龍と妖狐と魔法の小刀(7)恥ずかしい男
フーニャンは芦楓をじっと見ていた。
この芦楓というのは、元からだいたい妙な男だった。
初めて会った場所は柳州の芝居小屋で、この男はひとりで芝居を見つつ茶を飲みながらも、手元の紙になにかを必死に書き付けていた。
もう五十年近く前のことで、その頃の芦楓はまだあどけない少年の面影を残していた。
*** *** *** *** ***
その日、少年が見ていた演目は深窓の令嬢としがない書生の恋愛劇だった。
主役の令嬢を演じていたのは史娘で、書生をフーニャン、胡娘が演じていた。
頂点に君臨する龍たちの世界はいざ知らず、地上には人間や普通の龍たちの世界がある。
六心龍や五心龍のような「天上の存在」の世界とは違う。
数の多い三心龍や四心龍、それに人間たちは地上で日々の生活を過ごしている。
地上で日常の公務をこなしている者たちは、人間も三心龍も四心龍も、誰もが難しい試験を受けて認められた役人たちであり、その試験に挑む者たちを「書生」と呼んでいる。
史娘が演じる令嬢は、名を玲玉といい、胡娘が演じた書生は名を崔郎といった。
玲玉と崔郎は、官僚になるための試験を受けに柳州に上京して来た崔郎を、たまたま天公廟の月例祭祀に玲玉が参拝して見かけたことで縁ができる。
崔郎をひと目見て気に入った玲玉は、もう一度、ひと目だけでも崔郎に会いたいと願い侍女を説き伏せ男装して街に出る。
街で男装の玲玉に出会い話が弾んだ崔郎は、玲玉を同じ書生とばかり思いこんで時間を過ごして別れる。
崔郎は筆記試験に合格し、再び玲玉に会おうと市中で玲玉を探すものの、玲玉の名を聞いていなかったことに思い至る。そうして崔郎が玲玉を探すあいだに、玲玉には貴族の息子との縁談が持ち上がり、玲玉は邸を出ることができなくなってしまう。
玲玉はどうにか崔郎に手紙を出そうとするが、邸の見張りが厳しく侍女に手紙を託すことしかできず、苦心する。
胡娘が崔郎の格好で舞台袖から眺めていた芦少年は、その玲玉と崔郎の舞台を見ながら、必死に手元の本に台詞を書き留めていた。
そうして、舞台が終わったところで楽屋まで「崔郎」を探しに来て胡娘にこう聞いた。
「崔郎、なんで最初に玲玉に名前を訊かないの?」
そのときの芦楓はまだ役者というものをよくわかっていなかったようで、胡娘が、崔郎が名前を訊いてしまったら、崔郎がどこにでもいそうな三枚目ではなくなってしまうことに気付いていなかった。
胡娘は芦楓少年に言った。
「訊いてしまったら、玲玉を探し出せない理由を変えないといけない」
芦楓少年は食い下がった。
「それでも、次からは名前を訊いたら? 好きな女の子に名前も訊かないなんて、それじゃ崔郎いつまでたっても結婚できないよ!」
崔郎の扮装のままで芦楓少年の前に立っていた胡娘は頭を抱えた。
「玲玉と崔郎のお話しは三百年も昔の話なんだよ、私が本物の崔郎というわけじゃない。本物の崔郎は、きちんと試験にも合格して柳州の州府宰相にまでなった。州府宰相っていうのは州の人間世界では一番偉い人なの! 崔郎の名前は崔秋蒲! 貸本屋にでも行って「崔秋蒲の本を貸してください」って言ってごらん! たくさん出てくるから!」
知らず声が大きくなった胡娘の肩を史娘が叩く。
「子供相手に大声でなんだい」
胡娘はそう言われて史娘をちらりと振り返ってから芦楓少年を見た。
「崔郎は試験を受けに上京してきたのであって女の子の気を惹くためじゃない。試験に受かるか落ちるか、一生がかかっているんだ。女の子の名前を覚えるより先に教科書に出てくる言葉の定義をひとつでも多く覚えないといけない。それに崔郎が初めて玲玉に会ったとき、玲玉は男の格好だったのだから、試験場でまた会えるとでも思っていたかもしれない」
崔郎の扮装のままの胡娘を見て、芦楓少年は頬を膨らませる。
「今は、玲玉が女の子だって知ってるじゃない」
「それでもまた、崔郎は玲玉を知らない崔郎として玲玉に会う」
芦楓少年は不服そうに胡娘を眺め、それから「そうなの?」と訊ねた。
「そうだよ、お芝居だからね」
「そっか」
「……崔郎……崔秋蒲は玲玉と一緒になれなかった。玲玉は崔郎ではなく親が決めた婚約者と結婚した」
胡娘は芦楓少年にそう言ってから小さく笑った。
「だけどね少年、舞台で俳優が演じている崔郎は舞台の幕が開く限り何回でも玲玉と出会うし、玲玉は何度でも崔郎を追いかける。一番幸せな時間を何回でも繰り返す。それがお芝居」
芦楓少年は、その次から友人を連れてきたらしい。
誰にも内緒の友達なのだと言って、二階の特等席をその友人とふたりで芝居を見る席に決めていた。
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フーニャンは天井を見上げた。
舞台からは見えない奥の席から芝居を見ていたのは、比轍だったのだろう。
柳州で庶民が六心王龍の姿を見ることはない。
彼らは雲の上、水晶宮の上に遊ぶ世界の支配者たちであって、本来は人に姿を見せない。
そのぐらいのことは、芦楓が散々言っていた。
「内緒だよ、お芝居見に来てる友達は、本当は六心なんだ。でも六心だと知られちゃいけないの」
芦楓少年は自慢げに言った。
「なぜ?」
「六心は特別で、本当は貫海山から下りたらいけないんだ。でも玲玉は廟にお参りしてるし六心だって街を知りたいと思うから、貫海山じゃなくて、柳州から出たらいけないっていうことにしたらいいと思うんだ」
胡娘は呆れた。
「それは勝手にそういうことにしていいわけ?」
「怒られたら……うん……でも、法律には書いてないっていうことにしておく」
芦楓少年は頭を抱えて机に突っ伏した。
目の前にいる芦楓は、かつてそうしていたように、机に突っ伏していた。
「金がない」
フーニャンは呆れて芦楓の顔を覗き込む。
「比轍の旦那に強請ってみる? でも、芦楓様それはしないものね。比轍様大好きだものね。むしろ王様より比轍様のほうが好きだものね。カッコ悪いところ見せたくないでしょ?」
芦楓はうつろな表情でフーニャンを見る。
「いやまあなんというか、金がないと言ったら、理路整然と、なんでないのか、州宰相はそれなりに報酬もらってなかったかと、冷静に言われた」
フーニャンは芦楓を生温かく見つめた。
「……ご冗談でしょ? 比轍の旦那が色々してるから自分も頑張るって言って無茶をした結果、勘当されたんじゃない。比轍の旦那に追いつきたくて無茶したのに、比轍の旦那にお金がないって泣きついたの?」
芦楓はそっとフーニャンから顔を逸らした。
フーニャンは芦楓の視線がある方に移動する。
芦楓はまたフーニャンから顔を逸らした。
「……」
「ちょいとお坊ちゃん」
「……比轍には、米の洗い方を教えてもらった……金はない」
フーニャンは黙り込んだ。
「比轍様っていうのは六心で外に出してもらえないし庶民はうっかり顔を見ることも許されない神様候補のひとりなんじゃなかったの?」
芦楓は顔を上げた。
「そうだよ。本来はそうだよ! それもこれも何もかも、先王がいけない! 先王が比氏と芦氏と、その他諸々の気に入らない貴族から五心の身分を剥奪して龍の力を封じたときに、たまたま第六……第五? 第五皇子に目を付けられて苹州に出掛けていた比轍が龍力を封じられて帰れなくなったせいで十四年だか十五年だか苹州で庶民として暮らしていたからひとり暮らしにも子連れ生活にも慣れて、なんなら食事も点心も自前で作れるようになってしまっただけだよ!」
フーニャンは一気呵成にまくし立てた芦楓を眺めて天井を仰ぐ。
「第五皇子はなんで比轍様を苹州に連れ出したの」
「苹州の祭を見に行きたかったから」
芦楓はフーニャンに訥々と告げた。
「そのときはまだ苹州の州公が第三皇子で、なんでか知らんが天公廟がすごく賑わったんだ。あの賑わいは妙だった。普通、縁結びは天公廟でやらないのに、なぜか天公廟で縁結びの祭があるとかで、他州からも年頃の娘たちやその親が集まっていた」
しばらく顔をしかめていた芦楓は首を捻る。
「なにが起きていたのか比轍め、教えてくれないんだ」
「それが面白くない?」
「面白くないというか……苹州で起きていることを州宰相なのに知らなかったのが、仲間外れになったような気分というか……王族のなかで起きた確執だなあというか……」
芦楓はムスッとしたが、フーニャンが笑い飛ばした。
「ここから先は仲間外れだったとかなんとか、その過去は私の前ではナシ。私とあなたは史姐姐を助ける仲間なんだから」
「うん」
「これからどうする?」
芦楓はフーニャンを見た。
「胡娘は鼻が利くから芝居小屋に行かなくていい。アヘン窟のにおいに酔うかもしれない。明日には芝居小屋に行って、まず様子を見てくる」
フーニャンは頷いて芦楓を見た。
「よろしくお願いいたします」
芦楓はフーニャンを見て得意げに「任せろ」と胸を張った。




