カヴェイネン:異国から来た訪問者(54)愛してるって言ってみて
カヴェイネンは浮雲での会話がどういういきさつで新婚の初夜になったのかよく分からなかったが、それは気にせず蒲華との会話に戻った。
ジャファはイブレイムに頭を押さえつけられて「むう」と唸る。
「ジャファール、おまえの記憶がどうなっってるのか分からんがタム・クムールのハキームを覚えていないか? 記憶の心臓が体に戻ってから、どうだ」
イブレイムに言われてジャファは顔をしかめ、それからぐっとイブレイムの腕を手で押し上げた。
「覚えてないし思い出す気ない!」
「この野郎」
ジャファの反抗的な態度を見てガッチリと腕で押さえつけてから、イブレイムはタジャンにグッと親指を立てて見せて「ハキームよりジャファールとよく言った!」と褒めた。
「……イブレイム殿、ハキーム兄とは遠見鏡で話をしたことがあります」
貞俊が言いながら顔をしかめる。
「あの人は、ずいぶんと自由に男女も容も使い分ける。その日の気分だと言っていたように思いますが……」
「そう、ハキームは気分で容を変える。ジャファールにはそこまでこだわって容を作ってやらなかったから、自分の姿を男女や気分で変えて遊ぶようなことはなかった。おまえさん、あのハキームと同じスリヤの子だからな、そりゃこだわった見目を楽しく使い分けているんだろうと思ったが、頭が固そうだな」
貞俊は鏡越しに見えるイブレイムの好奇心を眺めて、少しばかり躊躇いを見せてから「おっしゃる通り、他にも三種類、形はあります」と言って顎を撫でた。
「蘇人の容が男女、エニシャ人の容が男女、ハキーム兄殿のように使い分けるつもりはありませんので」
イェジンが「ほ」と髭を撫でる。
「ラジュは男嫌いだが、あんたが女の姿で好きに遊ばせてくれるから気が楽だと言っておったよ」
貞俊はイェジンの言い分を聞いてちらりと目を逸らし、それから仕方なさそうに頷いた。
「螺珠殿にはそれだけの過去がある」
ジャファがイブレイムに押さえつけられた下から「え」と声を上げる。
「女の格好もするの?」
「時と場合による」
貞俊は気まずそうに顔を背け、ビジューがジャファに体を寄せる。
「見てみたいですね」
ビジューに言われてジャファが頷く。
「見てみたい」
デイジェンが小さく嗤う。
「どんな怖い女やら」
ジャファが貞俊を見てからデイジェンを見る。
「男でもきれいで怖い。女でもきれいで怖いかも」
イブレイムが「そうだぞ」とジャファを押さえつけ直す。
「ハキームも整い過ぎていて怖い。今日のハキームが男か女かエニシャ人かケルグン人かは、その日に宮殿にかけられている旗の色で分かるようになっているそうだ。旗が白ならエニシャの男、旗が黄色ならエニシャの女、旗が青ならケルグンの男、旗が若草色ならケルグンの女。宮殿の者たちは、旗の色を見て、今日、自分が傍仕えに出る必要があるかどうかを判断するのだという」
貞俊はイブレイムの話を聞いて「面倒な」と呆れた。
「ラジュ殿とやらが誰だか知らないが、そのラジュ殿の前では女の姿なのだろう? ハキームと同じように傍仕えを変えるのか?」
イブレイムに笑われて、貞俊は「いいえ」と首を振る。
「私の傍仕えはほとんどが宦官ですから、特にラジュ殿といて女の姿だからと言って変えることはありません」
ジャファはビジューをつついて小声で声をかける。
「宦官って何?」
「元・男性で、王や後宮の女性たちの周囲にいる者たちです」
ジャファは「元」と繰り返す。
「元・男なら今は女? ビジューみたいに? ビジューは宦官?」
「違います。エルバハンにはおりませんか?」
「エルバハンにはいない。バラカにはいた」
答えたのはイブレイムだった。
「さようですか」
「ジャファールは昔も今も宦官を見たことがないだろうな」
ビジューは「なるほど」と頷く。
「端的に言うと下を切られた男だ」
鏡越しに貞俊がなんの遠慮もなくジャファに言い、ジャファが「痛い」と顔をしかめた。
「ぬう」
ジャファが唸る。
「タム・クムールのハキームが、ティーキムの親が違うお兄さんで、ハキームのお父さんがティーキムのお母さんで、イェジンのオッサンの妹はティーキムの奥さんのひとりだけどティーキムの女友達」
しばらく考えてから、ジャファは貞俊を見た。
「ティーキムにとってリゲルは恋人だった?」
「弟のようだった」
イブレイムが「あっはっは!」と笑う。
「貞俊殿、違います! そこは! 恋人だと断言してください! だいたいあなた、ティーキム王子として結婚しましたっけ? してませんよね! 気になって遠見鏡で最後まで見てしまったんですが、独身のまま死んで結局弟に王位取られてましたよ! 避けたい! それだけは今生避けてください! 六心の皇子必要! 今生は死ぬ前に後継ぎをどうにかしてください!」
貞俊が鏡越しに怒鳴るビジューを眺めて小さく自嘲の笑みを見せた。
「六心の皇子なあ……」
「七人もとは申しません! 後継ぎ候補ならば十人でも二十人でも結構です!」
デイジェンがビジューを抑える。
「増やすな」
鏡越しに貞俊が咳払いでビジューを止める。
「そのうちに」
「お早いうちに」
ビジューは笑顔を見せた。
「ジャファールはまだ子供だ」
貞俊の反駁にビジューが目を細めてジャファを振り返る。
「嫌がっていないで記憶の心臓しっかり自分の物にして、早いところ百二十歳だか百三十歳だかの自覚を持っていただいて、あの人をどうにかしていただけませんか」
イブレイムが「おい」と声をかけてビジューを止めた。
「聞き捨てならん。うちのジャファールを何だと思ってる」
「炎王殿下です。部屋を繋いで庭に出るぐらいの距離で蘇でも炎でも散歩できるようにしておけばよろしいでしょう、後継ぎがいないのは問題です。だいたい、今、蘇に、あの人を入れて六心の王ひとりと王弟がふたりいるのに、六心の子供はひとりもいないので大臣たちが天変地異の前触れではないかと煩いんですよ。六心の子供がひとりでもいれば、その子供をまずは大臣たちの前に出すことができるのです」
ビジューの言葉には誰もが「生贄だ」と内心で呟く。
「子供がいないだけで天変地異と言われるのか?」
イブレイムの怪訝な表情を見て、貞俊が「さようです、子供がいないだけで、天変地異を起こす気か、国を滅ぼす気かと大臣たちに責められる、蘇とはそういう国です」
ジャファが貞俊を眺めてから、「ふむ?」と首を捻った。
「そういえば、ティーキムは女の子に人気あったのに、婚約者の噂も恋人の噂も愛人の噂もなかった。リゲルとしてティーキムの周りの女の子に嫌がらせされたこともなかった気がする。カストールの周りには女の子たくさんいたし、リリアナみたいに理由がある女の子だけじゃなくて、他にも色んな女の子がいたのに」
貞俊は少し視線を彷徨わせてからジャファに鏡越しの笑顔を向ける。
「リゲル殿がいれば十分だった」
ジャファはその笑顔を見て顔をしかめた。
「その満面の笑顔、すごくティーキムらしくなくて胡散臭い。正直言って、カストールと同じぐらい胡散臭い」
「……その評価には傷付く」
貞俊は笑顔のままでジャファに訴えてみたが、ジャファは首を振った。
「信じない」
ジャファを眺めて貞俊が顔をしかめる。
「十分だったから、じゃなくて、愛してるって言ってみて?」
今度はジャファが満面の笑顔で貞俊に要求した。
貞俊は眉間を指でこすり、それから肩が動くほど大きく息をつき、呼吸を整えてから満面の笑顔を作ってジャファを見た。
「リゲル殿を愛してたとも」
ジャファはその貞俊を生温かい笑顔で眺めてから「はは」と笑う。
「すごい信じられない」
「……なるほど?」
「でも」
ジャファは貞俊を見る。
「最後の恋文信じてエニシャにデイジェン送ってくれるぐらいにはリゲルがいたの信じてくれてた?」
デイジェンとビジューがサッとジャファから顔を背け、貞俊が「そうじゃない」と否定した。
「タリヤ公から縁談の申し入れがあったので、デイジェンに行ってもらった」
ビジューがジャファの羊人形に突っ伏す。
「正直に言わなくていいのです! そういうときは、ウソでもいいから信じてたと言ってください!」
「しかしタリヤ公からの申し出があったことでデイジェンに行ってもらうことができたのは確かだ」
ジャファがうんざりしたように「うんそうね」と頷く。
「怒らない。俺はカヴェイネンと一緒だったからティーキムは絶対いるって思ってたけど、ティーキムは俺が王墓の験しを受けていたのは知っていても、本当に同じ時代の存在なのかどうかとか、色々分からないもんね。カストールがスタラーデだなんてことも知らないものね」
貞俊は顔をしかめる。
「スタラーデ殿がカストール殿だったのか?」
「そうだよ、スタラーデがカストールだったんだよ……」
ジャファは頭を抱えた。
「ならばリゲルがヤンジェングルのケシにやられたのはスタラーデ殿の仕業か」
顎を撫でる貞俊を眺めて、「さようです」と頷いたのはビジューだった。
「スタラーデ殿については縁談をしっかりお断りしましたよ」
デイジェンが言い、貞俊が「よかった」と頷く。
それから貞俊はしばらく何事かをじっと考えていたが、ジャファを見て「シャルキン」とひとつ、人差し指を立てて言った。
「なんです?」
ビジューが訊く。
「私のエニシャ名だ」
「殿下にエニシャ名があるというのは初めて知りました」
「私も初めて言った」
貞俊はおっとりと言った。
ジャファとデイジェンとビジューは「ああ」と項垂れ、イブレイムが「あっはっは!」と笑い、タジャンが「はあー」と素っ頓狂な声を上げ、その横でイェジンが「そうきたか」と唸った。
「そうきたかとはどういうことです?」
ビジューがイェジンに問い、ジャファもつられてイェジンを見る。
「ふむ、ビジュー、おまえさんでもさすがに炎の王統史には知らんこともあるわいな。シャルキンは炎の初王の名前だ。エルバハンのイブレイム王の皇子が中興の祖ジャファールだから、タム・クムールのスリヤ王のほうは初王の名前で対抗したのだろうて」
「ははあ」
イブレイムは納得した。
「ジャファールに対抗したか、なるほど」
イェジンは「そういうことだろう」と笑った。
「完璧主義のスリヤが、自分の息子にはもっと良い名前を、と選んだ」
「そういうことだろうと思うね」
イブレイムとイェジンのやり取りを見て呆れてから、ジャファは貞俊を見た。
「どっちも昔の王様の名前だってさ」
ニンッと笑ったジャファを見て貞俊が小さく笑みを浮かべる。
*** *** *** *** ***
水晶宮の下龍站で、蒲華はカヴェイネンを騎龍から下ろす。
「ここは下龍站と言います、水晶宮においでの方はここで騎龍を厩舎に預ける必要があります」
「広い」
カヴェイネンは、どちらかと言えば空に向かって伸びるヴェルタネンデやバルキアの建物と比べて、スジェの王宮が奥に奥にと広がることに驚いた。
浮島だからという理由はあるが、それにしても周囲に見えるものがなにもない。
蒲華はほかの騎龍や浮雲から人が下りるのを確認してからカヴェイネンとピンに目を向ける。
「この先、私はご一緒できませんのでデイジェン殿下の先導でお進みください」
カヴェイネンは蒲華を振り返った。
「一緒ではないのですか」
「私どもは蔡州騎龍兵ですので、王宮では特別の許可なしに下龍站より先に進むことを許されておりません。なにしろ私ども騎龍兵というのは、軍人ですから」
蒲華は笑った。
カヴェイネンはジャファがイブレイムに飾り立てられて、襟に金の縁飾りを刺繍された黒い衣装を着ているのを見て、「ターバンではないのだな」と首を捻った。
「ターバンでもクフィーヤでも、俺どっちでもいいんだけどね」
ジャファは笑う。
「親父が、こっちの……クフィーヤのほうがチビでも威厳が出るって」
「チビでも威厳が出る?」
カヴェイネンはその言い方に「ふむ?」と顎鬚を撫でた。
「これのほうが頭軽くて違和感あるのと、ずるずる長くて動きづらいから俺が飛んだり跳ねたりしなくて王宮向きだって親父が言った」
イブレイムを見たカヴェイネンは、イブレイムがぐっと親指を立てるのを見て、ぐっと親指を立てて返す。
「なんなのさ!」
「なに、走ったら裾を踏んずけてコケるだろうから気を付けるだろう」
「大丈夫だよ、リゲルのドレスはもっと裾が長かったもの」
カヴェイネンはイブレイムをちらりと視線を交わし、それから「せ!」と掛け声をかけてジャファを担ぎ上げた。
「途中まではこれで行こう」
「やだよカッコ悪い!」
ジャファが文句を言ったのを見て、デイジェンが「いいじゃないか、この王宮は全て歩こうと思うと南から北に行くだけで半日はかかる。私も担いでほしいぐらいだ」とからかう。
「そんな歩くの?」
「歩く」
デイジェンは笑った。
「まず、王宮とは言うが、半分以上は王宮で働く者たちの居住区だ」
「シャタンカルに似てるね。シャタンカルは中央から、第一環状から第九環状まであって王宮で働く人たちの居住区があった」
デイジェンは頷く。
「シャタンカルとの違いは、この貫海山に純粋な住民はいないこと。この貫海山に住むすべての者が、ここに住むことを許可された役人とその家族だということだ。ただし東西の市街区には一般的な邑……ひとつの都市の単位だが、それと同じく市が立つし、南の山門区には子供のための学問所もある」
ジャファはピッと顔を上げた。
「学問所あるの?」
「ある」
きっぱりと言い切って、デイジェンは笑う。
「他の都市にも学問所はある?」
「田舎の村にもある」
「それは農民でも行く?」
「まあ……簡単とは言わないし、無償だとも言わないが、機会は与えられる」
ジャファは「そっか」と頷いた。
「バルキアよりは公平かもしれない」
ビジューがカヴェイネンに担がれたジャファの顔を覗き込む。
「アーケリは身分階級が他国よりも固定化されていますから、ほとんど機会は与えられません。スタラーデ殿がアーケリ出身のお母上の価値観で育っていれば、それだけ農家の子供との階級を意識することを「常識」として、リゲルが農家の子供と話をすることを「常識外れなことをする」と苦々しく思っていたでしょう」
ジャファは「そうなんだ?」となんとなく頷いた。
「でも公平かどうかは分かりませんよ。貫海山の南斗山……学問所の名前です、その南斗山で学ぶ子供たちはほとんどが王宮で働く官僚の子弟ですから、「学ぶ」という環境が当然のようにあり、親も人一倍の時間を学問に使うことで仕事を得ている、つまり、龍であろうと人であろうと、学ぶことこそが生きる糧になると思っている者たちのなかで育っている子供たちです」
ビジューの言葉にジャファは首を捻る。
「それで?」
ジャファの疑問にビジューは困ったように笑った。
「残念ながら、農家の子供にその環境はないのですよ。農家の者たちは農作物を育てて生活していますから、学問で身を立てるというのは「お偉いさんの子供たち」がすることなんです」
「ああ……」
ジャファは息をついた。
「そっか……龍たちは「身分が違う」とは言わない、けど、人は自分の生活に合わせた「身分」に馴染むのか……」
ビジューは「ん」と頷く。
「大人はだいたい、自分の経験を子供の将来に当てはめて考えるものです。学問で身を立て禄を食む大人は、学がなければ将来生活できなかろうと考える。商いで身を立てた大人は、他人に出し抜かれて損をしないように、子供に他人を出し抜けと教える。農作物を育てて生活する大人は、学問所に行く時間があったら苗を植え育てたほうがよいと子供に教える。子供がそれ以外のことに使う時間は、そういう大人にとって「惜しい」のですよ」
ジャファに言いながら、ビジューはジャファを担ぐカヴェイネンの隣を歩く。
「以前、私は貫海山以外の場所で私塾を開いていたことがあります。王都でなければ学べないことでも教える、その私塾にお金を払って子供を通わせてくるのは、その土地で役人や高級官僚や豪商になった者たちです」
ジャファは「そっか」と口を尖らせた。
「学ぶにもお金が必要、そうだね。俺、だいぶ先生から逃げて遊んでたけど」
イブレイムがジャファを睨む。
「おまえに付けた家庭教師はエルバハンどころかエニシャでも指折りの導師だっていうのに、まったく、縛り付けるのも一苦労だとジャヒーアが呆れていた」
「親父は俺を母さんに丸投げしてるあたりがもうダメ」
ジャファが呆れた。
「やかましい、誰のために盗賊稼業で奔走してたと思ってるんだ」
「死んだジャファール」
ジャファがプンと頬を膨らませ、イブレイムがジャファを睨み付ける。
「それがおまえだと何度言えば分かる」
「何度言われても特に納得する気はないね」
ジャファの言い分にイブレイムが頭を抱えた。




