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蒼山碧海番外編  作者: 望月かける
異国から来た訪問者
44/106

カヴェイネン:異国から来た訪問者(40)正義の守護者

 ジャファは、砂時計を見て残された時間が少ないことを確かめた。

「バルナガラン」

 ジャファの緊張した声で、バルナガランは自分のために特別室に用意された簡易ベッドで寝返りを打った。

「なんだ」

「今日はありがとう」

「……なにが」

 バルナガランは侯爵令嬢の謝辞に顔をしかめる。

「留守居役」

「部屋に来る連中片っ端から、寝てるから起こすな、と言って追い返しただけだ」

「それで十分」

 ジャファはしばらく黙り込んでから、窓ガラス越しに月のない空を見上げて小さく笑みを浮かべた。

「バルナガランは、どうして警邏隊に入ったの?」

「第八環状で一番権力があるのが警邏隊だったってだけだ。昔から、権力こそが最後の正義だと信じてきた」

 ジャファはバルナガランを見る。

「今は?」

「今だって変わりゃしねえよ。それがどうだ。宰相の下に入ってみたら、ただの力自慢の犯罪者に門前の半野良と言われて腹を立てても、警邏隊長のはずの俺がその犯罪者の前で権力で敗けるんだ。俺は宰相とその無法者の間にいると思っていたのに、宰相の前じゃその無法者の下で、そいつを殺したことで宰相の敵になった。宰相にとって、替えが利くのはそいつじゃなく俺だったんだ」

 バルナガランが頭を掻きむしるのを、ジャファは小さく柔らかく微笑して眺めた。

「あんたは第八環状で育ったの?」

「他のどこだと思うんだ。まさか第一環状じゃねえだろ」

 ジャファは「それもそうだ」と笑う。

「第八環状のなかで、この施療院は治外法権だ」

「知ってるよ」

「第八環状の警邏隊とここの守備警護なら、どちらの権力が強いと思う?」

 バルナガランがジャファを振り返った。

「そりゃ……ここの守備警護のほうが強い」

「警邏隊に入って、最後に達成したかった正義はどんなものだった?」

 ジャファはバルナガランを見つめてから、バルナガランが頭を掻くのを見た。

「そこまで考えちゃいねえ。正義の味方ってのは敵対するヤツを捕まえる者、それだけだ」

「この施療院では、敵対する者というのは弱者の権利を侵す者。この施療院で働く医者や研修に来る医学生、相談に乗る法律家や法学生にとって、弱者の権利を守り、彼らが人間らしく生きていかれるようにすることが自分たちの正義だ。その一方で、この施療院に価値を見出す貴族たちは貴族の義務と責務の証明として、この施療院に寄付を出し、慈善家としての名声を買う。貴族にとっては権力以上に名声が正義の象徴だ」

 バルナガランは顔をしかめてジャファを見た。

 ジャファは続ける。

「ここで役職を得るなら、正義は弱者の権利保護と貴族の名声の保護で、敵は弱者を虐げる者と、ここに金を寄付する貴族の名声を貶める者だ。その敵の前に立ってくれるなら、バルナガラン、あなたがこの施療院の関係者にとって正義の守護者になれる。フォルクサン侯爵家と大公家の後ろ盾があるこの施療院の守護者は、第八環状の警邏隊長どころか第二環状の警邏隊長よりも強い」

 目を眇め、バルナガランはくっくっと喉を鳴らして腹を抱えた。

 ジャファは眉間に皺を寄せる。

「なにかおかしい?」

 バルナガランは顔を上げて「いいや」と手を振った。

「半日、どこに行ったか知らないが、ずいぶんと汚い説得の仕方をするようになったもんだなと思っただけだ。いや、あんた元からそういうところがあったか」

 バルナガランは嗤う。

「だがそいつは二十歳にもならんお嬢様の説得の仕方じゃない。いいかお嬢様、そいつは脅迫って言うんだ。ここであんたの言葉に応じれば、俺にとっての正義と、権力と、プライド、全部を満たすってか? 俺はそんな権力者にしかできねえような高慢な説得に乗ると思われてるわけだ」

 ジャファは「それは申し訳ない」と笑顔を返したが、その謝罪よりも前にバルナガランは「乗ってやるよ」と小さく言った。

「それで俺を半野良扱いするような連中を踏み付けてやれるんだからな。ただ言っとくが、俺は、弱者を助けたい! なんてお花畑の連中の仲間じゃあない」

 格好をつけたバルナガランに、ジャファは小首を傾げて、どうでもいいとでも言うような笑みを浮かべた。

「いいんじゃない?」

「は?」

「誰もがティーキムみたいに、謙虚で、淡々としていて、中立で、力も強い、すごい人ばかりいるような世界だったら、偽善者とか、お花畑の連中と違うような人は歓迎されないかもしれないけど」

 ジャファは自分の手を見る。

「どっちかって言ったら、世界ってそんなすごい人ってほとんどいないでしょうが。いたらすごい希少価値。ティーキムはすごい希少。でもそれなら、偽善者とか、打算でお花畑に協力する人がいたっていいと思う」

 バルナガランは何とも形容しがたい表情でジャファを見た。

「誰だそのティーキムってのは」

「ヴェルタネンデの領主」

「おまえ俺には「リリアナと自分に対する態度が違う」とか言っておいて、てめえは隣国の王子呼び捨てか!」

 バルナガランはジャファに向かって枕を投げた。

「友達で先生だからいいじゃん!」

「よくねえわ! 数日前に俺に見せた侯爵令嬢の威厳どこにやったこのジャリ!」

「数日一緒で今さらそんなもんあるかジャリッてなんだ! 意味分かんない!」

 パンッと音を立てて部屋に入ってきた施療院の看護師長が、ジャファとバルナガランを睨み付ける。

「ここは施療院の一室です。大学団の男子寮ではありません」

 ジャファとバルナガランは看護師長に威圧され、静かになった。

「看護師長ゴメンナサイ」

「騒いだのはあいつです、オッサンのカツラが風に飛ばされるだけでも笑える年頃の侯爵令嬢」

 バルナガランはジャファを売り飛ばした。

 看護師長が部屋を出たあと、ジャファは具体的にあからさまなカツラで薄毛を隠している男爵が園遊会にいたことを思い出し、男爵のカツラが風に飛ばされるところを想像して笑いを堪えた。

 バルナガランはそのジャファを見て睨む。

「おい令嬢、心当たりがあったのか知らんが、失礼だから笑うな。心当たりの誰だかの尊厳を傷付けるぞ」

「そんな例を出すバルナガランが悪い」

 ジャファは笑いを堪えてベッドに突っ伏した。

「尊厳傷付けてるのかもしれないけど、潔いハゲのほうが絶対潔くてイイよ」

 肩を震わせるジャファを眺めて、バルナガランは「チッ」と舌打ちする。

 ジャファはひとしきり笑ってから、深呼吸をしてバルナガランを見た。

「考えたんだけど」

「なにをだ」

「バルナガランにとって、自分の雇い主っていうか、後ろ盾になった人の正義が、守るべき物なんだと思うと、すごい忠誠心の忠義者だよね」

「あ?」

 バルナガランがジャファに妙なものを見たような目を向ける。

「自分は敵を捕まえる人。敵は主人の正義を傷付ける人」

 ジャファはベッドに転がった。

「それはそれですごいことだと思うよ。だけどその代わり、主人を選び間違えると他人も自分も傷付くことになってしまうの、もったいない」

 バルナガランは頭ではなく、鼻の頭を掻く。

「そんなことを言われたのは初めてだ」

「お互い大嫌いだけど、損得で縛られるのもそれはそれで……」

「それはそれでなんだ」

「……なんかすごい、悪の親玉になったような気分でワクワクする」

「ワクワクするとか言うな、俺はそのワクワク気分程度の悪の親玉に寝返った三下か」

「なにサンシタって」

「字は読めるんだろうが、てめえで辞書引きやがれ」

 ジャファは嫌そうにバルナガランから目を逸らした。

 バルナガランはジャファに背を向けてベッドに横になる。

「俺を官憲の犬だとか、宰相の犬だとか言ったヤツはいくらでもいたが、俺を忠義者だなんて言ったのはあんただけだ」

 暗闇に溶けるバルナガランの影を見つめて、ジャファは息をついた。

「この先、バルナガランに半野良だなんて言うヤツがいたら、今じゃ第一環状の猟犬だって言ってやったら? 猟犬って税金かかるんだって。第一環状の貴族が税金払ってでも囲う番犬なら、半野良じゃなくなるじゃない」

 バルナガランがふっと笑った息だけが聞こえた。

 その会話から少しして、ジャファはふと「忘れてた」と呟いて、ベッドの脇に置かれた小さなサイドテーブルの引き出しから封筒と便箋を取り出して「寝るところ邪魔してゴメン」とバルナガランに声をかけてランプに火を入れ、手紙を何通か書いて、その手紙をすべてバルナガランに渡す。

「ひとつは、大公夫人宛てのバルナガランの推薦状だからなくさないで。それから、この侯爵家の紋章が入ってない封筒はヴェルタネンデのティーキム殿に」

「隣国の王子宛て?」

「そう」

 ジャファは笑い、それから困ったように頬を抑えた。

「恋文なんて初めて書いた」

 ジャファール・エルバハンとしても、チビのジャファとしても、リゲルとしても。

 しかしバルナガランの表情は、大変怪訝な物だった。

「恋文?」

「……悪い?」

「いいや? 悪くはない……しかし俺はなぜ、おまえが世間一般の年頃の女の子らしく恋愛にうつつを抜かそうとしているのがこんなに不愉快なんだろうな」

 ジャファは眉根を寄せた。

「……不愉快なの?」

「理由は分からん。だが不愉快だ」

「ソリャドウモゴメンナサイネ」

 ジャファの言い草に、バルナガランは首を振った。

「謝られても困るがその謝り方にも一切の謝罪を感じない」

「だってティーキム宛てに恋文を書いたことについて一方的に不愉快になられても、私の知ったこっちゃないもの」

 バルナガランはジャファを見つめた。

「そりゃそうだな」

「そうでしょ?」

 ジャファは頷く。

 受け取った何通かの手紙を上着にしまい込んで息をつき、バルナガランは「もう寝ろ、今度こそ寝ろ」と言ってジャファをベッドに追いやった。

 月のない夜、カルシュ・ヴァン・ゴージャンの無実を訴える再審は弁護士たちの働きで明後日に迫っていた。


 *** *** *** *** ***


 リリアナは今までと変わらずカストールに紅茶にウィスキーを落として出した。

 カストールはにこやかにリリアナを抱き寄せて「ありがとう」と囁き、紅茶を手にした。

「今日はこれで邸に戻るわ」

「よい夜を」

 カストールはリリアナの額に口付ける。

 リリアナはカストールの部屋を出て、侍従に微笑した。

「もうお休みになられたから、このあと誰が来ても邪魔をしないでね」

「承知しました」

 侍従は頷き、リリアナを馬車まで送る。

 リリアナは馬車に乗り込んで、目を細めて笑みを浮かべた。


 明後日。

 叔父の無実は立証される。

 証拠も証人も集まった。

 リリアナは馬車から外を見た。

「皮肉だこと」

 ひとり小さく笑ったリリアナを、侍女がちらりと見る。

「侯爵家に嫁に行ったら、悪妻だと罵られてでも侯爵家の独立性を使って叔父様の無実を証明する証拠を集めるんだって意気込んでたのに、気が付いたら全部リゲル様が整えてくれてしまったわ。おそろいのスズランの香水、危ないことをするのは私もだっていうつもりだったのに、宰相派の間ではあの子がたったひとりで「フォルクサン侯爵のわがまま娘」と言われて悪役になってる」

 それから、リリアナは暗い影のなかにある空を見た。

「叔父様の助けを求めるつもりが、叔父様を陥れた相手に縋ろうとしていたなんて、滑稽な話……ねえ、聞いて」

 侍女はリリアナの「聞いて」に、顔を上げた。

「あの兄妹ってとても仲が良さそうに見えるでしょう?」

「さようですね」

 リリアナは少しばかり言葉を選び、それから侍女に言う。

「兄のほうは腹の底が真っ黒よ。妹に尋常じゃないぐらい嫉妬して、笑顔で平然と毒を飲ませるの。妹は、無邪気なくせにときどきこれでもかというぐらい高慢なの。あれは……なんと言ったらいいのかしら……フォルクサンの女王様ね」

 侍女が困惑したような表情を浮かべたのを見て、リリアナは苦笑した。

「お嬢様は、リゲル様が殿方でないのが残念とおっしゃっておいででしたね」

「そうよ、どうしてか、ふと年下ではないような気がするの。あの人、殿方だったらきっとどこの令嬢も釘付けになるでしょうね」

 侍女はリリアナに苦笑を返す。

「紅茶を淹れるのに失敗しても無駄、嫌味を言っても意に介さない、そうおっしゃって目の敵にしていらしたのに」

「そうよ、だってカストール様に取り入るのに邪魔だと思ったのだもの。でも味方になってくれてからは、これ以上になく頼りがいがあって、無茶で無謀で、片時も目が離せないの」

 リリアナは笑った。

「……私ね、ケシの一件から、リゲル様が生き急いでいる感じがして怖いのよ。施療院を建ててから、あの施療院の名誉顧問に大公夫人を引きずり込んだの、あなた知ってるかしら」

「いいえ」

「大公夫人に名誉顧問をお願いしたのよ。あの施療院は、大公夫人がフォルクサン侯爵令嬢から譲られたことになっているの。侯爵夫人と侯爵令嬢の施療院だというだけで、ちゃんと治外法権なのに、お兄様を信用してないのでしょうね」

 手元を見て、リリアナは声を落とす。

「それだけじゃないのよ。フォルクサンの羊毛加工の工廠も、弁護士に権限を委任してる」

 伯爵家の邸に着いた馬車からステップを踏んで降り、リリアナは正面玄関が開くのを待つ間に侍女に言った。

「リゲル様は、宰相と直接会ったことがないわ。だから、警戒しているのはお兄様のことに違いないの。なにしろケシを盛られたのだもの」

 侍女は「そうかもしれませんね」と頷く。

 正面玄関を入って階段を上がったリリアナは、父の部屋をノックした。

「お父様、もう夜遅いけれど、少し話をしてもよろしい?」

 ドア越しに「入りなさい」と声が返されて、リリアナは扉を開けた。

「遅かったね」

「カストール様に、夜の紅茶を淹れてきましたの」

 伯爵は娘の言い分に苦笑しつつソファを指差した。

「まあお座り」

「ありがとうございます」

「許婚ではあっても、まだ婚礼は済ませていないのだから、時間は気にしなさい」

「ごめんなさい」

 リリアナは殊勝な態度で父に謝り、それからフォルクサンの兄妹の関係と、叔父カルシュの再審とリゲルの関係についてすべてを話した。

 ゴージャン伯爵は、リリアナの話を全て聞き終えてから息を吐いた。

「その話が本当だとするなら、カストール殿との縁談を考え直すこともあってよいが、リリアナおまえの意思はどうだね」

「私はできれば、このまま進めて欲しいの。カストール様は宰相と通じているかもしれないけれど、リゲル様は大公夫人としっかり仲良くしておいでなのよ。それにリゲル様のほうは宰相とも面識がなくて……叔父様の無実を証明するための最後の証人を、リゲル様が見つけてくださったの。リゲル様は、そのことで宰相とお兄様の不興を買って、今は施療院に入院するという名目でお兄様からもご両親からも距離を置いてもらっているところ」

 リリアナは父の手を取った。

「味方がいるって心強かったの。彼女私より年下なのに、私、リゲル様に、あなたは侯爵令嬢なのにそれがどれほど特別なことなのか分かってないって八つ当たりしたわ。そうしたら全部、話を聞いてくれて、最後の証人まで見つけてきてしまった。あの子、自分がお兄様と宰相から命を狙われているのに、私に笑いかけるの」

 話すうちにリリアナは、なにかの堰が切れたかのように感情があふれ出した。

「巻き込もうなんていうつもりはなかったの。巻き込みたくないから、さっさと結婚してどこかに行ってしまえばいいのにと思っていたの。でもそれは、叔父様を助けるのは私だっていう、単純な英雄願望に囚われていただけだったのだわ。それなのにあの子は自分が誰かを助けて褒められるとか、そういうことではなく、ただ純粋に納得ができないと言って、それだけのために命懸けになるの、変よ! おかしいわ!」

 ゴージャン伯爵は娘の手を叩いてあやす。

「まずはちゃんとカルシュが釈放されるように、リゲル嬢の尽力が無駄にならないように祈ろう」


 *** *** *** *** ***


 朝からどんよりとした雲に覆われたカタラタンの空の下、黒髪のカヴェイネンは、ティーキムにからかわれていた。

「カラス殿から色よい返事はいただけたのだろう?」

 カヴェイネンは若い主人を振り返る。

「リゲル嬢がどうも色々と勝手なことをしているようで、心配の種が尽きないそうです」

 リゲルを気に入っている様子のティーキムがカヴェイネンの言葉に「ふうん」と小さく鼻を鳴らすだけでそれ以上のことを訊こうとしないことに、カヴェイネンはティーキムにかける言葉を探して唇を舐めた。

「リゲル嬢は」

 言いかけたカヴェイネンにティーキムは「気にするな」と言い切る。

「彼女には彼女のやらねばならないことがある」

 カヴェイネンは眉を上げて年若い主を見た。

「それは……百年以上生きている龍王の勘ですか?」

「百年以上生きている王龍の、確信」

 ティーキムは笑った。

「こちらはそろそろ、父上殿がヴェルタネンデ自治領群の領主たちが封建領主として従属しろという要求を飲まないことに苛立っている頃だ。王国からの恩恵はないのに自分たちの権利だけは手放せなどという要求に従う領主がいるとしたら暗愚だということを了解していて、従わないことを大義名分にして攻め込んでくる」

 心底嫌だという表情を浮かべてティーキムが父を呪うのを見て、カヴェイネンは小さく笑う。

「王宮の守りが手薄になるであろうことを見越して、ヴェルタネンデ自治領群の領主たちから集めた傭兵をカタラタンの王都に紛れ込ませるのは、大変にイヤらしいやり方です」

 カヴェイネンが顔をしかめると、ティーキムはふふんと鼻を鳴らして笑った。

「ヴェルタネンデ自治領群……正確には、ヴェルタネンデ周縁自治領群というのは、主に商業国家の集まりで軍事は苦手な国々だ。ヴェルタネンデが連合で軍を並べたところで、王都から派遣されてくる将軍に太刀打ちできるとは思えない」

 ティーキムを見つめて、カヴェイネンは息をつく。

「王都から派遣される将軍は、私の旧友でしょう」

「カヴィニンの旧友なら有能な将軍だろう。ならばやはりどれほど稚拙でも、策を弄するしか手はない。戦場では力と技能と技術の衝突が物を言う。だがそれは武力が衝突する最後の時間に起きる、全体の終盤にどんな愚か者にも分かる形で発露する現象であって、勝敗を明白にするための手続きだ。そこに有能な将軍が出てきたら、訓練不足で人数も揃わないうえ、細かい言葉の使い方や方言の差があって意思の統一に時間がかかるような寄せ集めの軍に勝ち目はない」

 黒髪のカヴェイネンは腕組みをして、困ったような表情で頷いた。

「龍王様の仰せのとおり、と申しておきましょう」

「カヴィニン」

 ティーキムはチェス盤を広げる。

「将棋を指そう」

「チェスです」

「どちらでもよい。将棋の駒には役割があり、動きが決められている」

「チェスの駒に役割があり、動きが決められているのは当然のことです」

 ティーキムはカヴェイネンに向かって指を立てる。

「囲碁は違う。囲碁の石には役割もなければ動きもない。将棋は戦術を考えるのに適しているが、囲碁は戦略を考えるのに適している。どこにどのように石を置くか、それが一局の行方を決める。盤は十九路、石はどこに置こうが自由だ」

 カヴェイネンはゲームの内容が想像できず、「はあ」としか返事ができなかった。

「戦闘が始まるまでに打てる限りの手を打っておけば形勢は変えられる」

 ティーキムに怪訝な顔を見せて、カヴェイネンはそれでも頷く。

 人が駆け込んでくる。

「殿下! 馬の背砦の烽火が上がりました!」

「烽火の色は!」

「赤!」

 ティーキムは立ち上がる。

「傭兵を着飾らせて王宮に入る。ヴェルタネンデ周縁自治領群からの申し入れを行う」

 カヴェイネンはティーキムの言葉に頷いた。

「カヴィニン」

 ティーキムはカヴェイネンを振り返る。

「遺書を書き損ねたとは言わせない。今日の夕方には、我々が王宮から烽火を上げて見せる」

「……こうなる前に、リゲル嬢に嫁いできていただきたかった」

 力無く首を振るカヴェイネンに、ティーキムが「ははは」と笑った。

「それは無理だ」

「なぜです?」

「私は彼女の価値観と行動力は好ましいと思うが、フォルクサンはバルキア領だ。あの兄君は国境だからとフォルクサンからの離脱も匂わせていたが、欲しいと思うにはフォルクサンは純朴すぎる。ヴェルタネンデ自治領群のなかで、始めたばかりのワイン生産と紡績業だけでは埋もれてしまう」

「つまり殿下……リゲル嬢との話はなかったことに」

「そういうことだ」

 黒髪のカヴェイネンはあからさまにがっかりした。

「カラス殿のことはフォルクサン侯爵に手紙を出してあるから安心するがいい」

「ありがとうございます、殿下」


 *** *** *** *** ***


 白髪のカヴェイネンは両手で顔を覆った。

 左肩のピンはずり落ちそうになって肩にしがみつく。

「スジェのおふたかた、妻との馴れ初めを辿らないでくださらなくても私は結構です」

「なに、ジャファール殿の危難にうちの王は何をしているのか、役立たずか、と思って覗いたまでのこと。お気になさらず」

 デイジェンとビジューはそろってカヴェイネンに清々しい笑顔を向けた。

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