を振り、それから背筋を伸ばして座りなおす。
「なぜ、それで芦氏が法の家であるという話しになりますか」
「自分や死なねばならなかった子供の痛みと、龍族には生涯縁のない者たちが見たいと思うであろう理想の講談を天秤にかけているように見えた」
蘇透は小さく笑った。
その小さくもやわらかな笑い声を耳にして、芦諷は講談の種本を広げ直す。
芦諷が目を落とした先、講談を書き起こした文字の向こうでは、炎二妃が七王爺から、頴州を経て運ばれてきた財宝と手紙を笑顔で受け取っていた。




