カヴェイネン:異国から来た訪問者(3)ジュジェンという者
カヴェイネンとイェジンの会話。
砂嵐。
イェジンから渡された布をイェジンの指示に従って被り、座らせられたラクダの影に潜って、カヴェイネンは布越しに耳元を通り過ぎていく暴風の音と、体の上に砂が積もっていく重さにじっと耐える。
砂嵐を見つけた商隊の者の手でラクダと自分の体の間にどうにか作った隙間に顔を伏せたところに布をかぶせられ、じっとしていろと押さえつけられてこうなっている。
(埋まる)
容赦なく体の上を吹き荒れて通り過ぎようとして行く砂嵐の音に、カヴェイネンは強く目を閉じた。
これが走馬灯か、ティーキムと過ごした時間がカヴェイネンの脳裏に浮かんでは消えていく。
(あれは、嵐の日だったか)
十歳かそこらのティーキムが晴天を見上げてから天気管や風向きを確かめて「荒れる」と言った日、夕方からの大雨で川が増水し始めると、大粒の雨を凌ぐ城下の者たちに城の門を開けて「早く城に入れ」と城下の者たちを急かして避難させたことがあった。
(周囲の者たちはティーキム様のことを神童だと言ったが、ジュジェン様がどれほどヴェルタネンデの状態を隅々まで知るための時間と努力を惜しまなかったかを知らなかったから、軽々しく神童だなどと言えたんだ)
ティーキムが自分はジュジェンだと言うようになったとき、カヴェイネンには特にそれを信じるつもりはなかった。
「私はスジェのドランなんだ」
そう言いながらティーキムが書いた文字は「蘇」と「龍」というスジェの文字だった。
しかしカヴェイネンにその文字は読めなかった。
ティーキムがスジェのドランだというその言葉を信じる気になったのは、ティーキムが護衛として剣の指南をしてきたカヴェイネンが教えたことのない剣の使い方をしているのを見たときだった。
訓練場でティーキムは子供用ではあるにせよ重さのある盾を腕に括りつけてぶつかったり、ロングソードをしっかりと握って操る戦い方ではなく、全身の筋肉をくまなく使って重心を低く落とし、猫のように関節を柔らかくばねにして走り回りって複数を相手にする戦い方をした。カヴェイネンはティーキムにそんなことを教えたことがなかったが、ティーキムはそれをやった。
そうしてカヴェイネンがロングソードを教えるようになったころには、ティーキムは柔らかい体と自重とを使いこなすようになっていた。
ティーキムはカヴェイネンが教えていないことを、カヴェイネンの前でだけ色々と見せた。
(教えたことを思いだすのに時間がかかり、教えてはいないことを教えてもいない知識でこなしていくのを見せられて、信じないわけにはいかなかったな)
カヴェイネンを味方にしたあとのティーキムは、ジュジェンのことはお首にも出さないで過ごすようになったが、ときどき「ジュジェン様」と呼ぶと、実に嬉しそうな顔をしたものだった。
(だいぶ砂の重みとラクダとの空気の奪い合いで息苦しくなってきた)
そんなことを思うカヴェイネンが砂とラクダの間で窒息しそうになったころ、ラクダに繋がれた綱がグイと引かれて砂嵐が通り過ぎたことを外から知らされた。
カヴェイネンはその感覚に安堵して、体を押しつぶすような砂の重さを、布をどけて少しずつ落として顔を出した。
「ご無事かね?」
「なんとか」
荷物の砂と、剣の鞘に積もった砂を払ってからカヴェイネンはまたイェジンとラクダに乗る。
砂嵐が落ち着くまで待機した商隊は、その分の遅れを取り戻したいとは言いつつ歩みを早めることはなく、ただ「出立を早めよう」ということで話が落ち着いた。
黙々と進む商隊は、砂嵐から二時間ほどで日暮れを確かめて足を止め、火を焚いて夕食の用意を始める。
カヴェイネンは砂の上に張られたテントをイェジンと共用し、盗られても問題がない程度の荷物をラクダから下ろしてテントに運び、剣や貴金属をしっかりと身に着けて夕食に臨んだ。
テントを出たカヴェイネンは、彼らはどこから手に入れてきたのか、小さなウサギの毛を毟り、スパイスをまぶしてスープに入れているのを見て目を丸くした。ウサギは小さいが何羽も捕まえられていて、籠のなかでゲンナリした様子で料理されるのを待っているように見える。
イェジンは調理を他人に任せ、瓶に繋がれたコードを口に咥えて、ゴボゴボと音を立てながら煙を吐きつつ片手に持ったノートを眺めていた。
このイェジンというのは、どうもよくわからない。
恰幅がよく黒髪で中背の男だと思っていたが、手にしたノートを眺めながら煙を吐いているこの男は、白髪で小柄、落ちくぼんだ眼窩に青い瞳が隠れ、白い髭を細長く伸ばした骨ばった老人で、昨日までのイェジンとはまるで別人なのだが商隊の者たちは彼をイェジンと呼び、彼もイェジンとして振舞っている。
「イェジン殿」
カヴェイネンは細身で小柄なその老人に声をかけて気を惹いた。
「や?」
「そのう、イェジン殿と小隊の者たちが呼んでいるが、ここに着く前はもっと」
若々しかった、と言おうとして言葉を選ぶためにカヴェイネンは一度軽く舌で唇を濡らす。
「ああ、そうかお客人はこの格好が見慣れないのだな」
納得したように頷いて、イェジンは「どちらも私だが」と言いながら瓶に繋がれたコードを口から離して商隊の者に渡し、片付けさせた。
「本来の年齢はこちらなんだ。もう二百歳を超えているもんで、この姿だと昔馴染みが妙な顔をする。それで、商人として都市にいるときには若作りで誤魔化す」
イェジンはケラケラと笑いながら、カヴェイネンの前でポンと手を叩いて魚を出して見せる。
「こういうのが私の得意技でな、もっとも、長生きしないのが玉に瑕だ。さっさと食ってしまうのがイチバンよい」
びちびちと音を立てて暴れる魚を調理中の男に寄越して、イェジンは大きく息をついて座り直す。
「お客人はジュジェン殿に会いたいと言うが、ジュジェン殿がエニシャで始まるであろう地龍狩りのきっかけだと言っても過言ではない」
水筒からほんの少し落とした水で砂地を濡らし、イェジンはウリを育てて切った。
三日月形に切られたウリから、甘い果汁がしたたり落ちる。
カヴェイネンはジュジェンが地龍狩りのきっかけだと聞いて顔をしかめ、イェジンの青い目を、少々白みを帯びた黒い目で覗き込んだ。
ウリを他の者たちにも分け与えながら、イェジンは嘆息した。
*** *** *** *** ***
カヴェイネンはその日、暴風が去った星空の下でイェジンと焚火を前にして遅くまで話し込んだ。
イェジンは、ジェジュンの話をした。
「私はスジェの人間ではないから弟妹から聞いた話をまとめるだけだが、スジェには元々、ケルグンの皇女を母に持つエクセン・ドランの皇女と、バラカ国出身の王女を母に持つペクタ・ドランの王女のふたりが嫁いで行った。それが、だいたい百五十年ほど前のことだった。バラカは交易で潤う小都市で、エニシャ王に娘が嫁いだことで権勢も得た。そのバラカ王の孫娘がスジェ王の寵愛を得て国を乱した。そのスジェ王とバラカの孫娘の間の皇子が、二番目の皇子で」
(二番目の皇子、ジュジェン様のすぐ下の弟)
カヴェイネンはイェジンの言葉を手をあげて遮った。
「イェンジェン皇子?」
「よくご存じだ。そのイェンジェン皇子を王にするために、バラカの孫娘がジュジェン皇子に無理難題を押し付けて、それを断ったという理由でジュジェン皇子を牢に入れた」
枯れ枝のように細い指に嵌めた大きな宝石付きの指輪をクルクルと回しながら、イェジンは話す。
イェジンの横で黙って焚火に薪をくべている少年が、ときどきポキリと音を立てて薪を折る。
「ジュジェン皇子とティーキム様は、境遇が似ているのだな」
「うん?」
「ティーキム様も第二王妃の勧めで辺境のヴェルタネンデに領地を与えられ、カタラタンの王都から引き離された」
カヴェイネンの言葉に「はは」とイェジンは笑う。
「エクセン・ドランの皇子たちは、領地をもらい、自分で領地を見事に治められるようになってはじめて一人前と認められる。ヴェルタネンデのような立地に恵まれた場所なら、エクセン・ドランの皇子は喜ぶだろうな」
ひゃっひゃっと笑うイェジンに、カヴェイネンには自分をジュジェンだと自覚したばかりのティーキムの記憶がよみがえる。
「辺境でなにが悲しい。辺境にも民はいる。悲しむより己の民に王都よりもよい生活をさせてやろうという気概でいればいまは十分だろう! 針葉樹林に大河、よい土地だ!」
ヴェルタネンデに到着したばかりのティーキムは、愛おしそうにヴェルタネンデの領地を眺めていた。
ジュジェンが言うには「ジュジェンは黒目黒髪、二重、細身、長身」ということだったが、ティーキムは「ティーキムは黒髪碧眼、二重、まだ子供でどのぐらい成長するかは分からない、体格もどうなるかよくわからん」と鏡を見ながら笑うのが常だった。
そのティーキムは初めてヴェルタネンデを眺めたとき、あどけない顔に満面の笑顔を浮かべていた。
「とても楽しそうな笑顔だった」
「エクセン・ドランならそうだろうともさ」
イェジンがまた笑った。
「まあ、そのジュジェン皇子が王の験しと言われる儀式を受けたのだそうだ。その少し前に、スジェの六番目の皇子と弟のヤシーを引き合わせる縁談があってな」
カヴェイネンは、今度は「聞き捨てならないことを聞いた」とでも言う表情で手をあげた。
「皇子と弟の縁談?」
「あ? ああ、そう。エクセン・ドランは皇子と言っても、特に性別は決まっておらんから好き勝手に男の格好をしたり女の格好をしたりする。私の弟ヤシーは自分が女として皇子に嫁ぐのは絶対に嫌だと言い張って、皇子を妻にするなら喜んで縁談に応じると言い放ったそうだ」
カヴェイネンは「はあ、なるほど」と頷いた。
「それで、まあ地龍がいるということは公にされたんだが、地龍になにができるかはその時には、まだ匂わせるだけで伏せられていた」
イェジンは隣で薪をくべていた少年がうとうと舟をこぎ出したのを見て、ローブをかけて寝かせる。
夕食のスープとナンを食べてから、頭上の星がだいぶ動いていた。
「天龍と地龍のエクセン・ドランが手を組むとなにが起きるのか、スジェの民に見せつけたのは私の妹ラジュとジュジェン皇子だったよ」
寝入ってしまった少年の代わりに火かき棒を持ち、イェジンは薪を動かして言う。
カヴェイネンは「なにが起きる?」とイェジンを見つめた。
イェジンは空を見上げ、息をつく。
「その年、スジェは百年に一度の不作だったんだが、秋口になって、ジュジェン皇子とラジュは、スジェの民が見ている目の前で穀物を生き返らせた」
言葉を失ったカヴェイネンに、イェジンは俯いて小さく首を振った。
「天と地のエクセン・ドランがパートナーになれば、彼らにはそのぐらいのことが簡単にできる」
カヴェイネンは「は」と息をついて「まさか」と笑顔をひきつらせたが、イェジンは「本当だとも」と答えて薪をひっくり返した。
「お客人、あんたはさっき私がウリを育て魚を出したのを見たな」
「見た」
カヴェイネンは頷く。
「私は地のエクセン・ドランだが、エニシャ王を名乗る天のエクセン・ドランとは会ったことがない。なにせ相手は、墓のなかだそうだから会いようもない。私が作るものは天の協力がないぶん、不完全で、その日の食事ぐらいにしかならん」
イェジンは笑みもなく呟くように言った。
「だがジュジェン皇子とラジュがスジェで不作をなかったことにしたのを見た交易商のなかには、バラカの者や、他のエニシャ人がいて、地のエクセン・ドランが存在することを早馬で送って寄越した」
ゆっくりと言うイェジンと、静かに聞くカヴェイネンの頭上で細い月が地平線に向かって傾いていく。
「スジェの内乱に煽りを受けた結果は、エニシャでは地龍狩りという形で出る」
イェジンはそれからポツリと呟いた。
「どこからどう天龍が飛んでくることやら」
カヴェイネンがスジェに到着するのはいつになることか。