カヴェイネン:異国から来た訪問者(52)老騎士を待つ
蘇国水晶宮
奥の宮
そこには先王に嫁いできた妃たちが思い思いの姿で集まっていた。
すでに妃としての立場から自由になった六心の妃たちは男の姿でそこにいる者のほうが多い。
玄妃、ユネ
炎妃、スリヤ
朱妃、ヤータカ
朱二妃、ターラ
本来ならばそこに顔を見せるはずの玄二妃エナがいないのは、エナと体を共有する史公の比轍が外廷に赴いているからであり、これまでも一度は冥府に入ったという理由で、エナは奥の宮の儀礼的な事柄からは距離を置いていることが多かった。
妃であった王子たちは、自分の子供にそれぞれの期待を持っていたが、それをこの場で口にするほど野暮には育ってきていない。
「貞俊殿は第一皇子として、なんとも模範的にお育ちになったものだ」
言ったのは朱妃ヤータカだった。
息子の煕俊は機転も才も劣らない第三皇子として誉れ高かったが、その煕俊は謀反の疑いをかけられて投獄されるや毒酒で自害を求められ、果てた。その事件自体が冤罪だったことを証明したのは、玄妃ユネの子泰俊と、炎妃スリヤの子貞俊だった。
ヤータカは、我が子の死が謀殺だったことを暴いた貞俊と泰俊を恨むわけにもいかず、特に貞俊の即位に不満を抱くことはなかった。
玄妃ユネは、我が子泰俊か、妹の子芳俊を王にと望むことはできるが、しかし当の子供たちにその意思がないのを見ては呆れて嘆息するばかりだった。
玄では闘争心を見せなければ王子として頼りないと見捨てられるが、蘇では、剥き出しの闘争心は品がないと言われて見捨てられる。闘争心を見せることなくゆっくりと追い詰めるのが、蘇の王宮で皇子が生き残る方法なのだ。
親たちの会話は、自然と即位した貞俊のことに収束していたが、炎妃スリヤは貞俊のことを考えるだに、首を捻るしかなかった。
子供にどのような姿かたちを与えるか。
貞俊が生まれるとき、蘇王圭徹は、ただのひとつも要望を言わなかった。
炎の龍は五心か六心かも他国には知らされない。
炎から蘇に嫁ぎ、男の姿と女の姿とを品定めされてから、同時に炎から嫁いだ女が、女の姿でしかいられなかったと聞かされたときに、自分が蘇王妃としてひとり目の正式な「妃」に収まることが決まった。
炎妃と呼ばれるのは嫌いだった。
子供に許される能力、技能、心臓の状態、それらの一切を決めるときに、炎妃は、母として、同時に、六心の子を持つということになんの興味も示さない圭徹を前に、父として、蘇人の王になるために思いつく限りの美徳を我が子に与えたいと、蘇の三家、比家・芦家・恂家の者たちをもてなして貞俊に言祝ぎを与えることにした。
比家の言祝ぎは、山河の美しさ、豊かな土地の恵みを知る者に育つように。
芦家の言祝ぎは、法の淵源は道徳と仁愛であることを知る者に育つように。
恂家の言祝ぎは、礼は人の尊厳を守るためにあり己の尊厳を守るためにあると知る者に育つように。
この三点を聞いたときに、炎妃は蘇の価値観をはっきりと知った。
(蘇は、人間が持つ悪意を砂糖菓子のような甘さで包むことで統治されている国だ)
その代わり、上に立つ者には恐ろしいほどの自制心が求められている。
上に立つ者に、人間らしい感情は求められない。
山河の美しさを知り道徳と仁愛と礼節で君臨する。
まるで、この国に来て知った「仁獣」だ。
この国の皇子に、武勇を誇るような粗雑さや、筋肉の太さや胸板の厚さを誇るような強さは求められていない。
そうした強さは王や皇子を守る武人が身に付けるものであり、王や皇子は、彼らをいかに心服させるかが王や皇子の腕の見せ所なのだ。
炎では、兄弟も親類も、一切関係のない五心の者たちも、オアシスの領主という領主はいかに商人たちが持つ情報を駆使し、他のオアシスの領主たちを出し抜くかを競った。
だが蘇という国は、まったく違う。
整然と整えられた生活感のない王城。
個々の動きはあるものの、揃いの装束で見た目を整えられた、この王城で働く者たち。
まるで遊戯版のうえに並べられた駒のように、生気のない者たち。
六心であろうが五心であろうが、オアシスを統べる能力さえあれば領主として王を名乗れる炎とは違う。
この「蘇の国」で王は創世神という権威を依然として保っており、皇子はその跡目を争うために、統治手腕を競わされる。
最終的に誰が王として即位するのがふさわしいかを選ぶのは、天意だという。
天意とは何かと聞いたとき、比・芦・恂の三大臣は言った。
「人の総意、ということになるでしょう」
生活がよければ人は「その時代」に留まろうとする。
生活が悪ければ人は「その政治」に抗おうとする。
蘇の大臣たちは、それが「天意である」という。
つまりその「天意」を王に告げることができる者が、よい官僚であり、その「よい官僚」を選び使うことができる者が、「天意」に選ばれ支えられる王」だということになる。
炎妃は理解した。
この国では、王はただの統治者ではない。
人よりも人らしく、しかし人であってはならない「なにか」だ。
炎妃は相手が何を求めているかを理解する能力という一点で、これから他国から蘇に嫁いでくる王子たちに自分が劣るとは毛頭思わなかった。
だからこそ、貞俊には生まれたときから「蘇の第一皇子」として、神の後継ぎにするべく躾役を選んだ。
(文句のつけようがない皇子)
炎妃は葡萄酒が注がれた銀器を手に、嗤った。
王の資格を得たのは皇后になった玄妃の皇子でも、その下の妃の皇子でもない。
(王の座を奪ったのは他の誰でもない、貞俊だった)
天牢に入れられてからあと、貞俊は変わった。
なにが我が子を変えたのかは分からない。
ただ、間違いなく変わった。
だいぶ未成熟な状態で成長が止まっていた精神年齢が、どうしてかぐっと大人びた。
交渉を嫌い、馬鹿正直に真正面から直談判を試みていたものが、談判をやめて弾劾に手段を変えた。
弾劾という手段を自分に許すような息子だとは思わなかった。
果断、と褒めてやりたいところだが、そのことを言うと、困ったように言葉を濁す。
炎妃は考える。
「反抗期のひとつもないのは、できた子だと言えばよいのか、それとも出来損ないだと言えばよいのか」
嘆息した炎妃スリヤの様子を見て、ユネとヤータカとターラは顔を見合わせた。
「スリヤ殿は、貞俊殿が反抗期もなかったとご不満か? 反抗期など楽しくないぞ。泰俊などは、反抗期のあいだ奥の宮にも後宮にもほとんど顔を見せなかった。見せたと思えば、なにを問うてもだいたい「母上には関係ないことです」という言葉で濁される。男同士ならよかろうと、奥の宮で話を聞こうとしても「玄の草原とは違いますから、ご助言いただいても役に立ちません」と可愛げのないことを言う」
朱二妃のターラも、頬に手を当ててため息をついた。
「慶俊も、「自分のことは自分で考えられる」と言って着物ひとつすら選ばせてくれなくなりましたのよ」
ヤータカは「煕俊は」と言ってから天井を見て、首を振った。
「反抗期だったのかどうかがよくわからん」
首を傾げるヤータカを見て、スリヤは目を眇めた。
ヤータカは恐ろしいことを思い出したとでも言わんばかりの表情で首を振る。
「炎の者でもあるまいに、交易ばかりで神々を蔑ろにしてはいないかと苦言したら、供物にでもしろと言って、こともあろうに白い牛を絞め殺して担いできて、宮の広間に放り出していった」
炎出身のスリヤとしては、言いたいことがあった。
「炎の者でも精霊への信仰はそれぞれにある」
玄出身のユネにも言いたいことがあった。
「牛一頭を絞め殺して担いできて見せたのならば、交易だけに汲々としてはいないという主張だったのではないか?」
ターラだけは、ヤータカと同じく「恐ろしい」と表情に浮かべて首を振った。
「白い牛を絞め殺して放り出すなんて……」
ユネとスリヤは顔を見合わせる。
「もしや、白い牛、に、なにか問題があるのだろうか?」
ヤータカとターラは頷いた。
「朱において、白い牛は初王を先導して道を開き田を耕した者、豊穣の神が宿った動物として崇められるものです。豊穣の神を殺すなんて罰当たりなことをなさったから……」
ターラが言い、ヤータカが呆れる。
「あの子にかけられた冤罪は、豊穣祭の牛を毒殺したことだった……あれはもしや牛の祟りではないかと思うことがある。もっとも牛の祟りであったとしても、我が子を惜しげもなく死なせた圭徹を赦すつもりはない」
ユネとスリヤはもう一度顔を見合わせてから、「偶然だろう、牛の祟りなぞあるわけがない」とヤータカとターラを窘めた。
貞俊の反抗期に関するスリヤの悩みは牛に蹴飛ばされて消えた。
*** *** *** *** ***
貞俊はひとつ大きく息をついた。
ティーキムはカヴィニンを守る形で命を落とした。
それは、リゲルの頼みでもあり、央原君がティーキムに与えた命数でもあった。
カヴィニンにはカラスという妻がいる。
カラスはリゲルの侍女だった。
さてなぜカヴィニンが蘇に来ることになったのか。
自分はエニシャにいるというリゲルの最後の手紙を受け取って、エニシャに泰俊を迎えに出した。
炎王は鏡越しに、ジャファールと名乗った。
リゲルならば王墓の期待を満たせるだろうとは、思った。
だからこそ深入りはしたくなかった。
*** *** *** *** ***
ティーキムにとって、リゲルは自由で不思議な少女だった。
ドレスのスカートを泥だらけにしながらひとりで村に向かい、何をしているのかと問えば、農家の娘に謝るのだと言った。
「農家の娘と話をするなんてとんでもないなんて言われたくない」
リゲルはそう言った。
王墓の験しでヴェスタブールにいるが、自分がなにをすればよいかは知らないと言っていた。
「……王に、うん……よい王になるだろうな」
貞俊はひとりで勝手に納得して頷く。
少女だと思っていたが、麻薬に抗う様子はまったくそうは見えなかった。
覚えているかどうか、意識があったかどうかもわからないが、歯が折れるのではないかと思うほどにキリキリと歯を食いしばり、自分自身を鎖で縛っていた。
欲張りなのだ。
ティーキムも彼女も、欲が深いのだ。
カストールは、自分やジャファールに比べて寡欲だった。
ある者は、カストールのことをこそ強欲と見るかもしれない。
そうではないのだ。
自分一人の手元に権力があろうと、金銀財宝があろうと、満足はできない、満たされることはない、それが「王墓が求める王」だ。
ティーキムはヴェルタネンデの者が満たされるように、リゲルはフォルクサンとシャタンカルの者が満たされるように、その「満ち足りる」という現象が、上流に留まらず市民や農民にまで及ぶように、それがティーキムとリゲルの欲だった。
王墓の王たちは、王とは欲が深いものでなければならない、そのことを知っていて、欲の深さを試していたに違いない。
欲のために親兄弟と争うことを厭わない者、その勝者が、王の権利を手にするのだ。
ただ、あの世界を離れたことで手に入らなくなったものがあるとすれば、自分にとってはそれがリゲルであり、彼――ジャファールにとってはティーキムだっただろう。
チリッと胸に痛みが走って、貞俊は王権を示す紅玉を見た。
「王墓へ」
紅玉の上に浮かび上がる言葉を読み上げ、貞俊は目を閉じる。
貞俊はしばらくそのまま目を閉じていたが、目を開いてから大きく息を吸い込んだ。
「出掛ける」
「どちらへ?」
「少しばかり散歩に行くだけだ」
十暁殿から、と、言葉にせずに付け加える。
水晶宮の十暁殿からは、蘇国内のどこへでも行くことができる。
目的の場所さえ分かっていればそれでよいのだ。
そのように、比一族が作りあげてくれている。
十暁殿に行く前に、貞俊は北陽王墓に足を踏み入れた。
いつ来ても、王墓と呼ばれる黒い箱には不気味さが漂う。
「王のお出まし」
王墓の案内人が声高に告げた。
貞俊は案内人を見てから央原君の沙汰を聞く。
「炎王との相性はどうか」
央原君の問いが、声だけで響いた。
貞俊は「問題はなし」と答えてから、しばらく無音の静寂のなかにいた。
そうして、ふと、顔を上げた。
「六心王龍は、王と各国の王子との婚姻でのみ生きながらえる。ヴェスタブールで見た犬は近親交配のなかで弱り、短命になっていった。六心王龍に、同じことが起きない、起きていないという証明はあるでしょうか」
貞俊の問いに、央原君は嗤った。
「ない。六心王龍族には問題が出ないように我々が手入れしている。蘇氏貞俊、炎氏ジャファールを含めて、だ」
貞俊は小さく嗤う。
「カストールも含めて、ですか?」
「あれも含めてだ。ただ、あれは病にやられていた」
「病?」
央原君は「さよう」と言葉だけで頷く。
「バラカの毒は、伝染する」
その央原君の言葉に「ヤンジェングルのケシ」と貞俊は呟く。
「ジャファール・エルバハンには、免疫があったと言えばよいだろうか」
いくつかの声が重なり合って笑う。
「イブレイムに毒の駆除ができたことも幸いした」
「盾になるはずの五心が動かず、それどころか手引きを繰り返して六心に寄生したのは、想定外だった」
央原君たちの言葉が、だんだんと貞俊の耳を上滑りするようになり、貞俊はパン! と手を叩いた。
「私をお呼びになったのは、何のためでしょうか」
貞俊の問いに、央原君が「ああ」と頷く。
ここに来て、今日貞俊が知ったのは、央原君と呼ばれる存在が複数人であることだ。
央原君は貞俊に告げる。
「不調の原因を聞くためだ」
貞俊は顔を上げた。
「不調? 特に不調はございません」
「ないとは思わない。真核の動きに不規則な乱れがある」
央原君に言われて貞俊は首を捻る。
「考えるべきこと以外のことを考えていることがある、そのように受け止めたが、不調ではないか」
そう問い詰めてくる央原君の言い分を聞いてから、貞俊は大きく息をついて首を振った。
「ただの私事です。カヴィニンを迎えに出たいが朝議があるとか、リゲルの話をもう少し聞いてやりたいが、目を通さなければならない奏上が多くて時間をかけて聞いていられないとか、そういうことであって、処理する必要があることは片付けているはずです」
貞俊の返答を確かめた央原君は、しばらく音も文字もなく沈黙のなかに貞俊を置いていたが、「よろしい」という央原君のひとりが声を上げたことでその沈黙が破られた。
「不調がないということならば、それで結構。今日、聞きたかったことは聞けた」
央原君とのやりとりから解放されて、貞俊は背筋を伸ばして慇懃に謝辞を述べ、王墓を後にする。
カヴィニンを迎えに出て、ジャファールと話をする時間を作る。
十暁殿を使えば、往来の時間はいくらでも短縮できる。
自分に与えられた自由な時間には限界がある。
貞俊は侍従に声をかけた。
「次に誰かと会わねばならないのは、何時だったかな」
「二時間後ですから、自由にできる時間はお支度までの一時間半とお考えください」
「では、一時間半は自由にさせてもらう」
貞俊はそう言って、足早に十暁殿に向かった。
王宮内は走るべからず。
龍の姿で飛ぶべからず。
この決まりが、今の貞俊には鬱陶しかった。




