第4話 『分解』のカルル
2009/10/3
挿絵を掲載しました
静寂に包まれていた会場内に、ピアノの美しい旋律が響き渡った。
そこに一つの歌声が重なり、複雑で繊細なハーモニーを紡ぎ出してゆく。
ホールに集まった観客は皆、可憐な歌姫の歌声に聴き惚れた。
一人の少女……トトの歌声に。
曲調が一転してアップテンポの曲になった。
トトが舞台の上でクルリと回転し、頭の上で手拍子を打つ。
途端、それまで無言で聴き入っていた観客が沸き上がった。まるでトトの指先でスイッチが切り替わったかのように。
彼女の歌声が天を舞い、地を駆け巡る。
その度に、ホールの中には割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
「ありがとうございます、皆さん……では次の曲です」
興奮に軽く上気した顔で、トトは言った。
「相変わらず、トト君の歌は素晴らしいですな」
「……そうね」
コントロール室で会場の様子を眺めながら、アイズは頷いた。
すぐ隣ではコトブキが照明や音量を調節している。隅のほうではグッドマンが酒を飲んでおり、支店長とネーナは舞台袖だ。
そしてトトは……ステージの上で数百人の観客の視線を浴びながら、堂々と、楽しげに歌っている。
「トト、輝いてるなあ」
アイズは少し複雑な気持ちで呟いた。
ここで話は少し遡る。
第4話 『分解』のカルル
4日前。
「すごいね~、このホテル」
広々とした浴槽に浸かりながら、アイズは言った。
トゥリ-トップホテル・ヴァギア支店は、大樹の内部をくり抜いて造られた正真正銘『総天然素材』のホテルだ。そしてアイズ達にあてがわれた部屋は、最高級のスィートルーム……この大きな浴室がついている部屋だった。
浴室の大きな窓からは、何百、何千もの木々の葉が風にそよいでいるのが見える。
つい先程まで浮浪者同然の姿でいたことが夢のようだ。
「国にいた時、ここのことを聞いたことがあるよ。超一流のホテルだって。トトのお姉さんって、こんな所に務めてたんだね」
「そうですね……」
トトが気のない口調で答える。
「……さっき言われたこと、考えてるの?」
少しムッとしながら、アイズは尋ねた。
ことの起こりは昼間、ネーナとグッドマンに出会ってから間もなくのこと。
「歌を、歌ってくれませんか?」
案内されるままに通された部屋で二人を待っていたのは、支店長からトトへのディナーショー出演依頼だった。
「私からもお願いするわ。今ちょっと大変なことになってるのよ」
「大変なこと?」
「ええ、土壇場でライバルホテルにゲストを引き抜かれちゃってね。一応別のゲストの手配はしたんだけど、どうしても間に合わせ程度の人達しか空きがなくって……」
ネーナが困った顔で言う。
トトは少し考えていたが、すぐににっこりと微笑み、言ったのだった。
「そういうことでしたら……はい、是非歌わせて下さい」
「はっきり言って私は反対よ。そりゃあ、私だってトトの歌は好きだし、それを沢山の人に聴いてもらうのはいいことだと思うわ。でも、トトは追われてるんだよ? それも……」
トトを追っているのが自分の国であることを思い出し、アイズは口籠った。
「とにかく、私はホテルのショーに出るのには反対だからね」
「……私、アイズさんには本当に感謝してます」
浴槽の湯を手のひらにすくい、トトが呟く。
「でもこれだけは譲れません。『歌』はお父様が私に与えてくださった力なのですから……私はお父様の娘として、自分の生き方を貫きます」
「与えられた力ってさあ、それって勝手に押しつけられたものじゃないの? そんなものに律儀に従うことはないよ」
「そんなことはありません」
トトは強い口調で答えた。
「この力は……私達に与えられた力は、それぞれが人と共に生きてゆくための手助けとしてお父様が贈ってくれたものです。お父様は言いました。自らの力を活かし誰かのためになることをせよ、それが自らの道をも照らし出すことになるのだから、と……私はお父様の言葉を信じます」
「そんなものかな?」
「そうですよ。親が子供に何かを与えるのは当然のことじゃないですか。私達の場合は、それが少し他の人達と違っているだけですよ」
「そんなに親のことが信じられるなんて、うらやましいわ」
アイズは小さく呟いた。
トトがディナーショーに出演するようになって以来、ホテルの集客数は日を追うごとに増していった。
それはトトの実力の証でもあったし、初日の料金を無料にして誰でも入れるようにしたり、スピーカーを使ってトトの歌をホテルの外にまで流すという支店長の経営戦術が功を奏した結果でもあった。
そして今。
4日目を迎えたトトのコンサートは、クライマックスを迎えつつあった。
「もしかしたら私、トトに嫉妬してるのかもしれない」
「嫉妬……ですか?」
アイズの呟きを耳に止めて、コトブキが振り向いた。
「ああ、そりゃ仕方ないな。うちの妹の方が可愛いもんな」
グッドマンの言葉を無視して、アイズは言った。
「出会ってから少ししか経ってないけど、私、トトのことを可愛いだけの弱い子だと思ってた。でも、本当はあの子のほうがずっと多くの物を持ってたんだよね。自分の存在を示すことのできる能力ってやつを……」
「それに優しい兄弟も揃ってるぜ?」
「……そうね……」
「おいおい、しょぼくれた声を出すなよ。お前らしくもない」
自分で茶化しておいて、少し慌てた様子でグッドマンがフォローを入れる。
「才能や能力は人から与えられるものではありませんよ」
コトブキが言った。
「それらは自らの手で見つけ出し、育んでゆくものです。ただ、それは自分一人の力だけでできることでもない。誰かの協力が必要です。親や兄弟……そして友人などのね」
「…………」
黙ってしまったアイズを見て、コトブキは微笑んだ。
「大丈夫、友人の実力を認められるならば自分の力にも気づくことができますよ。貴女にもきっと何かがある。今は眠っている才能がね」
「私の才能……どんな才能なのかな」
「サバイバルの才能じゃねえか? どんな所でも生きていけそうだぜ、お前」
「……それ、ありそうで嫌だ」
懲りずに茶化すグッドマンの言葉に、少し嫌そうな顔をするアイズ。
「昔、貴女によく似た人に会ったことがありますよ。とても才能に溢れた……素晴らしい人でした」
コトブキの苦笑混じりの言葉に、アイズは膨れっ面で呟いた。
「私はそんな人とは違うよ」
やがてディナーショーはクライマックスを迎え、割れるような拍手と共にステージが終わった。
舞台袖から出てきた支店長とネーナが、ホテルを代表してトトに花束を渡している。
アイズは汗だくになりながらも嬉しそうに微笑んでいるトトをじっと見つめていたが、ふとあることに気がついた。
数人の人影が、客席の隙間をすり抜けてステージに近づいていく。
それらの人影は、皆一様に白いマントを身にまとっていた。
「……あいつらだ」
暗闇の中、幼い少女が両手をコントロールパネルの上にかざす。
「どんな歌にも終わりは訪れるもの……」
クスクスと笑う幼女の指先が、ぼうっと白い光に包まれる。
「このステージにアンコールはいらないわ」
途端、幼女の背後に聳える巨大なコンピューターが動き出した。
終わることのないアンコールに応じて、トトは再び舞台の中央に立った。
割れんばかりの歓声が響き、トトが手を振る。
そしてバンドが演奏を始めようとした時、トトの胸に付けられた連絡用の小型通信機からアイズの声が響いた。
『トト! そこから逃げて!』
瞬間。
白いマントの男達が、舞台のトトに向かって襲い掛かった。
「ええい、間に合え!」
アイズは咄嗟にコントロール室のパネルを操作した。
舞台の上に取りつけられていたライトが落下し、一人の男を押し潰す。
それに他の者が気を取られた隙に、舞台袖にいた支店長とネーナがトトを連れて逃げ出した。
そして、アイズもコントロール室を飛び出していた。
「やるなぁ、あいつ」
グッドマンが感心の口笛を吹く。
「呑気にしている場合ではないだろう」
コトブキが呆れたように言った。
「早く行ってやりたまえ。それが君の仕事だろう?」
「言われなくても……」
酒瓶を宅の上に置き、グッドマンは立ち上がった。
「わかってるさ」
トトを連れて舞台から降りようとした支店長とネーナは、白いマントの女に行く手を遮られていた。
「歌姫を頂きましょうか? ホテルマンさん」
女が無感情な声で言う。
支店長は周囲を見回した。このような事態を想定して雇った大勢の優秀な警備員が、マントの男達と戦っている。しかし、まるで歯が立っていない。
「いい部下を持っているみたいね」
支店長の心理を看破して、女は薄く微笑み、右手を突き出した。
その右手がぼんやりと光る。
と、その時。
「どいてどいて~っ!」
何故かロープに掴まったアイズが落ちてきて、女にぶつかった。
コントロールルームは会場全体を見下ろせる高い位置にあった。
普通は下に降りるには階段を使うのだが、急いでいたアイズは窓の外に垂れ下がっていたロープで滑り降りようとした。
……が、実はそれは天井に仮止めしてあっただけで、ロープの端はステージの真上の枝に括りつけられていた。
アイズの体重がかかった途端、仮止めの金具が外れてしまったのだ。
そしてアイズは空中ブランコに乗ったように、ステージ中央に運ばれることになってしまった。
「いたたたた……」
「アイズさん! 大丈夫ですか!?」
「あー、大丈夫大丈夫。私身体だけは丈夫だから」
慌てて駆け寄ってきたトトに笑って応えると、トトは涙ぐんで飛びついてきた。
「ごめんなさい……ごめんなさい! 私、周りの人に迷惑が掛かるってこと何も考えてなかったんです! 私が歌ったらこうなることくらい、わかってたはずなのに、私……!」
「トトが悪いんじゃないよ。トトは自分にできることを精一杯やっただけでしょ? 悪いのはあいつらよ」
アイズはマントの女の方を睨みつけた。
マントの女はたいしてダメージを負った様子もなく、立ち上がった。
「よくも邪魔をしてくれたわね……貴女は誰なのかしら?」
「答える必要なんてないわ。そっちこそ何者なのよ」
アイズが気丈に訊き返す。
と、
「おおよそのことはわかっているわ」
ネーナが進み出た。
「ハイムの手の者でしょう? リードランスの次は、このフェルマータをも狙っているということかしら」
「半分正解ってところね。でも今日の目的はその子だけ……ネーナ、貴女にしては不正確で感情的な分析ね」
相変わらず無感情な声で女が言う。
だが『ネーナ』と呼ばれた瞬間、ネーナは不思議な感覚に襲われた。この声……何処かで聞いたことがある。
いつ? 何処で……? とてもよく知っている声のような気がするのに、どうしても思い出せない。
「……貴女……誰?」
その時。
空を切り裂く音が響き、マントの男達が吹き飛んだ。
「何だ!?」
マントの女が驚いて周囲を見回す。
瞬間、空を切る音と共に『何か』がマントの女と交錯し、今度は彼女が舞台の端に叩きつけられた。
「な、何!?」
「もう、来るのが遅いわよ!」
驚くアイズを尻目に、ネーナが不機嫌な声を上げる。
「どうせまた正義の味方気取りでかっこいい登場シーンを狙ってたんでしょう!」
「ひでーや姉ちゃん、今から決め台詞を言おうとしたのによ~!」
情けない声と共にステージに舞い降りたのは……。
「グッドマン!」
「おう、待たせたなトト、アイズ! 後は俺に任せな!」
待ってましたとばかりに格好をつけて、グッドマンが気障ったらしい台詞を吐く。
しかし、アイズはそんな言葉を聞いてはいなかった。
「まだ終わってないわ!」
アイズが叫んだと同時に、再び立ち上がった女の右手がステージの床に触れる。
瞬間、幼い少女のような笑い声が辺りに響いたかと思うと、ステージが一瞬にして崩壊した。
「あっちゃ~、ステージが滅茶苦茶だ」
完全に陥没し、もうもうと立ち昇る木屑によって覆われたステージを空中から見下ろして、グッドマンが言った。
グッドマンの周囲には、中途半端な姿勢で浮遊するアイズ達の姿があった。舞台が崩れた瞬間、グッドマンがその場にいた全員を『能力』で連れて空中に避難したのだ。
「ああ、何ヶ月もかけて彫り抜いた舞台が……」
支店長が青い顔でうめき、
「あんなに大きな舞台を一瞬で破壊するなんて、何て力……」
「あの人……私達を追って来たんです。とても嫌な感じがする」
アイズとトトが顔を見合わせる。
「グッドマン、早くトト達を安全な場所に誘導して!」
舞台を見つめていたネーナは、鋭い声でグッドマンに言った。
「なんだよ姉ちゃん、そんな深刻な声を出して……言われなくても今から」
「グズグズしないで! いいから早く脱出するのよ、私の分析が間違っていなければ、これは……!」
瞬間、煙を突き破ってマントの女が五人に襲い掛かった。
グッドマンが速度を上げ、女の攻撃を避けてホールから飛び出る。
しかし余りに速度を上げると、ネーナやトトはともかく普通の人間である支店長やアイズに過剰の負担がかかる。
そのことに気づいたグッドマンの一瞬のためらいが、続く女の攻撃を避ける余裕を彼から奪った。
女のぼんやりと輝く右手がグッドマンに襲い掛かる。
アイズがもうダメかと思った瞬間、何かの塊が女を弾き飛ばした。
その隙にグッドマンはアイズ達を着地させ、女を追って再度飛翔した。
「助かりましたよ、コトブキさん」
支店長は言った。
そこには水圧消化器のホースを抱えたコトブキが立っていた。
この辺りで最も恐いのは火災だ。実際には木が水分を含んでいるので火災は起こりにくいのだが、乾燥期には危険も増す。そこでホテルに常備されているのがこの消化器……大型消防車級の圧力で水の塊を噴出できる装置なのだ。
「ご無事で何よりです、支店長。他のお客様の避難に少し手間取り駆けつけるのが遅れてしまい、申し訳ありません」
「とんでもない。助かりましたよコトブキさん、よくやってくれました」
コトブキは軽く一礼すると、消火器を床に置いて言った。
「アイズさん、トトさん。脱出用の車を用意しました。こちらへ」
グッドマンはいつになく静かに立っていた。
前方には長いマントを翻しながら女が立っている。未だにフードに覆われているので顔は見えないが、相変わらずほっそりとした右手だけはマントから突き出ている。
相手の攻撃方法は右手による直接攻撃だ。破壊力は凄まじいが、攻撃パターンは単調……勝機は充分にある。
だが。
「右手による破壊能力……か」
グッドマンはこれとよく似た力を知っていた。
とても、よく知っている力だ。
と、
「貴方と戦う気はないわ、グッドマン……」
「何?」
瞬間、マントの女が床を蹴った。
襲い来る右手をかわし、グッドマンが上空に逃れる。
すると女はグッドマンには構わず、そのままアイズ達のいる方向に向かって走り出した。
「しまった!」
駐車場にアイズ達の姿を見つけ、マントの女がニッと微笑む。
次の瞬間、グッドマンが背後から追い越し、女の正面に降り立った。マントの女が右手を振り上げる。
危険な輝きに包まれた右手が身体に触れる直前、グッドマンは自らの飛行能力――周囲の空間を歪める力――を全力全開で発動させた。
まるで竜巻に巻き込まれた布切れのように、突っ込んできた女が回転し、弾き飛ばされる。
「とどめだ!」
グッドマンは膝をついた女に向かって飛翔した。女は右手を地面についている。あの右手が地面を離れる前に蹴りを放てばこちらの勝ちだ。
だが、グッドマンは見てしまった。
立ち上がりかけた女の顔からフードが外れるのを……そして、その素顔を。
グッドマンの表情に、信じられないものを見た恐怖が浮かび上がった。
「この道をまっすぐに行けば森林地帯の裏側へと抜けられます。途中まで同行いたしますので、詳しいことは車の中で」
コトブキの言葉にアイズは頷いた。
「わかったわ。……本当にありがとう、コトブキさん。このホテルの人は皆いい人ね」
「伊達に一流と呼ばれている訳ではありませんからね」
支店長がにっこりと笑う。
その時、ネーナの叫び声が上がった。
振り返ると、そこにはグッドマンの姿があった。
右脚から腰にかけて、機械組織で構成された身体をバラバラに砕かれたグッドマンの姿が。
彼の前には、白いマントの女が立っている。
フードの奥に隠れていたのは、長く艶やかな黒髪……そして左半分が無惨に焼け爛れた、恐ろしくも美しい女性の素顔。
ネーナが引き攣った悲鳴を上げた。
「カ……カルル姉様!?」