カヴェイネン:異国から来た訪問者(15)舌禍についての後悔
カヴェイネンはイェジンがジャファとアルタンを連れて部屋を出て行ったのを眺め、それから残ったタジャンを責めたいが迷う、といった様子の表情で見てから、視線を外した。
今、タジャンを見ると殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
若いころには、怒りを我慢せず相手を人前で殴り倒したこともあった。
あれはいつだっただろうか?
きっと、もう三十年以上も前に違いない。
自分が感じている怒りは、タジャンがイェジンやリュヌ商会の者たちを天龍に襲われる危険に遭わせたことであり、同時にタジャン自信が自分も危険な場所にいることも顧みず、商隊の戦闘員たちが戦うのを傍観して利益を上げようとしていたことだ。
タジャンは、何度も扉を振り返りながら、逃げたいが弁解もしたいといった様子で、カヴェイネンと同じように複雑な表情を顔に浮かべてから首を振った。
「私は」
先に言葉を発したのはカヴェイネンだった。
「腹が立っている」
タジャンは「ええ」と小さう頷く。
「イェジン殿は私の雇い主だ。龍の鱗が売れるとうっかり商売人に言ったのが悪かったのだろうが、雇い主を危険にさらすような真似をされたことに腹が立っている」
カヴェイネンの淡々とした言葉に、タジャンはまた「ええ」と頷く。
「イェジン殿と護衛の契約をして剣を振るっていた。雇い主に怪我をさせないこと、それが護衛の契約を引き受けた私の務めだ。ヴェスタブールで龍の鱗が売れると言ったのは、一枚や二枚ならば、記念品や、武人として屠龍師、昔は龍退治の騎士と言ったが、それだけの技量があることの証明、そうした武人との繋がりがあることを象徴するものとして価値があるからだ」
黙り込んだタジャンに、カヴェイネンは続ける。
「龍の鱗は、龍を呼ぶような真似をしてまで集めるものではない」
タジャンは言葉を探す様子を見せながら、それでもなにも言わずにカヴェイネンの言葉を受け止めていた。
静まり返った部屋で、膝に置かれたスカーフがもそもそと動くのを感じてカヴェイネンは膝の上にいるピンに目を落とす。
ピンはスカーフから這い出してあくびをし、カヴェイネンを見上げ、呆れたように首を振ってからベッドを下りてやせぎすの小柄な青年に姿を変えた。
「言わんこっちゃない。盾がなくなると言ったじゃありませんか。怪我をして寝かされるなんて」
「おまえさんはポケットのなかで震えてから冬眠状態になってしまったよ」
カヴェイネンが笑うと、ピンは小麦色に近い薄い茶色の髪を掻き毟りながら地団駄を踏んだ。
「寒かったんですよ!」
それからピンはタジャンを見て黒い目をきつく眇めた。
「うっすら聞こえた。天龍が商隊の場所を追跡できるように、わざと魔道具の気配を隠そうとしなかったって?」
タジャンはピンを見て「だったらどうした」と不貞腐れたようによそを向く。
カヴェイネンはピンの肩がわなわなと震えるのを見た。
怒りで全身が震えるというのは、理不尽なことを見聞きしたときにたまさか起きることだ。
それはたとえば、自分のための怒りであることもあれば、他人のための怒りであるということもある。
(ピンの怒りは、私と同じ怒りだろうか)
同じ魂の持ち主だと言われ、カヴェイネンはピンの思考が気になった。
「うっかり、商売のネタを逃したら恨まれるなんて軽口言った自分がバカだった。あんたは金のためなら他人の命を危険にさらしても平気な人間だったんだ」
喉に言葉が閊えるような言葉の出し方をするピンを見て、カヴェイネンはやりきれない思いで目を閉じ、眉根を寄せる。
価値観の違う他人から見たら、なぜ怒りに震えているのかなど分からない。
彼を怒らせたことが、彼にとってどれほどの禁忌だったのかなど共有されることもない。
他人から見れば、すべてが「なぜそれだけのことで文句を言われなければならない」と言われても致し方ない。
それでも、ピンにとっては自分自身が軽口で言ったことが、雇い主や商隊の仲間を危険にさらしたことがまず許せないに違いない。それから、その思い付き、つまり魔道具で天龍をおびき寄せるという案を実行に移したタジャンのことも許せないということだろう。
「カヴェイネン殿、あなたはヴェスタブールでは武人の技量の証だと言ったが、ハシャクではそうではなかった。ハシャクでは、龍の鱗は力を得るための薬として売れると言い、新鮮なものはとても珍重されて高く売れた。タリヤでもうひと稼ぎしたかったんだ」
タジャンの言葉にピンが「もうひと稼ぎ?」と震えるような声でタジャンに訊く。
「あんたは、自分がなにを言っているか分かってるか?」
しゃっくりに耐えようとでもしているかのような、腹の底から低く抑えた声がピンの喉からこぼれる。
カヴェイネンは黙り込み、目を閉じる。
「タジャン殿、申し訳ないが部屋を出てくれないか」
ピンの恨みがましい目とカヴェイネンの低い声に押されて、タジャンは「ああ」と頷いて部屋を出て行った。
*** *** *** *** ***
ピンはカヴェイネンを振り返った。
「すみません」
カヴェイネンはピンを見た。
「謝らなくていい」
黒い目でカヴェイネンを見つめたピンは、小さく息を吸い込んでぐっと歯をかみしめる。
「連日、私はあなたの肩の上であなたが戦うのを見ていました。周りで、他の者たちが戦うのを見ていました。たった二週間弱かもしれない、それでも、そのあいだに何人もが怪我をしました」
ピンは言う。
「あなたにとっては、名前も知らない同行者かもしれない。私にとっては二十年以上いるこの商隊で道を共にした仲間です。アルタンはオオタカで、カヤネズミの私にとってはニオイを嗅ぐだけで身が竦むほど怖い相手です。でも、彼は私を襲わない。同じ商隊の仲間で、同じ地龍の仲間なんです。それからワシのセルジェン、彼はハシャクを出た最初の日に負傷しましたが、彼も私を襲うことがない仲間です」
カヴェイネンは頷き、ピンは続ける。
「この商隊に、何人が同行しているか知っていますか?」
ピンの問いに、カヴェイネンは「二十人ほどだろうか?」と首をひねった。
「私のように小柄な小動物の姿で同行している者を入れれば、五十人近くの地龍がこの商隊に同行しています。でもあなたはスジェまで同行するお客人で、あなたの契約はイェジン様の護衛で、だからこの商隊全体のことを気にする必要はなく、何人いるかも関係ないことです」
カヴェイネンは「五十人」と小さく驚いて口の中で繰り返す。
「私が腹立たしいのは、私がうっかりあんな信用ならない商人に、龍の鱗はヴェスタブールで高値がつくと言ってしまったことです。私があいつにそれを言わなければ、あいつだって天龍をおびき寄せようなんて思わなかったはずなんです」
ピンが拳を握りしめ、俯いた。
「お客人たちには見えていなくて、見える必要がないことであっても、私には見えていないといけなくて、見ないといけないことがあるのに、私はそれを見ていなかったんです。エルバハンでもハシャクでも、遠見鏡の部屋で地図を広げて行き先を見たのに、私はあいつが夜なにをしているのか、なんで天龍たちがこうもあっさり追ってこられるのか、その原因を見なかったんです」
絞り出すような声で言うピンを見つめて、カヴェイネンは思う。
(私も、この感覚を知っている)
リデンバッハの城にいた十代のころ、カヴェイネンは騎士の仲間と食堂の大きなテーブルを挟んで談笑しては修練に戻る日々を過ごしていた。
硬いパンをちぎってスープに突っこみ、柔らかくして口に入れては「焼きたての柔らかいのが食べたいよな」と言いながら過ごしていた。
あるとき、きれいなブルネットの女が食堂の下働きに入ってきた。取り立てて容姿がよいわけでもなければ身なりに気を使っているとも見えない女だったが、長く伸ばされて量もある豊かな髪は、食堂に集まる男たちの印象に残った。
ブルネットは上流階級の女たちが毎日のように髪油で手入れしてその色艶を競う、いわば女たちの美の象徴で、それを食堂の下働きに出る女が誇っているのは壮観と言えば壮観で、仲間内には彼女のブルネットを眺めるために、わざわざ彼女がいる時間を狙って食堂に来る者もいた。
「見ろ、あのツヤのあるブルネット。顔は悪いが後ろ姿は極上だ」
老齢になって思えば下働きのその女に対して失礼な言いぐさだが、当時のカヴェイネンはまだ十代でその言葉を咎めるような見識もなかった。カヴェイネン自身も白髪になる前は黒髪、いわゆるブルネットで、散髪に行ったときに床屋に言われた。
「金に困ったらこの髪を伸ばしてカツラ用に売ったらいい」
床屋のオヤジとは、ただの笑い話でした話だったが、食堂でその話をしたときに、たまたまそれを聞いていた男がいた。
その男は、食堂の下働きに来ていた女を捕まえて髪を切って奪い、カツラ屋に売り飛ばそうとした。
食堂で男に捕まって髪を切られた下働きの女は、男に捕まったときに抵抗したせいで頬に大きな刃物の傷を負い、食堂を辞めた。
あとで食堂で働いていた者が、彼女はそれからしばらくして自室で首を吊ったと言っていた。
彼女の髪を切った男は、凶行を咎められた取り調べの席で、こう供述したという。
「カヴェイネンがブルネットがカツラとして売れると言っていた。金に困っていたから、あの女の髪を売って金にしようと思った」
自分が迂闊なことを言わなければ、その男は彼女の髪を切って売り飛ばそうとは思わなかったのだろうし、その動機がなければ彼女は男に捕まることも髪を切られることも顔に傷を負うこともなく、首を吊ることもなく、そのブルネットを眺めるのを楽しみに食堂に通ってくる騎士たちの誰かと結婚していたかもしれない。
舌禍というのは自分に降りかかって来るものを言うが、自分のひと言が他人の人生を狂わせることもあるのだと思い知った出来事だった。
今回のことも、舌禍というものだろう。
何十年も前のそのときと違うのは、タジャンは凶行に及んだ男と違い、金には困っていなかったことだ。金に困っているわけでもないのに、他人の命を危険にさらした点だろうか。
「ピン」
カヴェイネンに声をかけられて、じっと俯いていたピンが顔を上げた。
「私がピンに、ヴェスタブールでは龍の鱗が高値で売れると言わなければよかったんだ」
ピンが首を振る。
「違いますよダンナ。あなたは世間話として私にそれを言った。私は冗談交じりに商機を逃すなとあいつに言った、あいつは天龍や地龍が殺し合うことでしかその鱗は手に入らないのだという想像力はあったが、天龍や地龍の命よりも自分の商機が大事だった。たった数日、ジャファがあいつの売り物を盗んだという、その窃盗被害に遭ったというだけしか知らないような男だったのに、自分たちと同じ倫理観、つまり商機よりは命のほうが大事だという価値観を共有していることを前提に話をしていた自分が悪かったんです」
カヴェイネンはじっとピンを見つめる。
ピンは大きく息を吸い込んだ。
「私が迂闊なことを言ったせいで、私はイェジン様と商隊の仲間を危険にさらしたんです」
両手で目元を覆い、ピンは大きくむせび泣く。
カヴェイネンはじっと黙って、ピンをベッドに座らせるだけに留めた。
髪を切られ顔に傷を負って首を吊った女の幻影が囁いてくる。
あんたはまた同じことをしたのね、あんたと同じ魂を持つ彼も、同じことをするのね。
忘れてはいけないが、延々と囚われているわけにも行かない。
同じ魂を持っているから同じことをしでかすのかということも分からない。
ただ、ピンを無条件に「おまえは悪くない」と慰めてはいけないのだ。
ピンを悪くないと慰めたところで、ピンはなにひとつ救われない。
それはカヴェイネン自身がそうだったからということでしかないが、こういうときに「悪くない」と言われても、その言葉から届いてくるメッセージはなにひとつないのだ。
カヴェイネンとピンはふたりきりで、それぞれにじっと、タジャンの行為、天龍との交戦で負傷した者、交戦中に殺した龍のことを考え、無言で時間を過ごした。
なんとも重苦しい時間だが、それは自分たちにとって必要な時間だった。




