カヴェイネン:異国から来た訪問者(27)バルキア、裏路地の荷馬車事故
人を罪人にしないため。
罪人とは反乱者。
反乱者になることは罪。
反乱者は権力に抵抗する。
権力に抵抗する、は法に歯向かうこと。
法には文字になっているものも文字になっていないものもある。
文字になっている法は人が作ったもの。
文字になっていない法も人が作ったもの。
農奴の契約制度。
本の作者は小難しい言葉を使って、ジャファには意味の分からないことを書いている。
なにがわからないと聞かれても困るぐらいには、意味の分からないことが書いてある。
ひとつだけジャファにも読み取れたのは、本を書いた誰かは農奴の契約制度について納得いかないことがあるという点できっとジャファと同類なのだということだ。
前書きには淡々と制度の歴史や発展について、それから制度の利点や欠点を書き、懸念と今後について書く、と、書いてあるが、ところどころにこの制度への不信感が見える。
ジャファは本を読みながら首を捻り、それから本を横にしたり逆さまにしたりして、しおりの紐を挟んで閉じた。
「知らない言葉がたくさん出てくる」
嫌になったと思ってからしばらく悩み、ジャファは「チェッ」と舌打ちしてから不調法に本を開きなおす。それでも読み進まず、ジャファは本の表紙を見る。
「この本書いた人生きてる? 生きてるならこの人に意味聞けばいいんじゃね?」
名案、とでも言うようにジャファは椅子から立ち上がった。
エルダン・オルジェン
作家に会いたいと言ったら周囲の人間はなんと言うだろうか?
しばらく本を眺めたジャファは、考える。
自分が法律や政治に関する本を読んで、分からないからとその著者に会いたいと言ったらスタラーデにはきっと怪しまれる。
スタラーデ……カストールがリゲルに期待しているのは、リゲルが本を読み、おとなしくこの「農奴」という制度に納得し、そうして言うことを聞くことだ。
ジャファは自分に問いかける。
(金儲けのために同行者の命を危険に晒す? タジャンのは自分のためだ。親父だってそうだ。盗賊稼業で他人の命を金に換えていた。親父にとって盗賊稼業で捕まえた人間は売り飛ばして誰かの所有物にすることもできる物だったかもしれない。俺はそんなの気にしたこともなかった。スタラーデと立場は違うけど、そういうことがあったかもしれないことを知ろうとしなかったのは、俺が親父が盗賊だっていうだけで親父のことを知ろうとしない怠けものだったからだ)
「知る。知りたい。知ろうと思う」
ジャファは天を仰いで呟くように言う。
「知りたい、と、思う」
タリヤ公の邸でジャファとスタラーデを映し出す模型を眺めながら、ふ、と意地悪い顔で笑ったのはデイジェンだった。
「知りたいという欲望はすべての六心に植え付けられたものだ」
デイジェンはじっとスタラーデを眺めるタリヤ公をちらりと見る。
「スタラーデ殿は、統治の知識を得るのにジャファールが頼りか。王になっていただくには少々物足りないのではありませんか? 親としては、いかがです?」
タリヤ公はデイジェンに目を向けてから努めて人のよさそうな笑顔で応じた。
「息子は生まれつき性格が穏やかですから、カストールの動きはいかにも息子らしいと思いますよ」
白髪のカヴェイネンとピンは、そのタリヤ公によるカストールの評価に頷いたデイジェンが、ビジューを振り返って何かを囁いたのを見た。
模型の中で、リゲルが本を閉じて立ち上がった。
「やっぱり会って話を聞かなくちゃ。でも、どうやって? どうやって会う?」
リゲルの格好で街中をうろついて人探しなどしたら、ジャファの行動のせいでリゲルに不名誉な噂が立ちかねない。
いつ自分がリゲルでなくなるか、そのときにリゲルがどうなるかも分からないと考えてみると、その不名誉な噂が立つような行動はやめた方が良さそうだということぐらいはジャファにも理解できる。
*** *** *** *** ***
シャタンカルの街中で「カストールへのプレゼントを探す」と言ってカラスを巻いたジャファは、リゲルの腕に付けてきたブレスレットを洋服屋の女将に渡すと、店に飾ってあったつばの広い黒い帽子に金髪を隠し、はみ出した髪よりも目立つように帽子に大きくふわふわした羽を飾った。その帽子に合わせるように、白い綿のシュミーズと六分丈か七分丈ほどのゆったりとしたズボンを用意してもらってから、ベストを付けコートを着た男子の格好でブーツを履く。
「表の馬車から人が来たらこの手紙渡して適当にはぐらかして」
そう言いながら内心でカラスに謝りながら、ジャファは帽子のつばで顔を隠して店を出た。
シャタンカルは王宮を中心に円状に区画が整備されている。
第一環状は貴族の邸宅街で、バルキア王の下についている貴族たちの邸がずらりと並んでいる。特に王宮の正面に面した側は王宮通りと呼ばれ、一大公、三公爵家、六侯爵家という十の上級貴族の城内の居住区になっている。
大学は第三環状の十六番地にあり、ジャファが服を調達した第六環状の三十二番地からは馬車を使った。
ジャファが最初に探したのは、本を発行した出版社だった。
本の出版社は大学に付属で作られた出版社で、本を見た編集者は「ああ」と頷いて、エルダン・オルジェンがどこの棟で教鞭をとっているかをジャファに教えた。
ジャファはありがたみをかみしめると同時に呆れた。
(どう見ても怪しい部外者のはずなんだけど、教えてくれるんだ……)
そう思いながら大学の回廊を歩くうちに、その回廊の軒を支える柱の上がアーチ構造になっていることに気付き、ジャファは足を止めて柱の装飾を見つめた。
エニシャにあるものと似たアーチ構造の建造物だというのに、細部はエニシャとバルキアでまったく違った。壁にも床にも、エニシャで建物を飾る幾何学模様はない。
床を彩るのは複雑な幾何学模様のタイルではなく、シンプルで分かりやすい市松模様になるように大きさを揃えて切り出された大理石と花崗岩だった。
しばらく模様を眺めたジャファは、気を取り直して大学の回廊をエルダン・オルジェンの研究室目指して歩き出す。
そうやって足早に回廊を抜けた先にエルダン・オルジェンの研究室はあった。
エルダン・オルジェンは背が高く痩せ型で鼻に小さめの丸メガネを引っ掛けた男だった。
見たところ四十代から五十代ではないだろうか。
そのオルジェンは、うずたかく積まれた本の中からジャファに向かって声をかけた。
「質問があるのだろう? 講義のノートはまとめているかね?」
ジャファは慌てた。
「あの、先生」
言いかけたジャファを振り返り、オルジェンは顔をしかめる。
「帽子を脱ぎたまえ。帽子を被り顔を隠したままで相手に質問する君の様子は、教えを請う姿勢には見えない」
三回ほど帽子を取ろうか取るまいかと躊躇ってから、ジャファは帽子を取った。
帽子のなかに突っこんでいたリゲルの金髪が肩に落ちたが、オルジェンはすでに本の山に関心を戻していて、その金髪に対する驚嘆は特にないまま、ジャファを振り返ることもなく質問を促す。
「なにが疑問だ? 今日は講義がなかったから昨日の講義か? それならテーマはたしかバルキア王典の成立だな? 基礎講義だから難しいことはなかったはずだ」
そう言いながら本の山を崩したオルジェンに、ジャファは深呼吸をしてから「侯爵家のリゲル」として身に着けた、背筋の通った居丈高な姿勢を作り対応することにした。
それからジャファは言葉遣いを意識する。
いつもの自分ではダメなのだ。
侯爵令嬢のリゲル、それがこの絶対的な身分を重視するバルキアという国で「自由に」振舞うために自分に許された特権だ。
「エルダン・オルジェン教授、急に来て済みません」
「ああそうだね、質問がまとまらないなら出直して来たまえ、私は暇じゃない」
その返事を聞いてジャファは息を吸い込み、できる限りの演技力を使う。
ジャファはスタラーデからもらった本をオルジェンが積み上げなおした本の山に叩きつけた。
「兄から読むように言われた本です。あなたが書いた本ですよね?」
オルジェンはジャファが叩きつけて見せた本をちらりと見て目を見開いた。
「あなたの本は農奴という制度について書いているなかで、彼らの権利についても話をしていると思ったので、どうしてなのか訊いてみたかったんです」
「私の本を見てここに来たということは、君は私の学生ではないのだな」
「違います。まだ」
ジャファに本を返そうとして顔を上げたオルジェンは、ジャファがまだ子供だということを知って顔をしかめた。
「知りたければ学生として訊きに来たまえ。そのときに私がこの大学にいるかどうかは分からないがね」
そう言われてジャファは本をまた抱え直し、わざとらしく髪を掻き上げてピンで留めて帽子に押し込んだ。
「私は大学に通えないのでこうやって訊きに来るしかない」
「大学に通えない? 君はずいぶんよい身なりをしているのだから家が困窮しているわけではなかろうに」
オルジェンはジャファを見つめ、自分の手を止めた。
「費用のほかになにか理由があるのかね?」
ジャファはオルジェンに言う。
「あまり家を出られないのと……法制度はなんというかこう……よくわからなくて、兄にそれを訊いても頼りないし、バルキアの制度を教えてもらうためにヴェルタネンデに行くのもどうかと思うし……」
オルジェンはジャファをじっと見つめた。
「ヴェルタネンデというと、エンデュレン大学団かね? エンデュレン大学団にバルキア法制の教授はいないはずだが、どうだったかな」
ジャファは首を振る。
「知人が政治制度に詳しくて……ただ、あまり邪魔してはダメだとは思うし」
白髪のカヴェイネンは「おお」と思わず模型のなかの「リゲル」を眺めて感嘆の声を発した。
「一応とはいえ、そんな気を使っていたとは……」
イェジンがカヴェイネンに目を向ける。
「そんな感じはしなかったのかね?」
「まったく感じませんでした」
きっぱりと言ったカヴェイネンを見てピンとアルタンが笑った。
白髪のカヴェイネンとリュヌ商会の大人たちが話をしているあいだに、気付けばジャファはオルジェン教授の研究室に入り浸り、教授とその学生が目を見張る勢いで本の読み方を覚えて大学団の議論に口を挟むようになっていた。
「ヤフェルは週に一回しかこないのに覚えが早い」
感心した学生にオルジェンはジャファを見て首を振った。
大学団でリゲルを名乗ることはできず、ジャファはジャファールのカタラタン読みでヤフェルと自己紹介していた。
そのジャファはオルジェン教授の部屋にある本を片っ端から頭に叩き込んでいて、オルジェンは嘆息する。
「覚えは早いかもしれないが、ページを絵画のように印象で覚えているだけだ」
「でも教授、普通の人間はそんな「ページを絵画のように印象で覚えるだけ」のことに苦労するじゃないですか。ヤフェルが大学団に入れないのは勿体ない」
「なんで週に一度なんですかね?」
言いながら学生たちはジャファに声をかけた。
「ヤフェル! コーヒー・ハウスに行こう! おまえは子供だからアルコールはなし!」
ジャファは覚えようとページを捲っていた本から顔を上げ、研究室の学生たちを見る。
「コーヒー・ハウス?」
学生たちが頷く。
「貴族のパーティとは違う社交界」
「酒場とは違う、素面で笑い、コーヒーを飲みながら道行く女の子にやじ飛ばしつつ真面目な男同士で議論を戦わせる場だ」
「ヤフェルは可愛いから連れていけばきっと給仕の女の子に気に入ってもらえる」
「下心かよ」
「アンジェリンと話をするきっかけになるかもしれないじゃないか」
ジャファは本を閉じた。
「行く」
「よし! コートを着て!」
オルジェンが呆れて眼鏡を動かす。
「子供に悪いことを教えたら大学団から追い出してやるからな!」
「大丈夫です、教授!」
「俺たち教え子を信じて!」
「教師として言う! おまえらが信用できるか!」
そんな会話をしたところでジャファは学生たちに連れ出された。
コーヒー・ハウスは第八環状の二十番地、中流階級の者たちも住んでいるが、いわゆる貧乏人向けのアパートが多く、王宮通りの第一環状や大学がある第三環状はもちろん、仕立て屋がある第六環状と比べてもあまり治安がよいとは言えない地区だが、学生たちが親からの仕送りや自分の労働で借りられる部屋がある場所というのはこの第八環状ぐらいしかない。第九環状は貧困街、第十環状はもう城壁で、シャタンカルを守る城塞守備の兵士たちの居住区になってしまう。
つまりこの店は上流向けのコーヒー・ハウスではなく、貧乏学生向けのコーヒー・ハウスだった。
ジャファは第八環状の通りを眺めた。
人通りがなく道が広い第一環状とは全く違う。
道は狭く建物は狭く高く、細い路地が入り組んでいる。
建物が立ち並ぶ路地を覗けば、路上には明らかに窓から汚物を棄てた痕跡があり、ジャファは引きつった。
(これじゃエルバハンの街のほうが埃っぽいけどマシ。農奴の扱いは領地を治める領主によって違うっていうのはオルジェン教授の本に書いてあったけど、王都は王の直轄ではないの?)
エルバハンの貧困区を見てきたジャファにとって、この第八環状そのものが怖いということはなかった。
「怖いのか?」
「珍しい?」
学生たちがジャファをからかう。
「別に。王都にもこんな場所があるんだと思っただけ」
そう言いながら、ジャファはコーヒー・ハウスに押し込まれた。
アンジェリンは赤毛にそばかすの女だった。
「へえ! この子? お坊ちゃん、学生さんに混じって大学団でお勉強してるんだって?」
「初めまして、アンジェリン? ヤフェル・アーバハンです」
学生たちがジャファを見て、アンジェリンの手を取り足を引いて貴族さながらの挨拶を交わしたことに硬直した。
「こいつ今、自分で名乗ったぞ」
「ヤフェルおまえ……自己紹介できるんだな」
ジャファは背後の学生たちを振り返った。
「失敬だ!」
「ヤフェルおまえ、失敬っていう言葉を知ってたのか」
言葉を返すのは面倒になり、ジャファはアンジェリンにだけ苦笑いのような笑顔を見せてはぐらかし、アンジェリンの気を惹く。
「初めて来るから勝手がわからなくてごめん」
アンジェリンはジャファを見て小さく首を振った。
「メニュー持ってくるわね、小さな貴公子さん」
「ありがとう」
そう言ったジャファは、表で馬が疾走する蹄の音と馬車の車輪が石畳を踏む音、それにいくらかの罵声のあとに、衝突音と悲鳴を聞いた。
悲鳴の声色からして声の主は男で、老人だった。
小さく「カヴェイネンの旦那」と呟いて、ジャファは店を飛び出す。
道では白髪交じりの老人が荷馬車にぶつかり、荷馬車の御者に突き飛ばされていた。
「じいさん、あんた目が見えないのかね? え!」
「急いでたんだ、すまない、すまない」
「俺の馬車を見ろ! 馬がジジイにびっくりして進まなくなっただろ!」
「申し訳ない、先に行ってくれ」
「先に行ってくれじゃない!」
周りの男女が荷馬車の御者に罵声を飛ばしている。
「あんたがこんな狭い路地で馬車を走らせて来るからだろ!」
「じいさんが怪我してたら馬車のせいだろうが!」
御者は「は!」と周りの罵声を笑い飛ばした。
「配達が遅れたらどうしてくれるんだ!」
老人は項垂れて頭を掻いていた。
ジャファは自分に小声で言い聞かせる。
「ジャファール、せめてこんな時には人を助けないと! それができなきゃ、カヴェイネンの旦那とピンを死なせそうになったときと何も変わってないって言われてもなにも言えないだろ!」
オルジェンの学生たちは飛び出していくジャファを追いかけて荷馬車を見た。
ジャファと彼らが見たのは第八環状には不似合いな、紋章入りの荷馬車だった。
それから荷馬車にぶつかった老人を見れば、老人は胸を押さえて顔をしかめながら冷や汗を掻いている。
(天龍と戦ったリュヌ商会の人のなかに同じように胸を押さえて冷や汗を掻いていた人がいた。たしかイェジンのオッサンは骨が折れてると言ってた)
ジャファは反射的に「医者!」と叫んで学生たちに腕を振った。
「みんなでじいさんを医者に連れてって!」
それからジャファは荷馬車の御者を振り返り指差す。
「荷馬車のおまえ! じいさんが馬車を避けきれなかったのはおまえがこんな狭い路地で馬車かっ飛ばしてたからだろ! じいさんに謝って医者代ぐらい出してやれよ!」
そのジャファの罵声を訊き咎め、馬車の荷台から屈強で強面の男が短めのナイフを持って路地に下りた。
周囲の男女が一斉に静まり返る。
「威勢がいいな、小僧。この馬車に紋章が付いてるだろう? 見えるか?」
「俺まだオッサンと違って若いからよく見えてるよ」
ジャファは男に向かって笑った。
「いいかお坊ちゃま、おまえみてえのをここいらじゃクソガキって言うんだよ」
男がナイフをちらつかせ、ジャファをコーヒー・ハウスに連れてきた学生たちは近くの医者はどこだったかとコーヒー・ハウスのアンジェリンに訊く傍ら、頭を抱えて小声で言葉を交わす。
「誰だよ、あいつを連れてこようなんて言ったの!」
「あいつがこんな血の気多いなんて思わなかったよ!」
ナイフひとつ、天龍と地龍が繰り広げる人外の争いを見たジャファには怖いと思えず、ジャファは男に向かって手を出した。
「寄越せよそのナイフ。二束三文で買ってやる」
「あ?」
男は顔をしかめてジャファを睨み付ける。
「馬鹿にしてんじゃねえぞ! 小僧!」
「その言葉、そのまま返す」
「ふざけるな!」
ジャファは小さく「チチ」と舌打ちをしてからコートで左腕を覆い、そのコートのなかでピンやアルタンがやっていたように結界の盾を引き出して腕に巻き付けてから腕を出し、わざと腕にナイフを当てて結界の上を滑らせ、男が踏み込んできた足にわざとコートを踏ませてからコートの下にもうひとつ結界を出して勢いよくスライドさせた。
男がバランスを崩してひっくり返ったところでジャファは手早く男のナイフを奪い取り左目に切っ先を突き付ける。
一瞬だった。
周囲は誰もが呆気に取られた。
誰もが、屈強な男に子供がナイフで刺される場面に目を覆っていたのに、子供のほうが屈強な男をひっくり返して馬乗りになっている。
「あのおじいちゃん、肋骨折れたんじゃない? あの馬が暴れてうっかりあんたの胸が踏まれたら、目には目を歯には歯をでちょうどいいよね? あんたの肋骨折るかどうか、おじいちゃんかおじいちゃんの家族に訊いてみたいと思わない?」
ジャファは男の耳に小さく囁く。
「積み荷が割れたかな? この香りってバラカ産のワインと香油だよね。バラカとの交易許可品リストにワインと香油って入ってたっけ? ああでも、やましいものじゃなければ第八環状の路地裏なんて通らないか。そういう物を運ぶのに紋章付きの馬車を使うべきじゃないんじゃない? って、宰相殿下に言ったほうがいいと思うよ。あんたが言えないなら俺が言ってあげようか?」
宰相の邸は第二環状区の一番地にある。
それは、宰相が第一環状の一等地に邸を持てる上流貴族の出身ではないということを意味している。
「小僧、おまえなにを嗅ぎつけた」
男に睨まれ、ジャファは小さく笑った。
「おじいちゃんに謝って医者代ぐらい出してくれたらここでは何も知らなかったふりしてあげるよ。どうしたい?」
「ワインと香油がバラカ産だと、どうしてわかった?」
不審げな男の言い分に、ジャファは男に馬乗りになった状態で膝を立ててニヤリと笑みを浮かべる。
「あんた正直だね。俺なら「証拠がないよ」って言って終わりにするのに」
男の目にナイフの切っ先を突き付けていたジャファは、「警邏隊だ!」という声と同時に馬を走らせてきた警邏隊の男を見上げた。
「お巡りさんごめんなさい、このナイフ、おじさんのナイフなんです。荷馬車で突き飛ばしたおじいちゃんに謝ってとお願いしただけなのに、このおじさんがナイフで切りかかってきたから応戦しただけ。こういうのってセイトウボウエイにならない?」
警邏隊の男は困ったように顔をしかめ、それからどう見ても子供のジャファが屈強な男をひっくり返しているのを眺めて呆れた。
「そのナイフをこちらに渡しなさい。その男は仮釈放中の殺人者だ、ひとつ間違っていれば君は殺されていたかもしれない」
ジャファはしおらしく頷く。
「ごめんなさい」
「無謀なことをして問題を起こさないでくれ」
警邏隊の男はジャファにひっくり返されていた男を起こして背中の土を払ってやり、小声で言葉を交わした。
ジャファはその口の動きをじっと見つめて聞き耳を立てた。
「積み荷は無事か? ひとつかふたつの損は仕方ない。残りは間違いなく届けろ」
「了解してまさあね」
(ふうん、あの警邏隊とこの男はグルなんだ)
ジャファは荷馬車の男に向かって肩を竦める。
「ごめんなさい」
それから、母ジャヒーアの言葉遣いや威圧感を真似て男に囁いた。
「積み荷が割れたのはおじいちゃんのせいじゃない。それだけ認めたら、宰相にも黙っておいてあげる」
我ながら自分を嫌いになりそうなことをしているとジャファは呆れたが、衆目のなかで男を殺したり、男に傷を負わせたりしたら、宰相から訴えられることになりかねない。
「次があったとしても、また俺がおまえの喉か目にナイフを向けるから覚悟してね」
アーケリ王族譲りの威圧は男を圧倒するのに十分だった。
盗賊と王女の下で育ったという境遇が、こんなところで役に立つとはジャファ自身思わなかったが、男が荷馬車を走らせて行くのを見送って、ジャファは唇を咬む。
老人を医者に連れて行こうとしていた学生たちは、男相手に勝ったジャファを凝視してしまった。
「なんなんだ、おまえ」
学生のひとりに訊かれて、ジャファは小さく答える。
「ナイフ躱すの、得意なんだ」
第八環状区と第九環状区。
ジャファは足元に視線を落とした。
(農奴の問題だけじゃないんだ、宰相の紋章を付けた荷馬車が王都城内の市民を踏み付けにしてる。第一環状の邸にいても分からなかった)




