暁寧殿の「お人形」
なんで玄妃が暁寧殿に玄五妃の死体を置いたのかとかそういうところに絡む話。
蘇国柳州、王都。
玄妃がここに嫁いできたのは百年近く前のことだった。
草原から来た玄妃にとって、蘇の王城はどこもかしこも人工的な建築物に囲まれていて面白みに欠ける。庭でさえ、自然を真似た人工物だ。
あとから嫁いできた小さな妹を抱き上げて、玄妃は言った。
「エナ、見なさい、彼が蘇王だ」
「ユネ姉上、蘇王はお優しい?」
「可愛いエナ、おまえが困っているときには姉がどうにかしてやるからね」
玄妃は妹を抱きしめた。
妹が死んだとき、玄妃は妹に魂魄を留める呪を施してその子供の宮に置いた。
「あの男がおまえを埋葬するまで、おまえはこの世に留まって生き返る好機を待つといい。産褥でおまえを死なせた皇子を食らうもよし、あの男が来たときに食らうもよし、埋葬されるまでのあいだだけでも、魂魄を留めたままここで寝ておいで。だけどエナ、六心の力に負ける魂魄は気が狂って死んでしまうから気を付けて待つこと。生き返るために食らう者は血を分けた我が子がいちばんよいと言う。あの子が育つのを待て。埋葬されたとしても、そのときにはあの子に年に一度会えるようにしておこう」
玄妃は暁寧殿に妹の亡骸に囁いて宮を出る。
梅香殿に植えられていた梅の花はつぼみを付けることがなくなった。
*** *** *** *** ***
比一族はこの国の山河を掌る重職にある。
山河というのは一朝一夕で作れる物ではなく、国土を知るための力が中央に必要であって、本家は王都を離れることなく絶えず中央で測地を行って模型の制度を高めるために動いており、各地の分家がその補助に立っている。
比一族の歴史は、初王の時代、初王の双子である弟の比全が一族の起源で、初王が作りたいと願う山河を共有して描きだし、山河の形として作りあげたという伝承にまで遡る。
伝承によれば、初王と比全は見るもの聞くもの、想像するものを共有した。
比轍はその「家の起源」を聞くよりも、なんだかんだと王都から出してもらえないことが残念だった。
それが、偶然出会った皇子によって面白い選択肢を提示されている。
他人の体を使って王都を出るというのだ。
比轍はどちらかと言うと長身痩躯で、あまり部屋や書庫から出ないせいで青白く、それなりに目立つ。変化術でも使えば外見は誤魔化せるのだろうが、身分証がなければきっと関所で止められる。
「調べたの。地公は女の人なんだって。女の子には優しくしてくれるんじゃないかな。お友達になれるかも」
「友達ですか」
「そう。お友達になれたら、宇宙を普通の山河にして、もうちょっとすてきな州にできるかも」
比轍は皇子を見た。
皇子は比轍にとって母の兄を父に持つ小さな子供だったが、これまで会ったことはなく、会ってからも面白いものを見せてくれる子供、という印象だった。
例えば、新しい州を作ってみたら、宇宙ができたとか。
「山河を作るのは比一族の役目です。更地でも土地があれば山河を作れるんですが、天空に山を作るわけにはいかないですから、魂魄を整えられるようになったら、ちゃんとした山河を作って山に森を作りましょう」
その比轍の言葉を聞いていたかいないか、小さな皇子は比轍の手を掴んだ。
「比轍こっち来て、いいもの見せてあげる」
「なんです?」
比轍は小さな皇子に手を引かれて別の部屋に連れていかれた。
部屋は朱色の柱に白い漆喰の壁の建物で、彩色を施された梁に支えられ、円形の飾り窓を通って、春の柔らかな日差しが室内を照らしている。床石に落ちた陽光が庭の木の形を想像させる。
そよ風に揺らされた薄い天蓋に守られた寝台に、死に化粧を施された少女の姿がちらりと見えた。
白い肌、黒く艶やかな髪、ちらりと見えた特徴からは典型的な蘇人のようだった。
小さな皇子も白い肌に黒髪の持ち主で、典型的な蘇人の様子をしている。
(蘇人と玄人は似ているのだろうか? それともこの皇子は蘇で産まれたから蘇人らしい見た目なのだろうか?)
比轍はそう思ったが、その思考は小さな皇子に手を引かれて遮られる。
「誰がくれたか覚えてない、私の人形なの。人を作るお手本にしているけど、こんなにきれいに作れたことがなくていつも失敗ばかり。だからこの人形を使って、新しい人間の器にしようと思うの。そうしたらきっと失敗しないで済むから安心して使えるはずだもの」
なるほどと思いながら、比轍は小さな皇子に「明日また来て」と言われて頷いた。
翌日になってまた小さな皇子の宮を訪れた比轍は、寝台に寝かされている女の姿が、昨日とは少し違っていることに気付いた。
白い肌に黒髪という典型的な蘇人の様子であることには違いないが、前日に見たときよりも、少しばかり大人びている。
「この器あげる」
比轍は首をひねった。
「あげる?」
「魂魄つなぐ術があるの」
そう言われて目がくらんだ比轍の脳裏に浮かんだ言葉は「皇子は怖い」だった。
*** *** *** *** ***
高い空、馬の駆ける音。
風に香る草の香り。
弦楽器の音。
聞いたことのない言葉の音に感じる妙な懐かしさ。
陽光を遮るものの無い広い草原。
比轍の体は草原に横たわって大空を見上げていた。
「アダン」
「アイ」
「ジェレ パ バル ツェダム?」
「ネイ」
わかるのは、この場に二人以上いることだけで、ふたりがなにを話しているのかさっぱり分からない。
空を舞う黒い龍。
(玄?)
「エナ アランダ、ジェレ ネイ トン バル ツェダム?」
比轍はなんとなく考える。
(ツェダムがなにを意味するのか分からないが、少なくとも名詞、固有名詞なのだろうな)
視界が暗くなってすぐに、明るかった大空が漆黒の闇に包まれて、空には彩雲のように輝く星空が現れた。
(きれいだ)
もう一度明るくなったとき、目の前に草原はなく、朱色の漆と色絵の具で彩られ、黒い瓦屋根に覆われた宮殿があった。宮殿は何層にも高く高く重ねられ、白い砂岩を正方形に切り出して彫刻を施した石畳を敷き詰めた前庭の向こうにそびえている。
(蘇の王城だ)
その前庭にはずらりと、蘇の重臣たちが身分を示す決められた体裁の着物を着て並んでいた。
「エナ、カジ ロー ツェダム ラ」
「ユネ ジェデン、ツェダム ラ ナン ハダ?」
比轍は「ああ」と小さく納得した。
(ツェダム、は、もしかして蘇のことなのだろうか?)
「セツァ エナ、イム ジェレ ガンジェ、セ レ ジェデン カン ゲ ナジェ」
(待ってくれ、長い長い長い、なにを言っているのかまったくわからん)
比轍は重臣のなかに祖父がいるのを見つけて、比轍は「あ、爺さんだ」と小さく呟いたが、それは音にはならなかった。
目の前が赤い布で覆われ、比轍は目を閉じる。
寝台で目を覚ました比轍は、小さな皇子が自分を覗き込んでいるのを見た。
誰かが耳元で「タ セレ」と囁く。
意味は分からないが、とりあえず比轍はぼんやりとした思考で小さな皇子を見てその頭を撫でる。
「気付いた」
「タ セレ?」
呟いてから、比轍は自分の横に転がった皇子が嬉しそうにするので、自分からも笑顔を返した。
「うまくできたと思う」
「そうですか? 奥の宮で気を失ったなんて、知れたら怒られる」
「大丈夫。医官も大丈夫と言っていた」
「医官がいたのですか?」
「貧血だろうって」
「貧血ですか?」
「若い女性には珍しくないって」
比轍はじっと小さな皇子を見つめる。
小さな皇子はきらきらと目を輝かせて比轍にくっついた。
「いつ苹州に行く?」
皇子の横にいる少年が鏡を差し出してきて、鏡を見た比轍は、自分の姿が他人の形で鏡に映っているのを見て「そういうことか」と小さく呟いた。
*** *** *** *** ***
タ・セレ
比轍は自分の姿を男の「比轍」に戻して奇妙な違和感を覚えつつ、王城からの帰りに鴻臚寺(外交部)に立ち寄って、玄の資料を依頼した。
「玄? 地理部に書く以上の詳細が欲しいなんて珍しい」
「それから、もし玄語の教書があればお借りできませんか」
鴻臚寺の外交官が目を見開く。
「玄語を自分で読めるところまでと思ったら、かなり時間がかかる」
「ああ、そうですか」
比轍は頷いて、外交官に「玄語ができる担当者はおいでですか?」と訊ねた。
「玄語」
呟きながら、外交官は「ゲレ」と奥にいたガタイのよい男に声をかける。
「ゲレは玄から来て蘇に帰化したんだ」
「そうなんですか」
外交官の言葉に比轍は「ありがとうございます」と礼を言って、ゲレを待った。
処理していた書類を整理して奥から出てきたゲレに、比轍は「史官の比轍と申します」と自分の名を伝えて頭を下げる。
「妙なことを訊いてすみません、ツェダムというのは、蘇を示す玄語で合っていますか?」
比轍の問いにゲレは頷いて「合っていますよ」と答えた。
ゲレは蘇人に比べて体格がよく、やや日焼けした丸顔の、人当たりが良さそうな男だった。
「史官が玄語に興味を持つのは珍しいです」
「そうですか?」
「蘇の地理部や地理志では、あまり玄のことは書かれていません」
比轍は「そうかもしれませんね」と納得する。
「少し不思議なことがあって、どうも、そのときに聞いたのが玄語ではないかと思うのです」
ゲレに言うと、ゲレは首を傾げた。
「不思議なこと?」
「普段、夢を見るときには自分の記憶を辿るものでしょう?」
「そうですね」
「今日は、草原の夢でした」
目を見開いて、ゲレが「ほお」と身を乗り出す。
比轍はゲレに夢の話をした。
ゲレは頷きながら「はあ」とまた首を傾げた。
「アダンは人の名前によくあります。ジェレは二人称、パは過去完了、バルは行くとか来るとか、ツェダムは蘇ですから、アダンに、蘇に行ったことはあるか、と訊いて、恐らくそのアダンでしょうが、答えがネイ、否定です。その次の言葉、トンは意思を示すので、あなたは蘇に行きたくないのですか? と訊き返されたんですね」
笑いながら比轍に説明して、ゲレは玄の資料を比轍に渡す。
「簡易な紹介資料ですが、最新の紹介資料なので地理志をまとめるときに少しは役に立つと思います」
比轍はゲレから資料を受け取って「ありがとうございます」とまた頭を下げて鴻臚寺を後にした。
ゲレが自分の背中を見ていることに、比轍は気付かなかった。
*** *** *** *** ***
ゲレは奥深く、窓もなく、暗い奥の宮に設けられた建物を歩く。
草原から蘇に来て何十年か経つが、この宮の暗さにはいまだに馴染むことができず、気分が滅入る。
太い朱塗りの柱に乗せられた彩色の梁、その上に乗せられた黒い瓦屋根。
柱を支える大理石の土台。
ケイ素を多く含んでいるのであろう、磨かれて艶のある床石がどこまでも続き、その奥には三重の絹で覆われた王妃のための座がある。
「ゲレ、奥の宮におまえが来るのは珍しい」
男の声に頭を下げて、ゲレは「ユネ アランダ」と男を呼んだ。
「玄の言葉で皇子と呼ばれたのは何十年ぶりか、もしかしたら百年ぶりか?」
「今日、史官がひとり、鴻臚寺に参りました」
玄妃はゲレと自分を遮っていた布の簾を上げさせた。
「史官がどうした」
「玄語の夢を見たそうです」
「龍が見る夢は、だいたいが記憶の反芻だ。その史官は玄語を学んだことがあるのか?」
「いいえ、恐らくそういうことではありません」
ゲレは首を振る。
薄暗い部屋を、燭台の蝋燭が揺れる火で影を作りながら照らしている。
「史官ということは龍族だろう?」
「それは間違いございません」
玄妃はゲレを見つめる。
揺れる火に照らされ、ゲレは神妙な表情を玄妃に向けた。
「夢のなかで、エナ アランダとしてアダンと話をしていたと言うので、気になりました」
腰を浮かして玄妃が「エナ?」と厳しい表情で言葉を繰り返す。
「さようです。エナ アランダです」
「その史官の名を聞いたか?」
玄妃に問われ、ゲレは頷いた。
「比轍、比氏の者です」
「その史官、本当に比轍と名乗ったのか?」
「間違いございません」
「もし比轍だというのが本当であれば、比氏の末子で、泰俊の許婚のはずだが、それがエナの夢を見る? なぜだ?」
「私には分かりません」
ゲレは玄妃がなにを思って繰り返し訊くのか、内心で首を傾げつつ正直に言った。
「ややこしいことになったかもしれん」
「は?」
玄妃は座に座り直して首を振った。
「エナの亡骸がまだ葬られていないのは確かだったとはいえ、どうしてエナが比轍の魂魄を食らう? なぜ、比轍は平然としていられる?」
独り言のように呟く玄妃に、ゲレは「セレ」と答える。
「夢の会話以外に訊かれた言葉は「タ・セレ」です」
「タ・セレ?」
玄妃は「ああ」と嘆息した。
「エナが無関係の他人の魂魄を奪うことに拘るにも理由があるとしたら、芳俊との関係か。なるほど、タ・セレ、我が子。母としては息子を食らうより他人を食らうほうがよいということか」
「もう少し話を聞いてみますか?」
「いや、いい。暁寧殿の者に少し事情を聴いて、エナの亡骸のことを調べさせよう」
しばらく黙り込んでいた玄妃は、呆れたように「それにしても」と呟いた。
「あの男はいつエナの墓室も作っていなければ、エナの葬儀もしていないことに気付くのやら」
玄妃はゲレに向かって笑いながら、手元の酒器から杯に酒を注ぐと宦官に手渡してゲレに与え、ゲレは杯を受け取って玄妃を見た。
「ユネ アランダ、なぜエナ アランダの葬儀を王に訴えずに暁寧殿に置いておかれるのですか?」
自分の手に持った杯に注いだ酒を飲みほして、玄妃は「なぜ」と繰り返して鼻を鳴らす。
「ゲレ、王族の蘇りというのを知っているか?」
「存じません」
「よいか、ゲレ、葬儀は眠っている死体と生者を引き離すための儀式だ。そうでなければ生者は死者に食われる」
「食われるとはどういう意味ですか?」
「他人の能源を使って生き返ろうとすること」
玄妃は小さく笑った。
「暁寧殿にエナ アランダを寝かせることにしたのは、葬儀で引き離せなかったからですか?」
「勝手な話かもしれないが、エナが死んだのは産褥で体が弱くなったせいで、そのときに生まれたのが芳俊だ。芳俊が育つにつれて技量が備わってきたときにエナの餌になるかもしれないと思っただけだ」
ゲレは顔をしかめて玄妃を見る。
「六殿下をエナ アランダに食わせるおつもりだったんですか?」
「親子だから力の相性もよいだろうし、芳児の意思がエナの意思より強ければ征服してエナの力まで自分の物として使えるようになるが」
玄妃は首をひねりながら手にした空の杯を転がして遊ぶ。
「暁寧殿の者を呼んでくれ」
宦官に言いつけて、玄妃はゲレを待たせて伊五子を召し出した。
伊五子は玄妃に直接諮問されることなどなく、緊張して座り込んだ。
「暁寧殿に、少女を寝かせてあっただろう」
「はい」
伊五子は頷いて玄妃に答える。
「あれになにかしたか?」
「六殿下があの人形を核にして人の体を作り、史官の比轍殿の魂魄を繋いだところです」
玄妃はゲレと顔を見合わせた。
「芳俊殿はなにをしようとしている?」
「苹州で地公を呼ぶ祭祀があるので、それを見に行くそうです」
目を手元に落として緊張したままで伊五子はまた答え、玄妃はまたゲレと顔を見合わせた。
「なぜ」
「珊州を形にするために、地公のご協力が必要だからです」
「ああ、それは否定しない。否定しないが、その比轍とやらはよくまあ簡単に同意したものだな」
呆れたような玄妃の声を聴いて、伊五子はやっと顔を上げて玄妃を見た。
「そうですね」
「比轍はどうして体を必要とする」
「本家の者は王都を出てはいけないと言われる一族だからでしょう」
玄妃は伊五子に首をひねって見せた。
「比氏の本家は過保護なんです。若いうちは権力争いが起きるような場所に近寄らせないで育てますし、王都からも簡単には出しません」
「権力争いを避けるなら、奥の宮なんぞ皇子と関わり合う一番避けさせたい場所だろう」
伊五子は玄妃に向かって困ったような笑みを浮かべた。
「今回は芳俊殿が捕まえていらしたんです」
そう言った伊五子を下がらせて、玄妃はゲレに伝える。
「エナと芳俊のふたりがやりたいことをやりたいようにできるよう、できる限り協力してやれ」
「はい」
「なぜ比轍がエナの意識に抑圧されずに意識を保てているのかわからないが、エナが息子とふたりでどこかに行ったことはないんだ」
玄妃はゲレに言い、それから玄から連れてきた護衛に比轍と芳俊を追わせた。
比轍というのが想像以上に警戒心のない男だということを玄妃が知るまでに、そう時間はかからなかった。
「タ セレ」
玄妃に玄の言葉で声をかけられて、泰俊は振り返った。
「なんですか?」
「おまえは許婚があれでよいのか?」
泰俊は笑う。
「いいんですよ。あいつはずいぶんな変人でしょう? でもあいつにとっては私も変人なんです。ときどき叔母上に体乗っ取られてますけどね」
玄妃にとっての玄五妃と芳俊と、他人にあっさり魂魄あげてしまった比轍。