カヴェイネン:異国から来た訪問者(29)王子の呪いを解くのはいつも姫
スタラーデはジャファの変化を眺めていた。
(表情が変わった。青臭いことも言わなくなった)
ジャファはティーキムのところで知ったことをあれもこれもとバルキアに取り入れようとしなくなった。
その代わり侯爵家の図書室にある本を驚くような勢いで読み進めている。
自分とジャファが持つ砂時計の砂は残り半分。
この砂が落ち切る前に、フォルクサンを統治しなければならない。
(どうにかフォルクサン侯爵から代理の統治権をもらわなくては)
ジャファはと言えば、相変わらずティーキムに会うためにヴェルタネンデの街に行くことが月に一度、しかしジャファが持ち帰る統治手法は、スタラーデがどう考えてもバルキアのフォルクサン侯爵領に合う物ではなかった。
(まったくあの従弟め、二十タパカでも高いぐらいの仕事しかしない)
スタラーデは呆れて息をついた。
*** *** *** *** ***
ジャファは社交の傍ら、第八環状区で宰相の紋章を付けた馬車が現れたことのある道を絞り込み、地図にマークを付けていった。
馬車が勝手に宰相家の紋章を付けているわけではなく、実際に宰相家に出入りしているということも確かめた。
バルキアの税制では各地の領主が税を徴収した後、その税の一部が国庫としてさらに王に徴収されることも調べた。
(宰相家は領地を持っていない分、宮廷から支払われる給与で生活するしかない。税収がある領主たちとは違う。奢侈は密輸品で儲けた金だ)
ソファにひっくり返り、ジャファは目を閉じる。
「この本の山はいったいなんなの!」
悲鳴を上げたリリアナを振り返ったジャファはリリアナにヴェルタネンデで買ったハンカチを渡した。
「本なんて大嫌いだと言っていた割に、ずいぶん本を読むようになったのね」
ジャファはリリアナをソファに座らせて、笑顔を作って見せる。
「今、褒めてくれたの?」
「褒めてないわよ。これまでが本を読まなさすぎだったとバカにしたの」
そう言いながらリリアナはジャファがマークを書きこんだシャタンカルの地図を見つけて首を傾げた。
「王都の地図を見ていたの? このマークは何かのお店?」
「違う、宰相家の紋章を付けた荷馬車が目撃された場所」
リリアナはジャファを見つめた。
「宰相家の紋章を付けた荷馬車がどこで目撃されようが、あなたに関係ないでしょ?」
「関係ない、けど気になる」
「気にしないほうがいいわよ。特にこの外周、第八環状や第九環状なんて私たちには関係ない場所なんだから」
リリアナに言われ、ジャファは「うん」と小さく頷いてから息をついた。
「ねえリゲル、いいかしら? あなたが気にしないといけないのはフォルクサンの領地であって王都じゃないの。王都で宰相がなにをしていようと、この家がフォルクサンの領主だからには、王都の人たちの生活なにひとつ、変える権利はないのよ。でもフォルクサンの人たちの生活を守る義務と責任と権利はあるの。間違えないでちょうだい」
「リリアナならどうする?」
「なにが?」
「すぐ背後で荷馬車に老人が跳ねられたら」
「医者を呼びなさいよ」
ジャファはリリアナを見た。
「それだけ?」
「他になにがあるというの?」
「跳ねた荷馬車の御者を捕まえるとか」
リリアナはジャファを見つめる。
「法で裁くべきね」
「法で裁けなかったら?」
「自分が跳ねられたわけじゃないでしょ?」
ジャファはリリアナを眺め、それから頷いた。
「そう、自分が跳ねられたわけじゃない」
しばらくジャファを見つめていたリリアナは大きく息をついた。
「宰相にはいい噂がないわね。少なくとも、第一環状の貴族は内々の宴に宰相を呼ぶことはないわ。宰相の地位を維持するために自分の地位を脅かす大臣に濡れ衣を着せて投獄したこともあるの」
ジャファは首を捻る。
「それは噂?」
リリアナは「いいえ」と言い切った。
「それであなたは、こんな地図を作ってなにをしたいの?」
「宰相がもっとマシなら」
「マシってなに? 宰相を挿げ替えようとしたって、次の宰相が同じように出世と権力にしか興味がなければ変わらないわよ」
ジャファはリリアナが強い口調で言うのを聞いた。
リリアナがなぜこうも強くジャファの考えを否定するのかが分からない。
同時に、自分とティーキムの違いにも思い至った。
ティーキムはヴェルタネンデの領主として、ヴェルタネンデの人々を守るために手を尽くしている。それは素敵なことだと思ってきたが、手の届く範囲というものがある。
ティーキムはフォルクサンの農奴を助けてくれるわけではない。
身分差別は嫌いだ、人を物扱いにする連中は嫌だとジャファは思うが、嫌だと言うだけで制度が変わるわけでもない。
しばらくじっとリリアナを見つめていたジャファは不貞腐れた。
「宰相の悪行が王の目に留まればいいんだ」
「リゲルあなたってホントに……嫌になるわ」
リリアナはそう言いながら頭を抱える。
「ひどい」
「ひどくない!」
珍しく声を荒らげたリリアナに、ジャファはびくっと肩をそびやかした。
「ひどいのはあなたよリゲル! あなた侯爵令嬢のくせに農奴や第八環状や第九環状の貧民を助けようなんて見え透いた偽善で済ませようとして、そのために宰相を挿げ替えればいいだとか宰相の悪行が王の目に留まればいいとか……侯爵家が特別だっていうことを何一つ理解してない」
ジャファは微動だにできずにリリアナを見つめ、それから一拍遅れて「偽善?」と怪訝な表情を返す。
「農奴のことも市民のことも顧みないようなお嬢様に偽善だなんて言われたくない!」
「目に付いた差別を手軽に解決した振りだけするような行為が偽善でなくてなんだっていうの!」
激高したリリアナは一度跳ねるように叫んでから声を落とした。
「あなたが農奴に読み書きを教えて、貧民を跳ねた荷馬車を裁きに出したところで私の叔父様は冤罪で地下牢に閉じ込められたまま死ぬのよ! 伯爵家は王に王としての権威と権力を与える侯爵家とは違うの! 伯爵家は王と侯爵の家臣なの! 宰相がどれほど薄汚い手で政敵を潰して来たかを、宰相に邪魔されずに暴けるのは、たった数家の侯爵家だけなの! 公爵夫人でも伯爵令嬢でもない、侯爵夫人か侯爵令嬢じゃなければ、私は叔父様を地下牢から助けられないの!」
ジャファはリリアナの勢いに飲まれて仰け反る。
「あなたは侯爵令嬢なの。あなたが慎重に宰相の味方を引き剥がして、ひとつひとつの嫌がらせや違法行為の証拠を集めるのを宰相が法律で咎めることはできないの。これまで宰相を敵に回したことで冤罪に泣いてきた貴族や官僚の無実を証明するものがないまま宰相を引きずり落としても、その無実は証明されず、釈放もされない。でもあなたはそういう人たちを見捨てて、ただ自分の目に付いただけの憐れな市民だけを助けようって言うのよ。私、それが腹立たしくてしょうがないわ」
ジャファはリリアナを見つめて恐る恐る疑問を口にした。
「リリアナがカストール兄さまの妻になりたい理由って、その叔父様を助けるため?」
じっとジャファを見つめたリリアナは、ふいと踵を返して背中を向ける。
「お兄様の地位がそんなふうに使われるの、あなたは嫌でしょうね」
「叔父様を助けるためなら、使ったら? リリアナのお父さんとうちの父がリリアナを人形みたいに、あげたりもらったりする、それは嫌だけど、カストール兄さまと結婚することでリリアナの望みが叶うかもしれないなら、それはリリアナの意思だもの。侯爵夫人っていう立場を自慢するため、威張るために使いたい、だからカストール兄さまと結婚する、というなら追い出すのもありだと思う」
それからジャファは何かにハッとしたようにリリアナの肩を掴んだ。
「侯爵家に嫁に来ることに意味があるなら相手がカストール兄さまでなくても」
「他に誰がいるのよ、リゲル様は女の子でしょう。行動が一々女らしくなくてもあなたは恋愛対象外よ」
「……ですよね」
ジャファはリリアナに抱き着く。
「分かってるでしょうけど、殿方がこういうことをしたら罵詈雑言で袋叩きにされますからね」
「はい」
ジャファは少しだけスンと鼻を動かして小さく笑った。
「ヴェルタネンデで買って来た香水の匂い」
「贈り物を選ぶセンスだけは認めてあげる」
「ティーキム殿のおかげです」
正直に答えてからジャファはリリアナをソファに座らせる。
「侯爵夫人になったって、何もせずに宰相がその叔父様に濡れ衣を着せたと証明できるわけじゃないでしょ? なら教えて。私はどうすればいい? 何があればリリアナの叔父様の濡れ衣を証明できる?」
リリアナは呆れて頭を抱えた。
「いいこと? そんなことをしたら殺されるかもしれないのよ。私は親族だから、性懲りもなくと言われる程度でしょうけど、あなたがやったら侯爵家が謀反を企んでいると言われるかもしれないと分かってる?」
ジャファはリリアナと同じソファに腰かけてひじ掛けに背中を預ける。
「そうは言うけど、フォルクサン侯爵領がどこにあるかリリアナこそ分かってる? カストールが妹をどこに嫁にやろうとしてるか分かってる?」
リリアナはジャファを見て息をつく。
「いくらあなたがティーキム王子を追いかけても、ヴェルタネンデに嫁に出すなんてあの人の冗談に決まってるわよ」
ジャファは首を振る。
「あの人ならやる」
リリアナはそう言いきったジャファを見つめた。
「私が宰相を怖がらないのと同じ、カストール兄さまにはバルキア王だって怖くない。私がカタラタンに行こうがシャタンカルに留まろうが関係ない」
そう言ってジャファはリリアナを抱きしめる。
「バルキアの法律が奴隷を作るなら、それに反対する。宰相にならないほうがいい人間を宰相にしているなら引きずり下ろす。宰相になるべき人が地下牢にいるなら奪い返す」
ジャファはソファから飛び跳ねるように立ち上がった。
「カラス!」
部屋のドアから顔を覗かせたジャファがカラスを呼ぶと、カラスは部屋に入ってきて優雅に「ご用事は?」とにこやかに問う。
「またヴェルタネンデに行きたいの」
「またですか?」
「先月は行かなかった」
カラスが苦笑し、リリアナが部屋を出て行きがてらジャファの肩を叩く。
「リゲル嬢、今度は違う香水が欲しいわ」
「ユリ?」
「スズランをお揃いにしてちょうだい。いい? 今度はスズランよ」
「ユリと間違えるなって言ったじゃない」
「このあいだはそう言ったけれど、今度はおそろいでスズランがいいの」
部屋を出て行ったリリアナの背中を眺めてジャファは頭を掻いた。
「今度はユリじゃなくてスズラン……お揃いで……」
*** *** *** *** ***
「あ。また来た」
「ひどい!」
ジャファは「フォルクサンのリゲル」を見て逃げようとした黒髪のカヴェイネンを追いかけ、その背中に飛びついた。
「ねえ! 武術教えて!」
「教えません! 護衛を付ければよろしいでしょう!」
黒髪のカヴェイネンの背中にくっついたジャファは正論で返されて「ふん」と不貞腐れたように鼻を鳴らす。
「ケチ」
「フォルクサンの騎士に教わればよろしいでしょう」
呆れるカヴェイネンの首にぶら下がるようにして、ジャファは食い下がる。
「それ以上に、どうやってこの練習場まで入り込んだんですか」
「だいたい顔を覚えてもらってるもの、ティーキム殿は練習場だって案内してもらったの」
「部外者を入れるなと言っておかねばなりませんね」
「そうね」
ジャファはカヴェイネンの背中によじ登って、右肩にしがみついた。
「右は私の利き腕なんですがね、お嬢様」
「知ってるけど左側は特等席なの」
「どういうことです?」
「いつか分かるからいいの」
それからティーキムを眺めたジャファは首を傾げてカヴェイネンに訊く。
「なんかよくわからないのだけど、人間ってあんなに高く飛び跳ねられるものなの?」
「殿下は特別です」
「練習すれば私もできると思う?」
「きちんと護衛を付ければ高く飛び跳ねる必要はございません」
カラスが横で咳払いする。
「お嬢様、カヴェイネン様が困っておいでですから、離れて」
カラスに抱きかかえられてジャファはカヴェイネンから引き離され、ティーキムの方へと走っていく。
黒髪のカヴェイネンがカラスに向かって咳払いした。
「お気遣い、ありがとうございます」
「いいえ、当家のお嬢様が申し訳ございません。お嬢様にとってカヴェイネン様は憧れの騎士様なので、追いかけたくて仕方ないのですわ」
黒髪のカヴェイネンは思わず「は?」と目を見開く。
「おとぎ話には、龍退治の騎士様が出て来ますでしょう?」
「そうですね。騎士を神格化して祀る教会にはだいたい聖遺物として騎士が退治した龍の鱗や爪が保管されているものです。実際には恐らく大魚の鱗や肉食獣の爪でしょう」
淡々と言う黒髪のカヴェイネンを見上げて、カラスは笑顔を見せた。
「そうなのですか?」
「私は本物の龍を見たことがありませんので本物だと断定することができません。それに本物の龍がいるとして、私にはその龍を退治する気はありません」
カラスはカヴェイネンに苦笑する。
「カヴェイネン様は、真面目でいらっしゃいますこと」
「いつか、その龍の王に会ってみたいと思うことはあります」
「あらまあ」
黒髪のカヴェイネンは改めてコホンともう一度カラスの前で咳払いした。
「今回は、何日ぐらいのご滞在ですか?」
「一週間ほどです」
カラスは少し俯いて小さな声でカヴェイネンに告げる。
「基礎的なことだけでけっこうです、見習いの少年たちと同じ程度でけっこうですから、武術の指導をお願いできませんか」
「カラス殿、あなたまで」
困ったようなカヴェイネンにカラスはさらに声を落とした。
「お恥ずかしながら、シャタンカルの貧民街でナイフを持った男と取っ組み合いをしたそうなんです」
「お嬢様が?」
「さようです」
「怪我でも」
「いいえ、周りで見ていた学生さんたちがおっしゃるには、ナイフを叩き落として相手を押さえつけたそうなんです。本当にお恥ずかしい」
カヴェイネンが真っ青になり、カラスが耳まで真っ赤になった。
「リゲル嬢が、相手の男が持っていたナイフを叩き落としたのですか?」
「話に聞く限り、そのようなのです」
「それは……私が武術を教える必要があるのかどうか」
カラスとカヴェイネンが話しているあいだにも、ジャファはティーキムの邪魔をしながら近くにいた騎士の剣を奪い取るようにして借りて走り回っていた。
*** *** *** *** ***
ひとしきりヴェルタネンデの練習場でティーキムを追い回したジャファは、剣と盾を倉庫に置き、ティーキムが自分の剣と盾を手入れするのを眺めた。
「バルキアの宰相は悪い宰相」
ジャファの言い分に、ティーキムが首を振る。
「そういうことを隣国の王子に言っていいのかね? 侯爵令嬢殿」
「よろしくはないと思う。けど堂々と紋章入りの荷馬車で密輸入しているのに、他人に濡れ衣着せて地下牢に入れているというから、それはどうにかしたいと思う」
ティーキムはジャファを見た。
「濡れ衣を着せられて地下牢にいる者がいる?」
「リリアナの叔父様。宰相の贈収賄を調べていたときに捕まったのだって」
ジャファはティーキムが悲しそうな顔をしたのを見て慌てる。
「生きてるよ! 五年も地下牢にいるらしいけど。だから助ける」
「そうか」
呟くように頷いたティーキムを見つめ、それからジャファは笑顔を見せた。
「助ける。濡れ衣を着せられたままで終わっていいはずがない」
ティーキムは小さく笑ってからジャファの肩を叩く。
「ありがとう」
ジャファは肩を叩かれただけで通り過ぎていこうとするティーキムの背中を振り返り、それから「ん?」と首を捻った。
「ありがとうって? なにが?」
「なんでもないよ」
「気になる!」
「気にしなくていい」
ジャファはティーキムの横にくっついて歩く。
「今度あれ教えて」
「なにをだ」
「さっき壁まで走って宙返りしてた」
「勢いを付けて跳ね上がるだけだ」
ティーキムは笑った。
*** *** *** *** ***
第八環状区では、静かに噂が広がり始めていた。
「このあいだ、宰相の荷馬車に向かって行ったのは侯爵家のお坊ちゃんだったらしい」
運送の仕事をしていた男たちがすれ違いざまに声を潜めて囁く。
「侯爵家?」
「おうさ。バルナガランの野郎、第一環状じゃ手が出せねえって地団駄踏んでやがる」
「なんでそんなお坊ちゃんが第八環状にいたんだ」
「大学団の学生さんたちいるだろう?」
「いるなあ」
「連中が社会勉強に連れてきたらしい」
「そいつぁいい」
笑った男は、別の男に挨拶代わりの世間話として伝える。
「知ってるか?」
「あのやたら強かったお坊ちゃんか?」
「ナイフの男をひっくり返した」
「宰相はとうとう、うっかり侯爵家に喧嘩を売ったってわけだ」
「侯爵家が動くかもしれない」
誰ともなく、宰相とその用心棒たちへの怨嗟がこぼれる。
「貧乏人は医者にもかかれない」
「教会に行けば炊き出しがあったなんてのは十年以上も前のことだ。今じゃ献金で一日の稼ぎを奪われる」
「だが俺は通りすがりのお坊ちゃんより宰相の方が怖い」
「このへんで仕事って言やあ宰相の下で威張り腐ってる連中が手配してる安月給の仕事ばっかりだ」
少々沈黙があってから、誰かが言った。
「俺は侯爵家が宰相をやっつけるに1カー賭ける」
「酒1パイントにもならねえじゃねえか」
「うるせえな、俺の小遣いは一日1カーなんだよ」
思い込みや絶望というのは、呪いのようなものですが、その思い込みを打ち砕かれたり絶望の中に希望を見出したりするとき、その人はきっと希望を見つけた人にとっての「恩人」になるだろうと思うのです。




