龍と妖狐と魔法の小刀(43)四王府の姉妹たち
芸梅香、つまり比轍が兄蘇透と芦諷と三人で貸本屋の客人たちに「講談とは違う話」を聞かせてからひと月ほど後。
蘇瑚煌は、婚家の屋敷にある自分に与えられた一室で、じっと目を閉じていた。
広くはないが、狭くもない部屋である。
寝台にも、煌びやかさはない。
実家から持ち込んだ煌びやかな家具や飾りは、父が天牢の囚人となったときに質に引き取らせて慎ましやかな物に変えた。
それは、今では「七王の難」と呼ばれる政変の中心にいた家族として、婚家にもたらす影響を少しでも減らすため、目を付けられないようにするためにと長兄の蘇丹から言いつけられた振る舞いではあったが、瑚煌自身の気持ちにも寛容さをもたらした。
蘇芳俊
ずいぶんと年の離れた従兄弟である。
まだ成人して間もなく、側室も選ばれていない彼には、王弟が与えられるべき「王府」が与えられていない。
王宮にあり「奥宮」と呼ばれる一角、皇子たちが育てられる区画は皇子たちから招かれることがなければ立ち入りはできない。
芳俊は即位した王にとって末の弟であり、本来は王の交代に伴って王府が与えられなければならない。しかし芳俊には王府が与えられていない。
先王の時代には、公主として降嫁されるという話もあった皇子だった。
たった七つで母を亡くした皇子。
人にとってはもう学問のいろはを教わりはじめる年齢であっても、五心貴族や六心の王龍族ならばようやくひとりで立ち上がれるようになったかどうかの年齢で、自分を愛してくれるはずの母を失ったことになる。
瑚煌は自分の息子を思う。
瑚煌の息子はまだ十五歳で、それでも人の倍も三倍も成長に時間をかける龍族では、人の見た目ならば五歳や七歳ぐらいの年齢にしか見えない。
幼い子供を置いて世を去る母親は辛かろうと思えば、芳俊のことが気になる。
なぜもっと早く気にしなかったのかと後悔しても遅いし、瑚煌自身、幼い従兄弟を顧みることがなかったと後悔しているわけではない。ただ、顧みられることがなかったのに講談では「愛され続けてきた弟」に対して「さらなるものを与えることが望まれた姉」として扱われてなお「その望みを完全には叶えてくれない意地悪な異母姉」として人から嘲笑を受けていることについて理不尽を感じ、我が子が同じ目に遭ったらどうかと芳俊の母に感情を重ねて憤りを抱える。
瑚煌はゆっくりと目を開き、深く息を吸い込んだ。
「芳俊殿は、憐れな皇子ね」
口に出してみて、それから小さく笑う。
誰も彼に手を差し伸べはしなかった。
存在を知ってはいながら、王族が末端まで集まるような園遊会でも、まだ園遊会に参加する年齢ではないから、あるいは母妃がいないから、まことしやかに、いないことが正当化されていた。
誰も彼の誕生日を知らない。
先王の実子ではなかった二皇子蘭俊や七皇子菖俊の誕生日には、先王が父としての矜持を満たすべく、母妃である炎二妃に請われるがまま盛大に誕生祝賀の会を開いたというのに、先王の実子である他の皇子たちは母妃が開く祝いの座以外には祝賀の会が開かれてこなかったし、芳俊もその例外ではなかった。
皇子には自分が統治する州が与えられるのが一般的だが、これも引退する王爺たちが統べる州を引き継ぐという慣例に反して、芳俊に与えられたのは名前だけが決められた実体のない州であった。
成人の儀も誰ひとり先王に進言しなかったことで、芳俊は自ら先王のもとに乗り込んで催促したのだという。
王爺と呼ばれる、歴代蘇王の兄弟たちを親に持つ親族ですら、誰も、彼がどのような子供か、知らない。
「それなのに、講談では弟を虐げる嫌な姉の役にまでされて、かわいそうだこと」
他人事である。
しかし瑚煌は繰り返してみてまた、講談でそんな扱いをされていたら口さがない者たちは生粋の王族であるはずの芳俊を侮るだろうし、現にいま侮られている、と呆れる。
「奥様、ご招待の皆様お集りになりました」
侍女に声をかけられて、瑚煌は侍女を振り返った。
「ありがとう。講談師も、もう控えているわね?」
「はい、奥様」
巷で評判の講談師を呼ぶ。
これが、瑚煌が兄たちから望まれ、瑚煌が目下すべきことである。
瑚煌が持つ人脈のなかで、王族の地位を貶める話がどれほど広まっているのかを確かめねばならない。
婚家は五心龍族で、役人の家柄であった。
瑚煌の夫は七王爺として知られた蘇施轍が瑚煌の父として見立てた中でも特に堅実な男で、王の交代があっても仕事に瑕疵はひとつもなかったとされ、難を免れた。
その男の妻として瑚煌が招いた夫人たちは、一様に講談を楽しみに着飾っている。
「皆さま急なご招待にも関わらず、来てくださってありがとう」
瑚煌の労いに、夫人たちはそれぞれの着物を緩やかに揺らしながら腰を折って七王爺の公主であった瑚煌に挨拶を向けた。
「お父上の難にも罪を問われずこうしておられることが、瑚煌公主の誠実さを証明しておりますわ」
「今日は講談を楽しみにしてまいりました」
「お声がけいただけて光栄です」
今日の招待は十人ほどで、瑚煌はそれぞれと挨拶を交わし話を聞きながら、侍女たちにお茶と菓子を用意させる。
招待された夫人たちは、それぞれに自分の席の横にある傍机に置かれた蓋碗や菓子に手を伸ばしながら社交辞令と趣味の会話に花を咲かせた。
「わたくし、この講談のなかでも色とりどりの花の描写が一番好きなのよ」
「あら、わたくしは食べたことのない料理の数々が楽しみ」
「わたくしも、話を聞いては厨師にその料理のことを訊ねるの」
「瑚煌様はいかが?」
水を向けられ、瑚煌はふくよかな頬を緩ませて微笑んだ。
「わたくしはこの講談を聞くのが初めてなの。皆さまは聞いたことがおありなのね」
夫人たちのはしゃいだ声が静まり返る。
瑚煌は、ゆっくりと自分の手元に置かれた蓋碗に手を添えて小首を傾げて見せた。
「宮中のことがとても生き生きと語られるのだそうで、七王府のわたくしたちは気を遣われたようなのよ」
ふふ、と笑う瑚煌の言葉に、夫人たちは背筋を伸ばした。
誰もが、悟った。
この講談は、ただの講談ではないのだわ。
夫人たちが目配せするのを見て、瑚煌は自分の手元にある蓋碗に意識を向ける。
(王族は誰もがこの講談に危機感を覚えるでしょうね)
瑚煌はそんなことを思いながら、湯に落とされた茶葉を蓋の淵で揺らした。
「わたくし、今日は皆さまと同じ講談を聞くのがとても楽しみなの」
夫人たちは皆、瑚煌の席に呼ばれた意味を推し量る。
趣味の会話は沈黙に変わり、とても人気の講談を聞く女性たちが十人も集まった場とは思えないほど静かな空間のなかで、瑚煌が陶器の蓋碗を動かす音だけが耳に触れる。
「皆さまもっとお話ししてくださってよろしいのよ、わたくしは、楽しみ、と申しましたでしょ?」
瑚煌から、にこやかな声で囁くように紡がれる言葉は、夫人たちの戸惑いを誘い、それから衣擦れの音を呼んだ。
「奥様、四府の公主様がたがお着きになりました」
侍女の言葉を聞いて瑚煌はさっと立ち上がる。
先に呼ばれていた十人ほどの夫人たちも、瑚煌に倣い席から立ち上がった。
七王府の公主であった瑚煌は、序列四番目の位置に置かれた席におり、夫人たちはその席次を見て上がいることは理解していたが、四王府の公主たちであるとまでは知らされていなかったのか、互いに抜け駆けの手土産を持つ裏切り者がいないか、他の招待客の手元を確かめている。
「慧姐姐、盈姐姐、綾姐姐、急なお声がけに足をお運びくださってありがとうございます」
「こちらこそ、久々に従妹に会えてうれしいわ」
笑顔を見せた四王府の姉妹たちに向けて、瑚煌は腰を落として挨拶を交わし、三姉妹の長女である蘇慧の手に自分の手を添えて上座に案内する。
「せっかく煌妹に呼んでもらったのですもの、楽しまなくてはね」
慧から瑚煌への返事に、ふふ、と笑ったのは、盈であった。四王府の三姉妹では誰よりも天真爛漫と言われていた女性で、四王府の兄弟、蘇透と比轍の姉としては二番目である。
「巷間で評判の講談なのですって? あなたが巷間に興味を持つようになるなんて、世の移り変わりはわからないものね。よいことだと思うわ」
「盈姐姐にそう言っていただけると、なぜか素直に嬉しいものでございますね」
「あら、それは光栄だわ」
同席した夫人たちは視線で互いの言葉を遮りながら、四王府の公主と七王府の公主を見比べた。
「ねえ煌妹」
「なんでしょう? 盈姐姐」
「巷で話題の講談はわたくし初めて聞くのだけれど、透弟からそれとなく、知っているかと訊かれたのよ。ここにわたくしを呼ぶのに、内容次第で他言無用の念書ぐらい書かせるかもしれないということは承知なのかしら?」
盈に問われ、瑚煌は一度は座り直した紫檀の椅子から立ち上がり、二歩ほど足を動かす。
場の上座に賓客として迎えられていた盈は、自分の前で瑚煌が腰を落とし、両手を右の腰に添えるように重ねて首を垂れるのを見つめた。
「無言は承知と看做す、それでよいのね?」
「はい、盈姐姐」
どちらかといえばふくよかな部類に入る蘇瑚煌とは違い、少しでも強く触れたら折れてしまうのではないかというほどにほっそりとした腕を動かして、蘇盈はゆっくりと茶を口にする。
「お戻りなさいな、煌妹。あなたの忠心を受け取るべきは、これから蘇の国に嫁いでくるであろう王后でなければなりません、ここでわたくしたち四府の者が受け取る礼は、大仰なものでなくてけっこうよ」
「はい……盈姐姐」
盈は瑚煌が自席に戻ったのを確かめてから、瑚煌に向けて小首を傾げた。
十五人。
瑚煌はちらりと盈を見る。
序列で次席の上座にいる盈の斜め向かいには、四王府の三女で盈の妹である蘇綾が静かに座して姉と従姉妹の会話をちらちらと気にしていた。
それからその綾の視線が最上位の席に座っている慧の後ろに向いたのを見た瑚煌の目に、盈と同じぐらいほっそりとした侍女が控えているのが入ったが、ほんの刹那、気になった程度で瑚煌は侍女から視線を外した。
(四王府の姉妹のほかは、皆この講談を知っていそうな階級にある文官たちの夫人を集めたけれど、姐姐たちはこの講談をどう思うのかしら? 勝手に四王府の姐姐たちを呼んだと丹お兄様に知られたら、他府に知られたくなかったのにと怒られてしまうかしら?)
そのようなことを思いながら、瑚煌は講談師を座に呼んだ。
*** *** *** *** ***
講談師は夫人たちの前で、煌びやかな宮中の話をこれでもかと語り聞かせた。
時間はあっと言う間に過ぎてゆく。
そうして、おとぎ話は繰り返された。
「その物語の終わりはどうなるのかしら?」
ひとりの夫人が講談師に訊くが、講談師の男は困ったように頭を下げるしかなかった。
「申し訳ございません、このお話は、まだ誰一人、結末を知りません」
夫人たちはさざめきのように嘆息をこぼす。
「続きが聞きたいわ」
「わたくしは意地の悪い異母姉姫に仕返しするようなお話がいいわ」
「あらでもこのお話し、寵妃というのは側室でございましょう? 意地の悪い異母姉姫は寵妃の娘ではないだけで同じ龍王の公主でしょう? 請われるがままなんでも言うことを聞いてあげる必要はないのではないかしら。わたくしはそれより、寵妃のところに入り浸る王の御渡りがない王后の側から見たお話が聞きたいわ」
「あらあなた、玄王太后に睨まれても知らないわよ」
「そうなるかしら?」
あどけない笑声のなか、盈が瑚煌に声をかけ、瑚煌が講談師を下がらせる。
午後の柔らかい陽光が透かし窓越しに花瓶の花をきらめかせていた。
「あなたいまの講談のことは知っていたわね?」
「わたくしたちには何ひとつ相談がなかったようだけれど」
四王府の盈と綾が、それぞれに蓋碗を手に遊びつつ、慧の後ろに佇んでいた侍女に声をかけ、瑚煌や他の夫人たちは四王府の姉妹たちに従ってきた侍女を見た。
侍女は身じろぎもせずに俯いて立っている。
「ねえあなた、あなた先ほどの講談師のあとを引き継いで、お話を終わらせなさいな」
綾が面白そうに侍女に命じると、盈もくすくすと笑いながらその侍女を振り返った。
「貸本屋で講談師の真似事をしたそうではないの」
「そのように求められたからです」
「お父様からね。それで、わたくしたちのお願いではできないの? 意地悪な子ね」
「あなた王府に帰ってからの時間を楽しみにしておいでなさい」
侍女が盈と綾を見、それから慧と瑚煌をちらりと見てから頭を下げる。
「本日の会は瑚煌様がお招きくださった場でございますから、わたくしごとき」
「あなたそんなだから威厳がないと言われるのよ」
盈がぴしりと侍女に言った。
威厳
瑚煌は盈を一瞥し、それから侍女を振り返る。
侍女は困ったような視線を瑚煌に向けたが、瑚煌はその侍女に笑みで返した。
「どうぞ講談の終わりを聞かせてちょうだいな」
侍女は盈と綾を見てから視線を俯ける。
「七王府の公主にお聞かせする話では……」
「誤解のないように言っておくわね、この講談に七王府は無関係よ」
瑚煌が侍女を見て伝えれば、彼女は顔を上げて目を瞬かせ、それからその目を伏せた。
「申し訳ございません」
「わたくしが話しなさいと言っているのよ」
盈の言葉に改めてのろのろと顔を上げた侍女を瑚煌が見やれば、面倒草いとでも言うかのように、困った表情を浮かべている。
(あら、柔らかい表情で意思の薄そうな女だと思ったけれど、ずいぶんと素直な感情を表に出すのね)
他の招待者を見れば、どの夫人たちも侍女の表情を見て驚いたのか、顔を見合わせ、肩をすくめ、あるいは肩を寄せて何かを囁き合っていた。
「わたくしたちは盈姐姐に、聞いたことを口外しないと誓書を出すこともするとお約束しているのよ」
「ええ、瑚煌様のおっしゃる通りよ、どのような最後でも、構いませんの」
夫人たちが瑚煌と盈の意を汲んだかのように侍女に目を向ける。
「……講談師の真似事で語った話は、この講談の結末ではないですよ」
「では、ここではきちんと講談の結末を語ってちょうだい」
盈の有無を言わせぬ圧に、侍女が眉間に縦皺を刻み、それから慧の手元に置かれた蓋碗に手を伸ばして茶をひと口、口に含んだ。
瑚煌はその無遠慮を侍女に許した慧に驚きつつ、しかし黙って成り行きを見つめるしかなかった。




