~後日談~ ラストエピソード
アイズは夢を見ていた。
夢の中のアイズは、二十代の落ち着いた女性だった。
瑞々しい芝生に鮮やかな花壇が彩りを添える、明るい広場。アイズは──その女性は、椅子に浅く腰かけて脚を組み、テーブルの向かい側に座っている男と話をしていた。
──私は、この二人を知っている。
「貴方は生命が何なのか、まだわかっていないわ。生命っていうのは、貴方が考えるような蛋白質の集合体じゃないのよ」
「では……蛋白質の集合体と生命の違いは何なんだい? 君は生物と非生物の違いを定義できるのか?」
「難しく考えるからいけないのよ」
女性は手を上げると、筆を取るような仕草をした。
「例えば、『絵』と『絵の具の塊』がそうであるように。生物と非生物の間に明確な境界線はないわ。ただある一点を超えたとき、絵の具の塊は芸術になり、物質の塊は生命へと昇華する。私の力は、それをほんの少しだけ後押ししてあげるものなの」
──誰だっけ? すごく、よく知ってるはずなのに。
「だが……それでは科学にならない。君の力を解明できない」
男が寂しげに呟く。
「解明するんじゃなくて、感じるの。大丈夫、貴方もそのうちわかるようになるわ」
「そうだろうか?」
「そうよ」
女性は楽しげに微笑んだ。
「その時が、貴方の研究が完成するときなのかもね」
*
「こら、お嬢様! ちゃんと起きて下さい!」
アイズが目を覚ますと、ラトレイアが黒板の前に立っていた。
周囲には机と椅子が並び、ルルドやカエデ、トトが一緒に授業を受けている。
「ああ、先生……今、夢を見てたよ。何だか不思議な夢」
「はいはい、そういうことは私の授業が終わってからにして下さいね」
「うん……でもね、先生」
アイズは自分でもよくわからないまま、穏やかに微笑んでいた。
「何だかとっても懐かしい人に会えたような気がするの。それが誰なのかは、よくわからないんだけど……」
「……そのうち、その夢の意味がわかるといいですね」
ラトレイアが表情を和らげる。
アイズはにっこりと笑うと、「うん!」と頷いた。
「でもお勉強はちゃんとして下さいね! 遅れてますから!」
「うっ……はぁ~い」
/
そこは小さな部屋だった。
暖炉には火が入れられ、壁には古ぼけた絵がかけられている。
簡素なベッドには幼い少女が横たわり、そのそばには長い髪の女性が腰掛けていた。
「ママ……ごめんなさい、あたし……」
『いいんですよ。貴女はよくやりました。立派な子です』
女性が幼女の手を取る。
幼女は幸せそうに微笑むと、安らかな表情で目を閉じた。
間もなく、幼女が眠りに落ちる。
同時に部屋は消え、辺りは闇に包まれた。
『今はゆっくりとお眠りなさい。私の可愛いエンデ』
女性は──ロンドは小さく呟くと、闇の中で一人、何かを考え込んだ。
……と。
『元気ないわね、ロンド』
少女の声がした。
ロンドが振り向くと、何もない空間に一人、白いワンピースを身に纏った長い黒髪の少女が腰かけていた。
『貴女ですか……』
『エンデはしばらく動けそうにないわね。こっちもアミが動けなくなっちゃったし……この調子じゃ、計画の遅れは避けられなさそうね』
『それはありえません』
ロンドは強い口調で言い切った。
『障害はすべて排除します。そのために……カミオがいるのですから』
『……へえ……』
少女が楽しそうに目を細める。
『それじゃあ、私もスフィーダを出してあげるわ。カミオとスフィーダ……二人の新しい“代行者”に期待ね』
『そう……ですね』
ロンドは虚ろな声で呟くと、ふと少女を見つめて言った。
『……どうしてでしょう。いつも貴女の名前が思い出せない。確かに知っているはずなのに』
少女はクスリと笑うと、弾むように立ち上がって背を向けた。
『三輪って呼んでよ、水葉ちゃん。昔みたいにさ』
少女は明るい笑い声を残すと、そのまま闇に溶けて消えた。
『……ミズハ?』
ロンドがしばし考え込む。
しかし再びエンデのほうを振り向いた時、ロンドは少女から聞いた名前も、その存在すらも忘れてしまっていた。
『エンデ……私の可愛いエンデ』
『ママは必ず、世界を救ってみせますからね……』
~後日談~ ラストエピソード
───数年後。
数多の仲間を得て祖国へと戻った少女の物語が、遠く海を隔てた地にまで届くようになった頃。
フェルマータを二分する南北戦争の危機は、多くの人々に気づかぬままに回避された。
世界に一時の平穏が訪れ、数ヶ月の後。
これは、一人の青年が辿り着いた結末にして、始まりの物語。
*
フェルマータ中央部の平原地帯。
この地で長年農業を営んできた老女は、作業の手を休めて一息ついた。
作物を揺らす爽やかな風が、汗ばんだ肌を優しく撫でていく。
腰に手を添えて軽く背筋を伸ばしていると、不意に、こちらに向かって歩いてくる大きな荷物を担いだ男の姿が目に入った。
痩せた長身の青年は、老女の前に立ち止まると礼儀正しくお辞儀をし……背負った荷物の重さにバランスを崩し、盛大にこけた。
「いてててて……」
「あらあら、大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
青年が荷物の下から抜け出し、恥ずかしそうに笑う。
まるで生きていた頃の息子の姿を見ているようだ。そんなことを思いながら、老女は汚れた青年の服を力強くはたいた。
「こんな辺鄙なところに人が来るなんて珍しいわね」
「あれ、連絡がありませんでしたか? 僕は新政府の土壌改善委員会から派遣されました調査員でして……」
「あらまあ、貴方が連絡があった人なのね。朝から部屋を用意していたんですよ、どうぞどうぞ」
老女は青年の荷物の中から一番大きなものを勝手に持つと、家に向かって歩き出した。
青年が残りの荷物をまとめて抱え、慌てて後に続く。
「……いい所ですね」
辺りの景色に目を向け、青年が呟く。
老女は、そうでしょう、と微笑んだ。
「亭主と息子と、3人で切り拓いた土地なんですよ。まあ、今は一人ですけどね」
「あ……」
青年がはっとした顔をし、表情を曇らせる。
「……そうですか……」
「あらまあ、そんなに暗い顔をして。お役人さんが気にすることなんてないんですよ。もう十年以上も前のことなんですから」
「すみません……」
青年が深々と頭を下げる。
老女は苦笑し、それと共に、青年の純粋な心に触れて、久しく忘れていた何か大切な気持ちを取り戻すことができたような気分になった。
そして、まだ名前を聞いていなかったことを思い出し、青年に尋ねた。
「貴方、お名前は何て仰るの?」
青年は慌てて姿勢を正すと、明るく答えた。
「ネオ・イーリスです。ネイって呼んで下さい。どうぞよろしく」
第二章 -完-




