カヴェイネン:異国から来た訪問者(6)オアシスの市場
エルバハンの街は、様々な香りに包まれていた。
耳慣れない言葉が飛び交い、そのなかで交渉が始まって金貨銀貨がぶつかり合いこすれ合って音を立てる。
逗留は二泊。
つまり、実質的に出立準備を気にすることなくエルバハンの街を散策できるのは一日しかない。
緑の家を出て日干し煉瓦の街並みと色とりどりの布に飾られた目抜き通りを、人の波をかき分けながらピンを追って歩くカヴェイネンは、通りで売られる様々な香辛料の香りに鼻をくすぐられて左右をあちらこちらと振り返る。
「ヴェスタブールではこれほど香辛料の香りがあちこちから漂ってくることはあまりなかった」
カヴェイネンが言うと、ピンが「さようですか?」とカヴェイネンを振り仰ぐ。
「香草は色々なものがあるが、輸入に頼らなければならないものも中にはある。そのせいだろうな。シンプルな味付けの料理が多く、分かりやすく美味しい」
ピンはカヴェイネンに笑顔を向けた。
背はカヴェイネンより頭ひとつ半分ほど低いが、これはそもそもカヴェイネンの背が高いせいで、よりその差が大きくなっているところがある。年齢は二十代の半ばぐらいだろうか。亜麻色の髪に日焼けした赤味のある肌をつやつやと輝かせ、黒い目を快活に動かして目端を利かせている。
街中が、ヴェスタブールで聞こえるような馬の嘶きだけでなく、エニシャ特有のラクダの鼻息も聞こえてくるなどして、五感全体に「ここはエニシャだ、エルバハンだ」と訴えてくる。
今日も空は青く、高く、雲ひとつないところに太陽がその存在を主張していた。
「果物ですよ。メロンです、いかがですか?」
ピンが足を止めてカヴェイネンをつつく。
ピン自身が食べたいのだろう。
そう思いながらカヴェイネンは「いただく」と頷いた。
街に行ったときに、ティーキムやジュジェンはこうした主張をしなかった。
王族という育ちのせいだろう。
ティーキムはまだ「あれはなんだ」という質問をしたことがあったが、ジュジェンに至っては、ヴェルタネンデの街中で領民になにか食事を勧められると、まずカヴェイネンに「食べてもよいだろうか」と訊いてから丁寧に「ありがたくいただく」と言って、従者と数人で分けて食べていた。
あるときカヴェイネンはジュジェンに、領民からもらう食事を従者と分けるのはなぜかと訊いた。
馬車で、不揃いな石畳を踏んで揺れながら進む馬車のなかでジュジェンは笑った。
「美味しいものはひとりで食べるより、従者も一緒に食べるほうが楽しかろう」
カヴェイネンは「なるほど」と頷いてから、首を傾げた。
「その割に、私はなかなかお相伴にありつけないようだ」
「カヴィニンには料理長の美味しい料理を代わりにたっぷり食べさせている」
その会話に従者たちが「ありがとうございます」と笑顔になったが、城に帰り、従者たちを人払いしてから、ジュジェンは申し訳なさそうな、悲し気な表情でカヴェイネンを見た。
それから寝台に腰かけ、寝台にかけられた天蓋から下がるビロードのカーテンを止めているタッセルを弄びながら、ジュジェンはカヴェイネンから顔を背ける。
「従者と食事を分けるにはもうひとつ理由がある」
カヴェイネンは「もうひとつの理由?」と訊き返した。
「あまりよろしくないのだろうが、そういうクセがついている」
「クセですか?」
カヴェイネンは首をひねった。
「私が生まれた国は、数百種類から数千種類にも上る草木を薬草として使う。薬にする物のなかには、何百もの毒草も含まれている。なかには石を粉末にして使うことなどもあるが、体に入ってから数時間で死に至るものもあれば、何日にも何年にも渡って少しずつ接種することで体内に溜まり、毒になるものもある。だから、口にする物にはよく気を付ける」
ジュジェンはカヴェイネンに言いながら手で顔を覆う。
「それが好きだとは言わない。食事を分けながら、いつも申し訳ないと思う」
「申し訳ない、ですか」
ジュジェンは頷いた。
「私が倒れたとき、街で私と同じ食事を食べた従者が一緒に倒れたら、それが毒だったと分かる。そのときになにが起きたか証言してもらうためにも、カヴィニンには街で同じ物を食べさせるわけにいかない。領民のことは信じるが、すべてを善意で信じてはならない、そうやって育ってきた」
本当に申し訳なさそうに、ジュジェンはカヴェイネンの前で寝台にうつ伏せに突っ伏した。
カヴェイネンはそのジュジェンの頭を撫でた。
「それは王族として必要な慎重さです。従者にはこれからも同じ皿から分けてやってください。私は同じ物を食べないようにしますから、領民と従者には、笑顔で」
ジュジェンは顔をあげ、頷いた。
それでも従者を毒見役にすることは気に入らないらしく、ジュジェンはもらったものを自分が率先して食べてしまっていた。
呆れて「スジェでもそうやって、率先してご自分が召し上がるんですか?」と訊いたカヴェイネンは、ジュジェンに不思議そうな顔を向けられ、それから首を振った。
ジュジェンは言った。
「スジェでは、毒見役として仕事をしている者がいた」
カヴェイネンは「なるほど」と頷くしかなかった。
カヴェイネンはジュジェンのことを思い出し、それからピンを見て口角を上げた。
整った深い白い髭に覆われたカヴェイネンの口元は見えづらいが、加齢で下がった頬が上がり、ピンが笑顔を返してくる。
「メロンのほかにプラムもいりませんか? あちらに干し果物の店もあります」
ピンが矢継ぎ早に「あれもこれも」と言い、カヴェイネンは「どれだけ食べるのだね」とピンに訊くと、ピンは眉をきりりと上げて「なんでも、飽きるまで食べられます」と自信たっぷりに返した。
今度こそ大きく口を開けて笑ったカヴェイネンの前で、キラキラと目を輝かせるピンが、くるんと顔を上げて鼻をひくつかせる。
「どこかでナンを焼いています。焼きたてのナン! これはきっとフェンネル入りです」
カヴェイネンはピンを見て目を見張った。
「フェンネルとディルは見た目がよく似ていますのでお間違いないように。香りはぜんぜん違います」
大きく頷き、カヴェイネンはピンにいたずらに目を眇めて見せる。
「ナンは長持ちするかね?」
「長持ちしますとも!」
ピンは満面の笑顔で大きく目を見開いた。
「買い込んで、次の都市まで持っていかれるだろうか?」
「大丈夫です!」
胸を張ったピンに銀貨を数枚渡して、カヴェイネンは「ナンを十枚」と伝える。
「ナンが一枚で銅貨一枚。銅貨十枚で銀貨一枚」
「果物も買うだろう?」
カヴェイネンが言うとピンは大きく頷いた。
「もちろんです、カヴェイネン殿! メロンとプラムと、残りで干し果物とナッツも」
「使い切ってくれ」
ピンはまた大きく頷いた。
「承知いたしました!」
良い返事で元気よく走り出したピンが人の波に飲み込まれたのを見て、カヴェイネンは慌てた。
人の波に消えたピンは、しばらくして波から脇に押し出され、また果敢に人の波に挑んでいく。
「大丈夫か?」
それを三回ほど繰り返したピンを手元に戻して、カヴェイネンは自分の左肩を指でトントンと叩いた。
ピンは悲しそうに頷いてカヴェイネンから預かった銀貨を返し、小さな小さなカヤネズミの姿でカヴェイネンの左肩に駆け上がる。
「メロンとプラムとナンとナッツが欲しいんです」
しょんぼりとしたピンの声が左の耳に聞こえてきて、カヴェイネンは頷いた。
「私は、ここで見るもの聞くものどれも初めてで楽しみだから、一緒に買い物ができて嬉しいよ」
優しく言うカヴェイネンに、ピンが「ありがとうございます」と言ってカヴェイネンが左肩に差し出した指を両手で軽くつかんだ。
「ナンとメロンとプラムのどれを最初に買えばよいかな?」
問いかけたカヴェイネンに、ピンが「それではプラムを最初に」とカヴェイネンの指を左手で軽く叩く。
「あそこにプラム屋がいます」
「プラム屋」
「正しくはきっとプラム農家ですが、プラム屋です」
ピンの言い方に、カヴェイネンは「ふむ」と笑った。
「プラム屋だな」
「はい、プラム屋に行ってから、メロンを買って、ナンを頼んでから、ナッツです。ナッツは干し果物屋にあるんです」
カヴェイネンはピンの小さな頭を軽く撫でてから、人込みに向かって歩き出す。
ピンは「わあ!」と声をあげ、また「わあ!」と繰り返した。
「カヴェイネン殿の肩の上は、私が人の姿でいるよりも見晴らしがよいです! イェジン様の頭の上ぐらい見晴らしがよいです!」
ピンが比較したのがイェジンの頭の上だということに、カヴェイネンは大笑いした。
「イェジン殿の頭の上と私の肩と、どちらも居心地が良ければいいが」
「居心地はまあまあよいです」
カヴェイネンの笑いが「まあまあか」と苦笑に変わる。
ピンはプラム屋の前で足を止めたカヴェイネンの肩の上で「プラム!」と小さく飛び跳ねた。
「十個ぐらいあればよいかな」
「もっとあると、明日か明後日ぐらいまで食べられます」
ピンがカヴェイネンの耳に捕まる。
「よし、ニ十個買おう」
「それからメロンです」
ピンは「プラムより重いんです」と言ったが、カヴェイネンは特に気にしなかった。
「大丈夫、私はいつも大きな剣を持っている。それに比べたらきっとメロンのほうが軽い」
「なるほど」
ピンは頷いた。
プラムを袋に入れてもらいながら、カヴェイネンは背後で慌てる声を聞いて振り返った。
*** *** *** *** ***
走ってきたのは、十代ぐらいの少年だった。
少年はベージュの麻の上下を綿の帯で縛っていて、頭にも布飾りを巻いている。
「坊主、人込みを走るんじゃない!」
カヴェイネンは少年を捕まえて人込みから脇に避けようとした。
「あー!」
少年の悲鳴に、カヴェイネンもピンも鼓膜を劈かれるような恐怖を覚えたが、それでも少年に人込みの中を走らせてはおけないと、カヴェイネンは右肩に少年を抱え上げる。
「下ろせ! 放せ!」
暴れる少年を、男が追いかけてきた。
「ああ! ダンナ! ダンナ! そいつを捕まえておいてくれ! かっぱらいだ!」
「かっぱらい?」
カヴェイネンは右肩に担いだ少年を見る。
「おまえさん、なにをかっぱらったんだ?」
「かっぱらったわけじゃない、あとで金貨を渡すからと言ったのに追いかけてきたんだ!」
右に、左に、少年を捕まえようとする男を避けながら、カヴェイネンは少年に話を聞く。
「なんでそんなことをしようと思った」
「その骨董屋が母の形見を売っていたんだ!」
「母の形見だ? ふざけるな! おまえがかっぱらったのは王女の腕輪だ! その腕輪が何物か知ってるのか!」
「知ってるよ!」
少年は言い放ち、カヴェイネンの肩でまた暴れた。
「店主」
カヴェイネンは骨董屋の店主に声をかける。
「いくらだ? 私が代わりに払おう」
「金ニ十タパカだ!」
「よし、一緒に来てくれ、宿で払おう。それまでこの少年も放さない、どうだね?」
骨董屋の店主は頷く。
「二十タパカはそれなりの値段だ、それを肩代わりするあんたは何者だね」
「何者でもいい、まずは少年が盗った腕飾りを確かめ、それから金子を支払う。それでよいか?」
「金がもらえればそれでいい」
骨董屋に言って、カヴェイネンは「ああ」と頭を掻いた。
「メロンとナンを買わなくてはいけなかった」
そこからカヴェイネンの一行は、カヴェイネンとカヤネズミのピン、担がれた少年、少年を追いかけてきた骨董屋という四人で人込みのなかに分け入った。




