Ⅱ 記憶
ここで歌って、何時間が経つだろう。人は誰もいない。雨も止まない。私は体力が尽きていくのをひしひしと感じ、立っていられなくなり自然と体育座りのような形で時が過ぎるのを待った。
前にもこんなことあったな。
私は、箱の中に十年いた。箱という言い方が正しかったのかわからない。でもそう呼ぶほかに伝え方がわからない。ここに連れてこられた時にヤマネコは私に言った。
「私は君のことを守りに来た。外の世界は汚染、それに伴う感染に侵されている。ここには缶詰も、水も、トイレも、シャワーもある。必要なことは私が教えよう。君はここにいる以上は救われる」
「必要なことって何?」
「それは私が決める」
ヤマネコは私のことをポロと呼んだ。私はその名前がとても気に入っていた。
彼は箱の壁に掛けられていた『トケイ』という丸い形をしたカチカチ音がなるモノの短い針が十四周するごとに外の世界のことを一つずつ教えてくれた。私はそれが楽しみで仕方がなかった。彼は教えてくれた。私たちは『ニンゲン』という生き物であるということ。それには、白と黒と黄、三つの色があり、私は黄であるということ。ヤマネコも黄。だから私たちは永久に仲間同士であるということ。
「でも、外の世界は違う」
ヤマネコは続ける。
「色が同じでも、復讐したりする」
「フクシュウって何?」
「殺したり殺されたりだ」
ヤマネコの言葉が私のすべてだった。彼は、トケイが二周するごとにこの箱へ入り、私に缶詰と水、栄養とよばれるものが含まれる薬、布、紙、そしてシャワーを使用するための丸いコインといわれるものをくれた。一人の時は、体育座りをし、ヤマネコの教えてくれた言葉を何度も何度も暗唱し声に出した。それ以外に特にやることもなかった。
そして、あれは私がこの箱の中に来てから、短い針が七三二一周した頃だと思う。ヤマネコだけが唯一出入りを許されている扉から突然、箱の中に入りきらないほどの数の『ニンゲン』が、入ってきた。彼らは私を見て、驚いた様子だった。
「大丈夫ですか?」
『大丈夫』とはどういう意味だっけ。昔に教えてもらったな…。とびっくりした頭の隙間では考えていたが、彼らが何なのか、私は食べられるのか?何をされるのか?色々な想像が形にならない物体で私の全身に入り込み、追いついていかなかった。でも仕方ないでしょ?あの時はさ、ヤマネコ以外信じられなかったし、ヤマネコ以外の『ニンゲン』を見たことがなかったからさ。それでも私は冷静をうまく装うことができたと思うよ。
「…ニンゲンたちは、黄?」
私の問いかけに、彼ら彼女らは答えず、少しの間をおいて、一人の『ニンゲン』が別の『ニンゲン』に話しかけていた。私はそれを聞き洩らすことなく頭に入れた。あとでヤマネコに聞けるように。
「ズイブン、ドウヨウシテイルミタイダナ」
「トリアエズ、コノコデマチガイナイトオモウ」
「ホゴシヨウ」
その言葉を聞き、私はとてつもなく怖くなった。そして口から音を大音量で出した。それはヤマネコが教えてくれたものとは違う。嗚呼嗚呼と、私は頑張って頑張って教えてもらったことのない言葉にならない音を絞り出したの。
「ダイジョウブ?ワタシタチハアナタノミカタヨ?オチツイテ」
「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼」
私はどの位、音を出していたのかわからない。でも気づいた時には箱の中ではなく、フカフカの布の中で目が覚めて、気が付くとそこにもニンゲンが数人いて、目から水を出している者が声をかけてきた。
「ヨカッタ、ヨカッタ、アカネ」
「私はポロ」
「アナタハ、アカネよ、ワタシノコヨ」
「?」
「アナタハ、アカネよ、ワタシの子よ」
「ア…カネ」
「アナタは、茜。私の子よ」
アカネ…アカネ…そうか、アカネは私の名前…。
いや、私はポロだ!私の名前はポロだ!
私はポロだ!と、ヤマネコに会わせろと必死に叫んだ。それを聞き、またこいつは目から水を大量に出していた。私はそれからずっとずっと、短い針が何周したかわからないまま、箱ではない布の中にこもった。
そしてある時、とある『ニンゲン』が私に話しかけてきた。そいつは私に言った。
「あなたのことを知りたい」
その言葉の意味は私にもわかった。だから私も言った。
「私もあなたたちのことを知りたい」
「たち?」
「ニンゲンたちについて」
私の言葉に、ニコニコしながら言った。
「わかりました。教えてあげます。まず僕のことを教えます。僕は田中大樹。病院というこの建物で働いている者だよ。あなたのお名前は?」
「私は…ポロ」
「ポロさん。ありがとう」
田中大樹は、教えてくれた。『ヤマネコ』は、悪いやつだということ。本当はこの世界にいるべき私をずっと監禁していたこと。ヤマネコを私が庇っても、田中大樹は悪だと主張した。そしてヤマネコはいまだ逃走中。手がかりが何一つないということ。ここは日本という国であること。家族のこと。私は、茜という名前だということ。今私は、十四歳であるといこと。四歳の時に連れていかれたということ。本当に色々なことを優しい口調で教えてくれたんだ。私はそれでもヤマネコに会いたかったし、味方だと思ってしまっていたけど、この田中大樹が悪い奴でないことも直観で感じ取れた。なので素直に聞くことにした。これから何をすべきか、私はどうしたらいいのか。
月日は過ぎ、あれから六年が経った。私は『勉強』というものがとても好きになって、基本的な言葉と、この世界の常識を獲得した私は、周りとうまくやっていけていた。常に他人と話すときは笑顔を作った。元気な女の子を演じた。それに好きなものもできた。それは音楽だ。音を奏でて、ギターを握ると私は私でいられる気がしていた。ポロに戻れるような気もしていた。お母さんは二度とその名前を口にするなと言っているけど、私にはやはり特別な名前なのだ。
でもあの十年間のことは今思うとやはり恨みたくなる出来事だ。私はあの箱の中で、世の中と隔離されていたのだ。十年信じていた人に裏切られた。この悲しみは一生残る。だけど警察に何度聞かれてもヤマネコについては一切答えなかった。何も知らないふりをした。顔も見ていないと言った。もしも会うことがあれば、警察に捕まるより先に私が最初に彼を殴り殺してやりたかったからだ。
そして私は二十一歳になった日に、ギターを片手に東京へ上京した。お母さんは大反対したけど、私はもっともっと世界を見たかったのだ。十年分を取り返したかったのだ。とはいえ、東京には知人もいなく、漫画喫茶に寝泊まりし、どうしてもお金が必要だった私は体を売った。そこのお客さんにも色々な話を聞いた。まだわからないことはたくさんある。田中大樹は十九歳時点で私の脳は、高校一年生にいくかいかないかくらいだといっていた。きっと私はどんなに走っても出遅れた分を取り戻すことはできない。私が走る分、みんなも先をいくのだ。それでも必死に走ることを選びたかった。
私は歌った。毎日同じ場所で歌を歌い続けた。
もう東京へきて三か月も経つのに、誰も耳を傾けてはくれない。雨が降り、私は崩れた。
涙が出ているのがわかる。鮮明な記憶と今までの記録。あんなに狭い箱に十年もいた私には、この広い場所は似合わなかったのかもしれない。
「大丈……夫、ですか?」
俯せていた顔を上げるそこには、ポロの顔をしっかりと見つめる、あなたがいた。