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Ⅰ 雨

今でもしっかりと覚えているよ。あの時のことは。


あの時、僕の足がピタッと止まった。綺麗な金髪のショートヘア、日焼けすると真っ赤になるのではないかといえる色白の肌。一五〇㎝程度の小柄な体格、大きなアコースティックギターを抱えて、そんな体のどこから出ているのかと思うほどの声量。そしてなにより透き通る声。

路上の弾き語りはよく見かけるが、そのどれもが余裕のない日常の中では風景でしかなかった。でも彼女の歌声は、見えない網で、僕の心の芯をグイっと掴み取るように僕を魅了した。それでも彼女の歌を止まって聴いている人は誰もいなかった。当たり前だと思う。東京という街に生きていて、そこに何かのエネルギーがあったとしても、その街で生きていくのに必死な人間達は、他人の価値観を止まって聴くほどの余裕も時間もないのだ。

そして彼女の瞳から一粒の涙が流れたのを確かに僕は見た。

彼女の声は少し震えていた気がした。

一曲の演奏が終わり、彼女はマイク越しに言った。

『この歌で誰かを救うことはきっとできません。そして、私自身も誰かの為に歌ってない。これは私自身の戦いであり、私の為に歌っている。でもその歌が、誰かひとりにでも届いて、繋がれたら、私は嬉しいです。そこのあなたとこの一瞬だけでも繋がれたら、私はとても嬉しいです』

その時、彼女と僕の目がぴったりと合った。

君と心が繋がったのは、きっとあの時が最初で最後だったんだと、今では思うんだ。

きっと僕らは知り合うべきではなかった。


       ●


「前田くん、テレビボイスの原稿チェック、山田Pに回した?」

「先ほどメールしました」

「ありがと!『バニラ』の情報解禁日だけど、他の作品との出し日調整しなきゃだから社内カレンダーに入れておいてね!」

「はい!」

 本多さんの元気な声が社内に響きわたり、僕は言われた通りにカレンダーを打つ。この仕事にも慣れてきたと思う。もう入社して一年半が経つ。僕の仕事は、簡単に言うとテレビ局の宣伝部に属し、ドラマやバラエティー番組の情報解禁日・キャストの取材調整・会見やイベントの調整など、作品の宣伝をして、その番組の視聴率に繋げられるよう日々働いている。今時、配信や録画でテレビをリアルタイムで見ないのが当たり前の世の中で、やっていることが視聴率向上に意味があるのかは正直な疑問だが、そんなことを考えていては業務の“ぎ”の字もやりたくなくなってしまうから、考えるのは入社して半年くらいで辞めた。僕は、ある一定のお金を稼いで、ある一定の人間関係ができ、他人に話しても通用するぐらいの職種であれば、きっとそれで十分なのだ。

昨日のことを思い出す。

僕が聴き惚れてしまった路上ライブの少女の名前は『アカネ』らしい。昨日は手売りのCDを購入して、チラシをもらって帰ってきた。CDには3曲入っていて、お世辞にも高い機材を使用していないであろうレコーディング音源で、それでもやはり心に響く何かがあった。チラシには今後のライブ情報とツイッターのアカウントが記載されており、ほとんど機能していない僕のツイッターでも彼女をフォローした。

「今日もあそこでライブしてるのかな……」

ぼそっとつぶやくと隣の席の永田が声をかけてきた。

「何ですか?今日ライブでもいくんですか?」

永田は僕の数か月後に中途採用で入社してきた同い年の男だ。僕も中途採用で、ほぼ同期と言っていいのだが、頑なに敬語を辞めない。それでも不思議と壁は無く、何だかんだ社内で一番心を許している人間かもしれない。

「違うよ。昨日ちょっと路上ライブ見てきてさ」

「へー、エンタメにまったく興味がない前田さんが珍しいですね~!」

 永田はパソコンをカチカチ叩きながら興味なさそうに言った。彼の言った通り、僕はエンターテイメント業界に疎く、全く興味がない。だからこそ、この仕事を選んだし、きっととても自分に向いている職だとも思う。好きなことを仕事にするというのはかなりの勇気がいる。必ずその業界の汚い面や嫌な面が見えて、理想と現実の帳尻が合わなくなるだろう。この仕事だってそうだ。例外もあるが、数々の芸能人を見てきて、そのほとんど社会性がまったくもって欠如している。そりゃそうだ。イケメンや美女ってだけで、社会人になる前に周りから持てはやされて、チヤホヤされ、地位と名誉と金を得て、そのまま大人になる。彼ら彼女らは「商品」であって、もはや「人間」ではないのだ。

「でも、前田さんの担当する作品、悔しいけど面白いんだよなー」

「それは運が良いだけだよ。作品は自分じゃ選べない」

「運も才能のうちっスよ!先輩!」

「先輩はやめろ」


ここまで見ていてわかると思うが、僕はかなりつまらなくて冷たい平凡な社会人。自分の紹介をするとするなら……

前田圭。東京生まれ、東京育ち。彼女と同棲中の二十五歳。前職はアパレルショップ店員。学生時代は帰宅部で、いじめられもしなければいじめもしない。友達も少なくもなく多くもないけど、生きてきて思い出せるほどの「青春」というヒトトキも特にない。令和という時代に生きるほとんどの若者の一人に過ぎない。

そんな僕が路上ライブの夢追い人の歌にひっかかるなんておかしな話だ。昨日は会食の帰りで少しお酒に酔っていたからかもしれない。そうだ!そうに違いない。


会社を出たのは二十三時過ぎ。電車に揺られて、帰路を進む。

昨日少女がいた場所は、会社から僕の住んでいる家の最寄り駅の間の駅。その近くの居酒屋での会食帰りに喫煙所に寄ろうとして、駅前の歩道橋の下で彼女を見かけたのだ。

脈が速くなっていた。今日は、特にその駅に降りる必要もない。それに家に帰れば彼女が晩御飯を用意して、自分も食べずに待ってくれている。本当ならばお腹も空いているから早く帰ってご飯食べて、シャワーを浴びて寝たい。でも…

僕は、その駅に降りていた。速足で改札を出て、歩道橋下へ向かった。

するとそこに彼女はいた。

昨日同様、そこで存在感を放ち、透明な音を奏でていた。


『時計の針は進むのに

私の足は全然進めない。止まったまま。


周りの足音も軽々に聞こえるのに、

私の足はなぜか重いまま。


大人になることが正義?

個性が開花することが正義?


しっかりと自分の意志を、形をもって伝えるのが正しい?

私の意志はぐちゃぐちゃで、まとまってない。


それを整理して伝えなくちゃ伝わらないの?


あなたが何を求めているのか、私にはわからないの

でも歌いたいの。でも伝えたいの。


時計の針は進むのに

私の足は全然進めない。

止まったまま。』


その演奏を聴いている人は今日も一人もいなかった。僕は「ストーカーみたいで気持ち悪いな」と自分を恥じながら、足を止めて演奏に耳と目を傾けた。何曲かぶっ通しで演奏を続けている中、歩道橋の周りを見ると雨粒がぽつぽつと振ってきた。歩道橋の隙間から雨粒が僕の肩に落ち、小さな彼女の体にも水滴が当たる。僕は慌てたが、『アカネ』はまったく同様せずに歌を辞めない。僕と『アカネ』は二人傘をささずに、その音を共有していた。一曲終わると『アカネ』は僕に声をかけた。

「昨日も聴いてくれてましたよね。ありがとうございます」

「いえいえ……、こちらこそ」僕は変に挙動不審な裏声で答えた。

「てか、雨すごいですね…お兄さん傘あります?」

「いや、もってないです」

「そうなんですね……じゃあ」

彼女は僕に、一人分しか入らなさそうな小さい水玉模様の折り畳み傘を差しだした。

「これどうぞ!今日のお礼です」

僕は相変わらず挙動不審な感じで首を横に振った。

「だめですよ、そんなの!駅近いし、走れば大丈夫です!それに、あなたが風邪ひいたら大変です」

「私は、雨止むまで、ここにいようかなと思うので……大丈夫ですよ!」

僕はびっくりして答えた。

「いや、すぐ止むかわからないですよ?それにここじゃ完全な雨宿りにはならないし」

「明日も特に何もないし、それならばオールで演奏っていうのもありかなと。歌えば温まるし、こう見えて結構頑丈なんですよ」

「……へぇ」

「あ!嘘だと思ってる!チビだからってか弱いと思うのは間違いですよ!」

「いえ、すみません!」

「なので、大丈夫ですよ~」

 色白の彼女は、冗談でなくて、本気でそれを言っているように思えた。

「それなら僕も一緒にいます」何を言っているんだ僕は。

「え?」そりゃそうなるよ。

「あ、いや!それは違いますよね!変なこと言ってすみません」我ながら自分が気持ち悪い……。それでも彼女は、無邪気に笑いかけた。

「お兄さん、面白いですね!私は嬉しいですが、それは本当に申し訳ないです。もう終電もなくなっちゃいますよ」

腕時計を見るともう二十四時を回っていた。確かに終電がやばい。

「東京ってなかなか厳しい所ですね。全然止まって聴いてもらえないなと。でもお兄さんが二日連続足を運んでくれた。そんなこと初めてなので、本当に嬉しかったです!」

僕は彼女に疑問に思っていることを聞いた。

「そんなに厳しい環境で、どうして君は歌うの?」

彼女はなんの迷いもなく答えた。

「それは、歌うのが好きだからです!」

僕はそのキラキラした目でいう彼女に何も言い返すことができなかった。

「なので、またいつでも聴きに来てください!当分はここで毎日やってるので」

ただただ僕は首を大きく縦に振って答えた。

「はい、もちろんです!」

「お兄さん、お名前なんて言うんですか?」

「えっと……前田圭と申します」

「圭さん、ありがとう!私はアカネです。」

「アカネさん、また聴きに来ますね!」

「はい!」

そして彼女と別れて、僕は水玉の折り畳みを頭上に差して、歩き出した。

僕の背中から彼女の歌声がまた響きだしだ。

『ありがとう、ありがとう』

そのフレーズは、なんとなく僕に言ってくれているように感じた。

こちらこそ、ありがとう。僕はそっと呟いて、駅の改札を潜った。


「ただいま」

「おかえり~遅かったね、お腹すいたよ」

 彼女の明里が猫のような声を出し、ソファーでぐったりしていた。

「今日はハンバーグだよん」

「ありがとう」

 明里はソファーからピョンと飛び跳ねて、長い髪をなびかせて、台所に置いてあるサランラップがかかったハンバーグを僕に見せてきた。

「じゃーん!明里特性スペシャルソースハンバーグでーす!」

「おいしそう。早速食べよう」

僕は冷蔵庫から缶ビールを二つ取り、机の上に置いた。明里は、ハンバーグをチンして、炊飯器からご飯をよそって、手際よく机に夕飯を並べた。

明里は理想の彼女だと思う。料理も美味いし、顔も整っていて、性格も良い。彼女とは五年前に付き合った。同じ大学で、同級生だった彼女は、誰にでも親しいタイプで、嫌われる要素がまったくない。そんな彼女が自分に告白してきたのは驚いたけど、断る理由もまったくなく、喜んでお付き合いをして、今に至る。

「美味いね!さすが明里」

「でしょ~。でも最近帰り遅いよね。仕事忙しい?」

「うん、まぁね」

彼女は本当に心配そうな顔で

「無理しないでね」

と言ってきた。優しくて、非の打ちどころがない。たまに、そんな完璧な彼女がいることが、なぜか不安でたまらなくなる。

僕は、大丈夫だよと明里の心配を諭した。彼女は安心したように今日あった出来事とかを明るく話す。おしゃべり好きの明里といると、無理をしなくて済む。きっと彼女と僕は結婚するんだなと未来を予想できる。安定した職、安定した彼女、安定した未来。そしてお爺ちゃんになって、安定の幸せの中で死ぬ。きっと教科書の例文に載ってしまうような人生。それをしっかりと噛みしめて、幸せだと自覚しないといけない。

僕は幸せだ……、きっと幸せなんだ。

すると彼女がそんな僕を見て、ぼそっと呟いた。

「どうしたの?なんか悲しい顔してるよ」

僕は、はっとして、思いっきりの作り笑顔で、彼女に言った。

「え?そんなことないよ!」

「そっか!ならいいんだけど……。雨強くなってきたね」

窓の外は、雨の音が鳴り続いていた。あの子は大丈夫だろうか。家にしっかり帰っていればいいのだけど。

「ごちそうさま、シャワー浴びてくるね」

「うん!」

僕はスウェットと、タオルを持ち、ユニットバスに向かった。ちらっと時計を見ると、針は午前二時を指していた。


『時計の針は進むのに

 私の足は全然進めない。止まったまま。』


アカネの歌詞が頭を過った。

僕の手からスウェットとタオルがするっと落ちた。


「圭、どうしたの?」

僕は彼女に背中を向けたまま言った。

「会社戻らなきゃ」

「え?だってもう夜中だよ。電車も動いてな―」

「でも戻らないと!」

言葉を遮って僕は強く言った。彼女は数秒びっくりして固まったのが感じ取れたが、その後優しく言った。

「そっか。ほんとに大変なんだね、お仕事。うん!頑張ってきて!」

「……ありがと」


僕は水玉の折り畳み傘を握りしめ、家を飛び出して、タクシーに飛び乗った。

彼女がいなければ良い。彼女があそこにいなければ、僕は安心して本当の帰路につける。タクシーで十五分程度で、歩道橋近くまで到着した。


僕は、恐る恐る彼女のいた場所へ近寄った。誰もいなければ良いと思った。

だがその願いは空しく、アカネは、そこにいた。彼女は、体育座りをして、顔を膝にうずめていた。

寝ているのかな?

そっと彼女に近づいた。でも彼女は寝ていなかった。それ以上に事態は最悪だった。


泣いている。


彼女は、静かにシクシクと泣いていた。誰もいない世界に取り残されたみたいに、暗闇の中一人で泣いていた。僕は震えた声で、話しかけた。

「大丈……夫、ですか?」

アカネは顔を上げた。真っ赤に腫らした彼女の目は、びっくりしたように見開いていた。

「……なんで?」

「えっと、なんとなく…かな」

意味の分からない返しをしてしまった僕は次の言葉が見つからなかった。ただ僕は彼女の少し雨で濡れた金髪にゆっくりと触れた。アカネは、抵抗せずに、その動作を見つめていた。僕はなんとか声を振り絞って言った。

「風邪ひいちゃうよ」

彼女は、その僕の震えた声が面白かったのか、小動物のように笑った。そして静かに言った。

「私はね、こう見えて結構頑丈なんですよ」

さっきも聞いたセリフ。真夜中に泣いている少女の言葉としては、説得力がない。でも僕はその言葉を肯定した。

「ならよかった」

アカネは、そんな僕をじっと見ていた。

僕はそれ以上何も発しなかった。


そして雨粒の音だけしか聞こえないこの世界で、彼女は、僕にそっとキスをした。

その時、雨の音が鳴り止んだ。

本当に雨が止んだのか、それともあの時だけ僕の中で一瞬にして世界から音が無くなったのか、今となってはわからない。


でもあの日から、僕も、彼女も、この先の決まっていた教科書通りの未来が少しずつ予定調和から外れていった。あの深夜の雨の出来事から、きっとすべてが始まったんだ。

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