第26話 最後の試練
螺旋階段の回廊を投げ落とされ、グラフは吹き抜けの底に着地した。
頭上にアートの姿はなく、ただ静寂と闇ばかりが周囲を満たしている。
全身の神経を研ぎ澄まし、全方位の気配を探るグラフ。
と、
「――っ!」
間一髪伏せたグラフの頭上を、赤熱したF.I.R-Ⅱの刃が凪いだ。続いて真上から振り下ろされる刃を横に跳んで避けると同時に、アートの手中に数本の短剣が現れる。
「げっ、マズイ!」
アートの手から放たれた短剣が一寸違わずグラフに襲いかかる。
グラフはかろうじてそれらを蹴り落としたが、バランスを崩したところを風の刃に襲われて壁に叩きつけられた。
起き上がろうとしたグラフの首筋に、冷ややかな金属の感触が押しつけられる。
「グラフ」
壁際に座り込んだグラフの首筋から短剣を退けると、アートは静かに言った。
「今ならまだ間に合う。俺達の元に帰って来るんだ、グラフ。俺は……」
「俺はお前まで、ノイエのような目に遭わせたくはない」
「アート?」
「頼む、グラフ。俺を……俺達のことを、今でも仲間だと思ってくれているのなら。戻ってきてくれ」
グラフは驚いていた。アートが仲間という言葉を使ったこともさることながら、彼が自分に何かを頼んだことなど初めてだ。
目の前で揺れる紅の瞳からは、一切の雑念が感じられない。殺意も、怒りも、憎しみも、苛立ちも。ただ哀しげな光だけが揺れている。
本気だ。アートは本気で、自分が戻ってくることを願っている。
だが。
「ダメだよ、アート」
グラフは首を横に振った。
「俺はもう、お前達と共に戦うことはできないんだ」
「何故だ」
怒るでもなく、呆れるでもなく。ただ静かに、アートが尋ねる。
「あのアイズとかいう女のせいか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ一つ言えることは、俺はもう、誰かに言われるままに人殺しをしたり、物を破壊したりするのは嫌なんだ」
「だが歴史は戦いの繰り返しだ。どんなに安定した秩序を構築しても、いずれ必ず崩壊してしまう。そして一度争いが起きてしまえば、俺達のような兵士は必ず必要とされる。新たな秩序を築くために」
「確かにそうだ。でもな、アート。俺は兵士としては不完全なんだよ」
グラフは大きく息を吐き出した。
「……ずっと、お前達が羨ましかった。お前達は完璧な兵士だった。どんな任務でも迅速にやり遂げたし、そのためにはどんな努力も惜しまなかった。ところが俺ときたら、妙なものには興味を持つし、命令にもいちいち疑問を抱かずにはいられないときてる。おまけに訓練をさぼって腹話術の練習なんか始める始末だ。何度も思ったよ、俺は不良品の出来損ないで、兵士には向いてないんじゃないかって……でも、俺はそれ以外の生き方を知らなかった。
でもな、アート。俺はここに来て、やっと自分自身を肯定できる生き方を見つけたんだ。お前が兵士という生き方に命を賭けているように、俺はこの生き方にこそ命を賭けてみたい。だからもう兵士には戻らない。俺は、俺の信念を貫くよ」
「……そうか」
アートは短剣を懐に仕舞うと、距離をとって改めてF.I.R-Ⅱを構えた。グラフも立ち上がり、先程アートが投げ、自身が蹴り落とした短剣の一本を拾って身構える。
「お前と本気で戦うのは初めてだな、グラフ」
「ああ……そうだな」
第26話 最後の試練
「──フジノ──ツキクサ──」
ノイエは抑揚のない声で呟くと、ノイバウンテンに変形していた右腕を下ろした。崩れた天井から差し込む陽光に照らされて、その顔が露になる。
そこには、何の感情も読み取ることのできない無表情が張りついていた。
「ノイエ……」
フジノが苦しげに顔をしかめる。
「何があったの、フジノ」
「私にもわからない。ただ一つ確かなことは、今のノイエは自分の意思では動いていないっていうこと。何とかしてノイエのコントロールを解かないと」
「でも、通信機は壊したんじゃないの?」
人伝に聞いた話を思い出し、アイズが尋ねる。
「ええ、それは間違いないわ。何か別の方法で意識を奪われてるんだと思う」
……と。
ノイエが身構え、床を蹴って駆け出した。
「アイズ、先に行きなさい!」
光の翼を力強く羽ばたかせ、フジノは叫んだ。
「ノイエは私が止める! 貴女はトトを……なっ!?」
フジノが驚いて顔を上げた先、アイズの頭上をも跳び越えて、遥かな距離を跳躍したノイエが扉の前に着地する。
「しまった、トトを!」
振り返る二人の目の前で、木製の扉が開かれる。
途端、扉の隙間から強い光が漏れ出した。
大きくなって ボクは気がついたんだ
この世の中にはお姫様もドラゴンもいなくて
ボクも王子様にはなれないってことに
そこには“社会”とか“経済”とかいうものがあって
おとぎばなしの世界は 何処にもないってことに
華奢な腕を前方に伸ばし、トトが歌詞を切なく歌い上げる。
でもボクは まだおとぎばなしを信じてるんだ
「プライス・ドールズNo.24『トト』──捕獲する」
部屋の最奥にトトの姿を確認し、ノイエが走り出す。
途端、足元から鋭い槍穂が突き出し、ノイエは後方に跳躍して逃れた。ノイエに続いて部屋に飛び込んできたアイズとフジノが慌てて立ち止まる。
『冒険者達よ、よくぞここまでたどり着いた。その努力と信念、誉めてやろう!』
朗々と響き渡る男の声が部屋中に木霊した。同時に、鳥籠に入れられたトトの目前に全身黒尽くめの男が出現する。
「あんたがこの島の主。すべてを裏で操ってた奴ね!」
アイズが叫ぶと、男はまるでゲームに登場する魔王のようにバサッとマントを広げた。
『すべては試練だ。そなたらの心を試すためのな!』
「──妨害者の存在を確認──」
ノイエが右腕をノイバウンテンに変形させる。
「排除する」
白い閃光が男に向けて発射された。
男が木の杖を振りかざし、迫り来るノイバウンテンを一振りで弾き飛ばす。
閃光が呆気なく飛散し、無数の流星となってノイエに降り注ぐ。
ノイエが、そのすぐ近くにいたフジノとアイズが慌てて避ける。
男はニッと笑うと、杖を掲げて高らかに宣言した。
『さぁ、パーティーの始まりだ!』
男の身体が巨大化し、やがて大きな翼を持つ黒竜となる。
ノイエは再び右腕を掲げると、ノイバウンテンを発射した。
/
「うーん、盛り上がってきたわねー」
黒竜の幻と戦っているノイエを眺めながら、玉響はトトの方を振り向いた。
「さて、もう少しでお迎えが来るわ。貴女はそろそろ戻ったほうがいいわよ」
『そうですね。ところで、貴女はどうするのですか?』
「あたし? あたしは貴方とは違って単なる道化、この世界の観察者よ。ま、もうちょいこの世界のことを見届けさせてもらうわ」
『そうですか』
もう一人のトトは、カモフラージュシステムの操作を続けているイマーニの方に視線を向けると、申し訳なさそうに呟いた。
『イマーニのこと、よろしくお願いしますね。随分と無理をさせてしまいましたから』
「ええ、わかってるわ……それじゃあね」
「……あ、あれ? 私、一体どうしたんだろう。確かイマーニちゃんに捕まって……あれ?」
「よし、こんなもんかな?」
元に戻ってオロオロし始めたトトを見ながら、玉響は笑った。
「やっぱりお姫様はちょっとボケてるくらいじゃなきゃね」
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ノイエと黒竜の戦いは続いていた。
ノイバウンテンを撃ち込み、直接攻撃を仕掛け、休む暇なく攻め続けるノイエ。しかしノイバウンテンはことごとく跳ね返され、直接攻撃もまるで功を奏さない。
「アイズ、今のうちよ! 今のノイエは障害を排除することしか頭にない!」
「あ、待ってフジノ!」
二人はノイエが戦っている隙に黒竜の脇をすり抜けようとしたが、いきなり翼が大きく開かれ二人を弾き飛ばした。
「ちっ……このっ!」
飛ばされながらフジノが魔法弾を放つ。
しかし魔法弾は黒竜の体内に呑み込まれ、続いて黒竜の開いた口から魔法弾が発射された。慌ててアイズを庇い、魔力障壁でガードするフジノ。
「くそっ、だったら全身丸ごと消し飛ばして……!」
「待ってフジノ! 攻撃はまずいわ!」
アイズは慌ててフジノを抱き止めた。
「あの竜、さっきから自分が受けた攻撃をそのまま相手に跳ね返してる。このまま戦い続けても建物が壊れるだけよ!」
/
振り下ろされたF.I.R-Ⅱを紙一重で避け、グラフはアートの懐に飛び込んだ。
短剣が腹部をえぐる直前、アートが上体を反らして蹴りを放つ。その蹴りを脚で防ぎ、空中に弾き飛ばされながらグラフが短剣を投げる。
アートは左腕を犠牲にして短剣を止めると、グラフの着地点に向けて風の刃を放った。ザンッ、という音が響き、グラフの緑の髪が散る。
アートは左腕に刺さった短剣を抜いた。
「強い。これが本気になったグラフの力か」
油断なくF.I.R―Ⅱを構えるアート。その緊張感に満ちた顔にわずかな笑みが浮かぶ。
「……いや、あいつの信念の力か。余程信じられるものを見つけたようだな。いい眼をしている」
「流石に強いわ、アートの奴」
グラフは中途半端に斬られた前髪を掻き上げ、額の汗を拭った。
「左腕一本で装備は短剣のみ、おまけに機体に相当ガタがきてる。まったく我ながらよくやってるよ。そろそろ限界かな……やれやれ」
グラフはニッと笑った。
「こんなことならキスぐらいせがんどくんだったな」
/
「フジノ、私に任せて」
アイズはフジノの陰から出ると、黒竜に向かって歩き始めた。フジノは固唾を飲んで見守り、ノイエもまたノイバウンテンを撃ち過ぎたのか、動かずにじっとしている。
「この島での出来事はすべて幻。心の闇が、そのまま自分自身に襲いかかってくる。本当に立ち向かうべき相手は、自分の心」
呟きながら、アイズは黒竜の前に立った。予想通り、黒竜は襲ってこない。しかし、このままでは突破もできない。
と、黒竜が首をもたげ、アイズに顔を近づけた。透き通った黒い瞳が、心の奥底まで見透かすかのようにアイズの瞳を覗き込む。
「……あんたなんか、怖くないんだから」
意を決して、アイズは黒竜の額に手を伸ばす。
途端、黒竜の身体がドロリと溶けて漆黒の液体となり、アイズの全身を飲み込んだ。
/
そこは何処かの寝室だった。
家具や調度品の色合いから、女の子の部屋であることが窺い知れる。そしてそれを示すかのように、ベッドの上で10歳くらいの女の子が泣いていた。
「どうしたんですか? お嬢様」
ベッドの脇に腰掛けた十代半ばの少女が、落ち着いた声で尋ねる。女の子はあふれる涙を拭おうともせずに、少女の手を取って握り締めた。
「先生、わたし怖いの……」
「何がですか?」
「眠ろうとすると夢を見るの……夢の中で怖い怪物が襲ってくるの。だからわたし、眠れないの」
「そうですか。それは大変ですね……でも大丈夫ですよ、お嬢様」
先生と呼ばれた少女は女の子の手を取ると、包み込むようにもう片方の手を重ねた。
「そんな怪物、怖がらなくてもいいんです。それはね、ただの想像。お嬢様の『怖い』っていう気持ちそのものなんですよ。だって、その怪物達は何もできないでしょう? お嬢様に怪我をさせたり、食べちゃったりしないでしょう?」
「うん……でも、怖い……」
女の子がクスンと鼻を鳴らす。
少女は少し困った顔をしていたが、やがていいことを思いついたのか、明るく言った。
「そうだ。お嬢様、こうしてみたらどうですか? 何かお話を考えるんです。楽しくて嬉しくって、ドキドキワクワクするようなお話をね」
「おはなし……?」
「ええ。そうしたら怖い怪物なんて何処かに行っちゃいますよ。例えば……そうですね。お嬢様が大冒険するお話なんていいですね」
「あたし、そんなことできないよ」
女の子が再びクスンと鼻を鳴らす。
少女は女の子の髪を優しく撫でると、あやすように言った。
「お話ですから、本当にできることじゃなくてもいいんですよ。それに、先生はお嬢様だったらできると思うな」
「そう、かなぁ……」
女の子は布団を目の下までかぶると、おずおずと尋ねた。
「じゃあ、もしわたしが冒険するときが来たら、先生も一緒について来てくれる?」
「ええ、必ず。その時は誘って下さいね」
少女は優しく微笑むと、明かりを消して立ち上がった。
「おやすみなさい、アイズお嬢様」
言い残し、扉が静かに閉められる。
女の子は──幼き日のアイズは素直に目を閉じると、呪文のように呟いた。
「あんた達なんか、怖くないんだから……」
/
暗闇の中、アイズは再び目を開いた。
今度は何もない。過去の光景も、フジノやノイエの姿も。
ただ暗闇ばかりが広がっている──と思ったとき、突然何処からか現れた怪物がアイズに襲いかかった。
が、その怪物の牙はアイズの身体を擦り抜け、爪は衣服にもひっかからない。
「……ほら、痛くも痒くもない」
呟き、アイズは一歩一歩、ゆっくりと歩き始めた。
何度も何度も、様々な怪物が現れては襲いかかってくるが、アイズに傷一つつけることはできず。
やがて、アイズの前に一つの人影が現れた。
「貴女ね……私が本当に怖がっているのは……」
それは髪の長い、アイズとよく似た少女だった。
実際には真っ黒なので、顔も何も見えないのだが……何故だろう、自分と同じ姿をしていることが手に取るようにわかる。
『私は“リング”──貴女自身よ』
少女の伸ばした手がアイズの首に触れた。今度は確かな感触がある。
『私は人形。だから貴女も人形なの。そう、貴女は人間じゃないのよ』
徐々に力が込められ、少女の両手がアイズの首を締めつける。
しかしアイズは抵抗せず、“リング”を見つめて静かに言った。
「そう、貴女は私。だから私は、貴女を受け入れるわ」
途端、少女の手がアイズの体内に吸い込まれた。
アイスが手を伸ばし、少女の身体を抱き締める。
二人のシルエットは、やがて境界をなくして一つになり──。
/
「白のポーン、最終試練突破。これよりクィーン“生命”となることを認めます」
玉響の声がチェス盤の部屋に響き渡った。
先週は更新できずに申し訳ありません。
10月にある国家試験を受験する都合上、次回更新は10月20日となります。
誠に勝手ではございますが、ご了承いただけましたら幸いです。