第24話 心の迷宮
2009/10/4
挿絵を掲載しました
そこはありふれた平和な町だった。
丘の上の学校で、授業終了のチャイムが鳴る。
「起立、礼!」
学級委員の号令と共に、教室にいつものざわめきが戻り……職員室に戻ろうとした数学教師は、
「せーんせっ!」
女子生徒に呼び止められて振り返った。
「はい? 何ですか」
「さっきの問題なんですけど、ここのところがわかんなくって……教えて下さいっ!」
「どれどれ……ああ、これはちょっと時間がかかりますね。申し訳ないですけど、今日は用事があって、早めに帰らなければならないんですよ」
「ええーっ? そんなぁー」
「うーん、困りましたね……そうだ、もしよろしければ、明日の土曜日に私の家に来て下さい。お茶とお菓子くらいならお出ししますよ」
「ええっ!? いいんですかぁ!?」
「なになに、どうしたのー?」
「先生が家に来てもいいってー!」
「うっそー! あたしも行く行くー!」
いつの間にか集まってきた女子生徒達が、瞳を輝かせて声を揃える。
『私達も、行っていいですよね!? クラウン先生!』
「あ、あははは……はい……」
数学教師……スケア・クラウンは、困り果てた顔で笑った。
第24話 心の迷宮
静かな住宅街の一角。
少し大きく綺麗な家の中で、美しい婦人が可愛らしい少女と話をしていた。
「そう。ご両親がそんなことを……」
「あたし……あたし言い返せなくて、悔しくて……言うことを聞かないなら出て行けって……!」
少女はボロボロと涙をこぼしている。
「ご両親の心配は当然のことよ。貴女もそれがわかっているから言い返せなかったんでしょう? わかるわ。私も同じようなことがあったしね……でも、逃げてるだけじゃ解決しないわ。このお仕事、好きなんでしょう?」
婦人は優しく少女の肩を抱き、力強く言った。少女がこくりと頷く。
「それなら、堂々と顔を上げていなさい。……ここを訪ねてみて。私も昔お世話になった所だから、私の紹介でモデルをしてるって言えば、部屋の一つや二つは貸してくれるわ。少し休んで落ち着いたら、ちゃんと家に帰るのよ」
「はい……ありがとうございます、カシミール先輩」
「こら」
深々とお辞儀をする少女の頭を、婦人……カシミールは軽く小突いた。
「今は『クラウンさん』よ」
玄関まで少女を見送るカシミール。
リビングに戻ると、
「帰ったよ、カシミール」
入れ替わるように夫が帰宅した。
「おかえりなさい、スケア」
スケアはカシミールの身仕度の様子を眺めていた。
「早いものだね。もう10年になるのか」
「そうね。あの子も、もう9歳になるわ」
カシミールはイヤリングをつけながら言った。
「それでも君は、変わらず美しい。いや、ますます綺麗になっていく」
スケアはカシミールを後からそっと抱き締め、首筋に口づけた。カシミールがくすぐったそうに笑って文句を言う。と、
「あーっ、またやらしいことしてるーっ」
小さな女の子が駆け込んできた。
「早く行こうよーっ、今日は3人でお出かけするんでしょーっ」
スケアとカシミールは微笑み合った。
「はいはい、わかりましたよ」
「じゃあ、そろそろ行こうか。おいで、ルルド」
スケアとカシミールは手を取り合い、娘……ルルドに続いて部屋を出た。
「なーるほど。これがあの3人の夢ってわけね」
スケア達が暮らす家から少し離れた場所に立つ、時計塔の上。
アイズは屋根に腰掛け、オペラグラスを覗いていた。膝の上には一匹の猫がおり、隣には黒いマントと仮面を身につけた一人の男が立っている。アイズもプラントに譲られた黒いマントとマスクをつけた姿のため、二人の格好はとてもよく似ていた。
「どうする? このまましばらく観察する?」
アイズは仮面の男にオペラグラスを向けて尋ねたが、反応がないので空を見上げた。
「それにしても、あのゼロの中がこんなふうになってるなんてね」
「ここは……心の迷宮だ」
仮面の男が呟いた。
レストランで食事をしながら、スケアは口を開いた。
「何だか、改めてこんなことを言うと恥ずかしいが……この10年は本当に楽しかった。ありがとう、カシミール」
「もう。いいじゃない、そんなこと……」
カシミールが照れて頬を赤く染める。
スケアは穏やかに微笑んでいたが、ふと真面目な表情になった。
「昔、誰かに聞かれたことがあるんだ。君は“生きる”ということがどういうことか、考えたことはあるか……ってね。昔の私は、ただ自分の欲望のためだけに突っ走っていた。だけど、カシミールと出会い、ルルドが生まれて……私は、やっと何のために生きればいいのかがわかったような気がする。決して派手じゃないけれど、自分のすぐ隣にいる人達を守って、一日一日を精一杯……誰かのために、勿論自分のためにも……前を見て、少しずつ進んでいく……私は」
スケアは言葉を切り、優しい微笑みを浮かべた。
「私は、そういうことが“生きる”ということだと思う」
そこまで言って、スケアは我に返ったように、頭を掻きながら照れ臭そうに言った。
「えっと……誰に聞かれたんだったかな?」
「私も……何処かで、その人に会ったことがあるような気がするわ」
カシミールが呟く。
ルルドは、そろそろ年かな、などと他愛もない会話を交す二人を眺めていたが、不意に何かに気づいて顔を上げた。
「……誰?」
瞬間、世界が裂けた。
まるで紙に書かれた絵が握り潰されたかのように、空が、町がクシャクシャになり、唐突に暗闇と入れ替わる。3人の椅子とテーブルだけが取り残され、スポットライトを浴びるように明るく照らし出された。
「な、なんだ? これは一体……」
スケアが驚いて立ち上がる。
ルルドは鋭い目つきで辺りを見回していたが、突然その手を誰かがつかんだ。
「やっと見つけたわ、ルルド」
そこにはフジノが立っていた。精神世界であるためか、右腕も元通りになっている。
「オヤオヤオヤオヤ人の親……なーんてね」
アイズは膝に猫を乗せたまま、空中のブランコに乗ってオペラグラスを覗いていた。
「でもね、フジノさん。親だからって、子供よりも“大人”だとは限らないのよ」
膝の上の猫が、ニャーン、と鳴く。
「ね、貴方もそう思わない?」
アイズは仮面の男に尋ねたが、振り向いたそこに男の姿はなかった。
「あれ、いないのか。暗いからわかんなかったわ……まったく、親ってのも大変よね」
「さぁルルド、一緒に帰りましょう」
フジノはルルドの手を引いた。
「何をするんですか!」
「ルルドを離して!」
スケアとカシミールが引き止めようとし、フジノに突き飛ばされる。
「いい加減に目を覚ませ! ルルドは私の娘よ!」
「パパ、ママ!」
ルルドは叫び、キッとフジノを睨んで言った。
「目を覚ませ? それが一番必要なのは貴女じゃないの?」
ルルドの紫の瞳が妖しく光る。途端、フジノの身体が縮み始めた。逆に、ルルドの身体が成長していく。
「な……!?」
フジノは驚いて手を離すが、その手をルルドが逆につかまえた。
「いいじゃない。元々貴女は何も成長してないんだから……そう、その頃から少しも」
二人は14歳くらいの同じ年頃の姿になった。とてもよく似ている……違うのは髪と瞳の色くらいだ。
「アハハハハッ……!」
ルルドは楽しげに笑いながら、フジノの手を取ってクルクルと踊り始めた。スポットライトが二人を追う。
「昔の人が言う通り、何事も教訓よね。あたしは貴女のようにはならない……あたしはこれからもっと成長するの。素敵な恋愛をして、素敵な結婚をする。そして素敵な家庭を築くの。私は幸せを手に入れるわ……貴女のようにはならない!」
再び二人の年が離れ始めた。ルルドはますます成長し、フジノは無理やり踊らされながら、どんどん小さくなっていく。その顔は恐怖に怯えていた。
「や、やめて……やめて……! あの頃に戻さないで……!」
「ハハハハハ……!」
対照的に楽しそうなルルド。
ついに二人の年は完全に入れ替わった。ルルドは淡い紫のドレスを纏った20代前半の美しい女性になり、フジノは9歳くらいの女の子になった。ボロボロの衣服から突き出た痩せ細った腕には、大きく赤い字で『F』と書かれている。
「バイバイ、フジノちゃん……今度こそ、いい子でいるんですよ」
ルルドは手を離し、静かに踊り終えた。
フジノはよたつきながら後退り、少し離れたところで尻餅をついた。何処からともなく落ちてきた鳥かごがフジノを閉じ込め、そのまま地中に沈んでいく。
「……消えてなくなっちゃえ」
ルルドの声と共に、鳥かごはフジノごと完全に沈み、地面に開いた穴は音もなく閉じた。
「ルルド……もう許してやってくれ。彼女が悪いわけじゃない……」
そこに、ルルドが成長した分だけ年老いたスケアとカシミールが現れた。
「悪くない? あいつが? もう、パパったら甘いんだから」
ルルドはスケアの首に腕を絡めた。
「ねぇ……ほら、あたし綺麗になったでしょ?」
「ああ、綺麗になった……しかし」
「ルルド、彼女は貴女の……」
「あいつはあたしを作っただけよ」
カシミールの言葉を遮り、ルルドは言った。
「あたし自身に対する愛情なんてないわ。ママだってあいつのことが嫌いだって言ってたじゃない。でも、あたしのことは愛してくれてるよね?」
カシミールは頷いた。
「貴女のことは大好きよ。でも、これじゃあ貴女は……」
途端、スポットライトが消えた。スケアとカシミールの姿が見えなくなり、ルルドが一人、真っ暗な空間にとり残される。
驚くルルド。そこに、
「これでは君は、フジノと同じだ」
仮面の男が現れた。
「自分の望むものを得るために、邪魔なものを排除する。君が忌み嫌ったフジノの、そしてハイムのやり方と、一体何が違う?」
言葉に詰まるルルド。
「だ、だって……あたしは……!」
「君は強い子だ。どうか、誇り高く生きていってくれ」
仮面の男は優しい声で言った。
「私はそんな君が大好きだし、一人の女性として尊敬しているよ」
「…………! あ、貴方は、もしかして……!」
ルルドの疑問に答えるように、仮面の男がルルドを抱き寄せる。ルルドの瞳から、大粒の涙があふれ出した。
仮面の男は優しくルルドを抱きしめると、泣きじゃくる彼女の頭を撫でながらささやいた。
「大丈夫。きっとあの子も、君のように強くなれるよ」
その頃、空中のブランコには誰も乗っていなかった。
そこはひどく狭く、窓もない鉄ごしらえの部屋だった。隅のほうにはベッドがあり、一人の女の子が座っている。
別の隅には一冊のボロボロになった絵本と人形があった。その本を手に取り、アイズはパラパラとめくってみた。
「王女さまは魔女のお城で王子さまを待ち続けました……か」
アイズはオペラグラスを逆さに持って女の子を見た。すぐ近くにいるはずの女の子が、ひどく遠くに見える。
「あたしを一人にしておいて……もう、誰も部屋に入ってこないで……」
フジノは……いや、まだ名前のない『F』は……か細い声で呟いた。
その女の子は、アイズの知っているフジノとはまるで違った。髪と瞳の色こそ同じだが、今にも死んでしまいそうなほどに弱々しく、身体中の傷跡が痛々しい。
(多分、何かを攻撃するっていうことを知らないのね……じゃなきゃ、いくら鉄ごしらえだって、こんな建物はひとひねりだわ)
アイズは思ったが、声には出さず、フジノの前に座って言った。
「私よ……アイズよ、フジノ。もうルルドも、カシミールさんも、貴女のことを怒ってなんていないわ。さぁ、早く出ましょう」
部屋の扉が開き、外の光が部屋の中に射し込む。しかし、フジノは横に首を振った。
「嫌だ、出たくない。あたしなんか、ずっとここにいた方がいいんだ。外に出たら、また同じことの繰り返し……スケアも、カシミールも……アインスとリードだって、あたしに関わったからあんなことになっちゃったんだ。ルルドも……本当は、カシミールの子供として生まれた方がよかったんだ」
その時、ドアの方から声がした。
「早くしておくれよ、もうもたないよっ!」
それはアイズの膝の上に乗っていた猫だった。
「もう少し頑張って、シュレディンガー」
静かに激励し、アイズは再びフジノに話し掛ける。
「ねぇ、フジノ。もう一度やりなおしてみない?」
「だめだよ……! あたしには、そんなことできない……!」
扉が少しずつ閉じ始める。アイズは優しい声で言った。
「フジノ、誰でも間違いはするものだよ。でも、間違ったのなら直せばいいんだよ。ね、もう一度やり直そう」
しかし、フジノは何も言わずにうずくまっている。アイズの声に怒りが混じった。
「フジノ、貴女悔しくないの? 貴女はこの世界で、何一つ望みを叶えないまま消えてしまうの? 貴女は裏切られたって言ってたけれど、本当の愛は、見返りを求めたり条件つきで手に入れるものじゃないわ。例え振り向いてくれなくたって、その人のために頑張るのが愛ってものじゃないの? 貴女にアインスがしてくれたように、ルルドのために未来を作ってあげたいとは思わないの!?」
「……ルルド……の、ため……?」
フジノの瞳に光が戻る。
「そう……だね、あの子の、ために……」
震える足で立ち上がり、扉に向かって歩き始めるフジノ。しかし、扉はもう閉まりかけている。
フジノは懸命に歩いたが、扉の直前で力尽き、倒れた。
小さな手で懸命に支えようとするシュレディンガーの努力も空しく、すぐ目の前で、扉が閉まっていく。
「もう……ダメ……なんだ……」
フジノが諦めたように呟いた、そのとき。
扉の向こう側から、一本の手が差し込まれた。
骨が砕ける音が響き、わずかな隙間を残して扉が止まる。
その隙間にもう一方の手を差し込み、力任せに扉をこじ開けて、仮面の男は叫んだ。
「さあ、早く出るんだ!」
フジノにはわかった。その男が、誰なのか。
「わかった……わかったよ! あたしは外に出る! もう一度やり直す! あたしは……あたしは、生きるわ!」
フジノの身体が14歳の姿になり、床を蹴って起き上がり、扉にしがみつく。
そこにアイズも手を貸し、3人と一匹は一気に扉を開け放った。
フジノは仮面の男の胸に飛び込み、すべてが光の中に飲み込まれ……。
アイズは浜辺に立っていた。
近くにはベンチがあり、仮面の男がフジノに膝枕をして座っている。少し離れた場所にはもう一つベンチがあり、そこではスケアとカシミールがルルドを挟んで肩を寄せ合い眠っている。
アイズはマスクとマントをシュレディンガーに預けると、仮面の男に向かって呼び掛けた。
「何とかうまくいったみたいね……アインス・フォン・ガーフィールドさん」
男が仮面を外して横に置き、眠るフジノにマントをかける。
それはアイズが今までに出会った中で、最も綺麗で不思議な男だった。