【番外編】催花雨の沈黙(side ルーカス)
春の夜は爽やかだ。
甘い花の香りが、悲しい。
雨が降っているともっと、寂しい。
あの前夜もそうだった。
手に入れられなかった、僕の初恋———。
♢
細かな雨が降っていた。
ルーカスは出窓に腰掛け、月も無い夜の雨模様を眺めていた。
糸の様に細い、雨。
ルーカスは雨が嫌いだった。
あの日の前夜も雨だった。
ただの平凡な村の子供から、生贄になった日。
ルーカスは元々生贄の子供では無い。
普通に生まれ、普通に両親の元で十三の歳まで過ごした。
元々はルーカスと言う名では無かった。
肉親が付けてくれた名はある日突然剥ぎ取られた。
ルーカスと同じ年に生まれた生贄の子供が死んだからだ。
ルーカスが生まれた年には三人男児が誕生した。
一人はルーカスで、もう一人は村長の孫。
そして残る一人は、病弱な生贄の子供。
村長の孫は、十三の歳までルーカスの親友だった。
どこに行くにも一緒で、悪さをするのも一緒だった。
勿論叱られるのも一緒。
平凡ながらも、ルーカスにとっては幸せな時代。
その一部を共に作った村長の孫。
彼の唯一好きになれない点が一つだけあった。
時々二人は大人の目を盗み、生贄の子供と会った。
一方的に村の家畜小屋を訪れて生贄の子供に菓子をやる。
ルーカスはその時の村長の孫の目が嫌いだった。
口では正義を囀り、目は侮辱を滾らせる。
ルーカスは幼い頃から村長の孫を知っている。
だからこそ、あの見下す目が好きになれなかった。
そして、十三の年に病がちな生贄の子供は死んだ。
ルーカスは代わりに生贄になった。
両親や村人は態度を変え、ルーカスを家畜同然に扱った。
ルーカスが生贄の子供になる前の両親が付けてくれた名ではもう呼んでくれなかった。
それでもルーカスは村長の孫ならば、と信じていた。
村長の孫の態度にルーカスは次第に絶望した。
今まで向けていた生贄の子供に対する侮辱の目をルーカスに向けた。
そして忌々しい生贄の子供に付けられる蔑称でルーカスを呼んだ。
もうあの懐かしい日々は戻らないのかとルーカスは希望を失った。
絶望したルーカスが十五の年———。
失意のままにヴィルヘルムが住う城へと運ばれた。
ルーカスは半ばやけになっていたが、思っていた様な辛い生贄の儀式は無かった。
代わりにルーカスはヴィルヘルムから永遠の時間を与えられ、剣の腕を磨き、騎士になった。
王からはルーカスという名を授かった。
もう思い出せない肉親が付けてくれた名よりも似合っていると思っている。
永遠に続く中で、ルーカスはもう驚く事も悲しむ事も無い充実な時をヴィルヘルムと過ごしていくと思っていた。
しかし、あの夜総てが覆る事になる。
『夜』が来た日だ。
男児の様に短い髪。
小さな身体。
大きな瞳。
随分と可愛い子が来たな。
男児と疑わないルーカスはそう思った。
しかし、夜は女児だった。
風呂に入れようと脱がして仰天した。
まだ開く前の若葉の様な瑞々しい身体つき。
蕾の様な胸のそれは、小さくともしっかり主張していた。
なだらかなカーブを描いた腰つきは妙に背徳的だった。
この五百年禁欲生活を送っていたルーカスにとっては夜の裸身で充分刺激的だった。
夜を風呂に入れる際には、幾ら言葉で否定しようとも自身を抑える事に大変苦労した。
夜に家族と言ってもらえた時は飛び上がる程嬉しかったが、落胆もした。
彼女にとってルーカスは初めから範囲外の人間だったのだ。
夜をヴィルヘルムに会わせてからは憂鬱だった。
次第に惹かれ合う二人を傍らで見る事しか出来ない。
家族の様に寄り添いながら、ただ黙って見ていた。
催花雨———。
それは春に降る雨。
蕾みが花開く様を促す様に。
見守る様に。
夜が成長し少女の殻を破る頃。
ルーカスは限界を感じていた。
ヴィルヘルムと時折王城の庭で柔らかな微笑みを浮かべている夜。
堪らなく、愛しい。
だが、その花の顔が催花雨に向く事は無い。
雨は雨として見ている事しか出来ないのだ。
ルーカスは二人を陰からそっと見守りながら、すぐ近くにある花を手折った。
顔に近づける。
芳しい花の芳香が鼻腔をくすぐる。
苦しくなる程に、胸が痛くなる香りだった。
ルーカスは沈黙という名の愛を選んだ。
♢
「ルーカス、夜に求婚しようと思っている」
ヴィルヘルムは玉座にいつもの様に腰掛け、だらし無く頬杖をついている。
しかし、その目は真剣そのものだ。
ヴィルヘルムはルーカスの本心を待っている様にも思えた。
「そうですか。ますます賑やかになりますね」
ルーカスは落胆した。
顔色に出さぬ様に気を付けた。
いつもと変わらぬ笑みを浮かべたつもりだった。
ヴィルヘルムは顎を摩る。
一つ頷くと、高らかに宣言した。
「良かろう。ルーカス、今宵そなたに決闘を申し込む」
ヴィルヘルムは立ち上がった。
ルーカスは唖然とし、ヴィルヘルムを唯々見返した。