第2話 風を操る者
2009/10/3
挿絵を掲載しました
陽炎の立つ灼熱の砂漠を、一人の青年が歩いている。
背の高い青年だ。ぼろぼろのフードつきマントに身を包み、厳しい陽射しを遮っている。
一際強い風が吹き、マントが大きくはためいた。
この光景を見る者がいれば、すぐにその異様さに気づいただろう。
何故ならマントの下に、衣服と銃以外のものがなかったからだ。
彼は荷を負っていない。
砂漠の只中にありながら、水筒の一つさえも。
……と、風が変わった。
青年が立ち止まり、顔を上げる。
いつの間にか、切り立った崖の縁に到達していた。見渡す限りの空は透き通るような青……いや、違う。
「これは……」
青年はフードを脱ぎ、片手をかざして空を仰ぎ見た。
空の色が、変わってゆく。透き通るような青から、深い藍色へと。
「……アステルの風か」
呟き、青年はふと目を凝らした。
切り立った崖の下、眼下に広がる砂漠の中に、一人の少女の姿がある。
数瞬の後、崖の上に青年の姿はなかった。
第2話 風を操る者
アイズは一人、延々と続く砂漠を彷徨っていた。
「一体、ここは何処なのよ」
アイズは周りを見回して呟いた。遥か遠くに霞む地平線、盛り上がった砂山、切り立った崖……海は何処にも見えない。どうやらかなり内陸へと入ってしまったらしい。
「それにしても、こう暑くっちゃたまらないわね……水が欲しいわ。あー、やっぱり近道なんかするんじゃなかったかなぁ」
「本当に、一人で行くのか?」
「うん、これは私の旅だからね」
「そうか」
数時間前、アイズは不時着したイート・イット号の前でルーカスと別れの言葉を交わしていた。場所はハイム共和国から海を隔てた大陸にある、フェルマータ合衆国の海岸だ。
あのとき。
エコーデリックの中でアイズのラジオが受信したのは、幽かな歌声だった。
伴奏も効果も加わっていない、たった一人の少女の歌声。
一声で惹かれ、心奪われた。
知らず涙がこぼれていた。
同時に、アイズは自らの旅の目的を見いだしていた。
この人に会いに行こう。
この歌を歌っている人に会いに行こう。
それが旅の最初の目的だ。
「今日は聖サミュエルの日だったな。悪くねえ偶然だ」
「??? 何それ?」
「聖サミュエルは『出発と開拓の守護者』……旅人の守護者だ。大抵の船乗りは出立にこの日を選ぶ。逆に『成功と繁栄の守護者』聖オードリーの日には、船を降りて港で騒ぐ。もとはある国の習慣だったんだが、いつの間にか世界中の船乗りの間に広まったのさ」
「ある国……って?」
アイズが何気なく口にした質問に、ルーカスは答えようとして、やめた。その代わりに「もう無くなった国だ」と呟いた。
「ここから海岸沿いに行ったところに港町がある。内陸の砂漠を突っ切ったほうが早いんだが、まあ遠回りしたほうが懸命だな。何事もなけりゃ明日の夕方には着けるだろうよ」
「うん、わかった……本当にありがとう、ルーカスさん」
アイズは礼を言った。ルーカスは照れたように笑い、そうだ、と付け足した。
「異常気象には気をつけろよ。上空でエコーデリックが発生したときには、地上にも何らかの影響が出ることがあるからな」
「この際、異常気象でも何でもいいから、雨の一つでも降って欲しいわ……」
額の汗を拭い、アイズは空を仰ぎ見て、
「……あれ?」
ふと立ち止まった。
眩い陽光に照らされて、大気が青く輝いて……いない。空には雲一つなく、太陽が沈むにはまだ幾分の余裕がある。にも関わらず、深く沈んだ藍色を呈している。
「どういうことよ、これ……」
不可解な現象に戸惑うアイズ。しかし、事態はそれだけに留まらなかった。突然地響きがしたかと思うと、空気がビリビリと音をたてて小刻みに振動し始めたのだ。
「ちょっと、今度は何よ!?」
アイズが慌てて周囲を見回した……瞬間。
巨大な影が突然辺りを覆い尽くした。反射的に振り向いたアイズの目前に、大量の水が……壁のように聳え立った津波が押し寄せる。
激流に飲み込まれる直前、誰かに抱きかかえられたような気がしたが、アイズはそのまま意識を失った。
次に目を覚ましたとき、アイズは誰かの背に揺られていた。
「え……わっ!? あ、貴方は……?」
「あ、気がつきましたか……おっと」
慌てた拍子に落ちそうになったアイズの身体を支え、青年は優しく微笑んで言った。
「スケア・クラウンと申します。貴女はアステルの風に巻き込まれてしまったんですよ」
「アステルの風……?」
「ええ。ほら、見て下さい」
スケアに促されるままに顔を向けたアイズの目の前を、小さな魚が横切った。まるで海藻の隙間を縫うようにしてアイズの髪の間を通り抜け、泳ぎ去る。
「……魚……」
魚の行方を目で追いながら呆然と呟くアイズ。
「その様子からすると、アステルの風を見るのは初めてのようですね」
「え、ええ……」
スケアの説明によると、これは大気と水の融和現象らしい。簡単に言えば、水と空気の境界線が無くなってしまうのだ。通常は2日ほどで元に戻るが、その間アステルの風が通過した地域では、水棲生物と陸棲生物が一緒に生活するという奇妙な光景が見られるという。
「……いくら異常気象って言っても、ほどってものがあるわよね……」
感心半分、呆れ半分に呟くアイズ。
「何か仰いましたか?」
アイズの呟きを耳に止めて、スケアが顔を向ける。
「あ、いいえ……あの、そろそろ降ろしてくれませんか? 一人で歩けますから……」
「そうですか」
地面に降りると、アイズは少しふらついた。スケアが慌てて肩を支える。
「通常の空気とは違って、多少の浮力がかかっています。気をつけて下さい」
「ど、どうも」
青年を改めて真正面から見て、アイズは思わず感心の溜息をもらした。
かなりの美男子だ。背も高いし、声は涼やかで耳に心地良い。格好はみすぼらしいが、それを差し引いても十二分におつりが来る。
「? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ別に」
アイズは照れ笑いと誤魔化し笑いを半分ずつ浮かべながら、
「それにしても……すっごい眺めですね」
と改めて周囲を見渡した。
アステルの風が通り抜け、海水と空気が入り混じった光景は不思議なものだった。先程までの不毛な砂漠が、様々な海藻の茂る豊かな海底へと姿を変えている。頭上を横切る影に気づいて顔を上げると、トカゲのような生き物が鈍重そうな身体を巧みに動かし、スイスイと空中を泳いでいた。
「この辺りはアステルの風の多発地帯で、生物もそれに合わせて生きているんですよ。例えばあれらの海草に似た植物などは、普段は乾燥した状態で生命活動を休止させ、砂の中に埋もれているんです。あの動物も、普段は砂の中で寝ているそうです」
アイズは心底自分の無知を思い知った。
今朝の電波の飛び石といい、エコーデリックといい、今回のアステルの風といい……ハイムを出てからというもの、驚きと感心の連続だ。
「外の世界って、すごい……」
スケアの説明を聞き流しながら、アイズは溜息混じりに呟いた。
話を聞くと、スケアもアイズと同じ港町に向かっていると言うので、二人は同行することにする。どうやらかなりの距離をアステルの風に流されたらしく、港町はもうすぐそこだとスケアは言った。
数十分後。
群青の空から夕日の名残が消える頃、二人は港町に到着した。
その港町の外観は、アイズの知識の範囲を遥かに越えていた。まるで大きな船のように空中に浮かび、ほんの数本の錨によって元々は海底であった大地と繋がっている。
「どうやらこの町も、アステルの風に合わせた構造を取っているようですね」
呆気に取られているアイズをよそに、スケアは平然と言った。
「さて、我々も上がりましょうか」
小さい魚とか鳥ならともかく、どうやってあんな上まで上がるんだろう、とアイズが思っていると、スケアがアイズの体を抱え上げた。
「貴方はここに慣れていらっしゃらないでしょうから」
このような行為が許されて、しかもそれが自然に見えるところが美男子の美男子であるところよね……などとアイズが思っていると、不思議なことが起きた。
二人の周りの空気――正確には水と空気が混じったもの――がゆっくりと渦を巻き始めたかと思うと、二人の体が浮上し始めたのだ。
アイズが呆気にとられている間に上空の町はグングン近づき、やがて二人の体は貴族が馬車から降りるよりも上品に町の外れに着地した。
「スケアさんって、魔法能力者だったんですか!?」
町に着地した途端、アイズは襲い掛かるような勢いでスケアに尋ねた。
ハイムにいた頃、聞いた話がある。この世には魔法と呼ばれる力を行使できる人間が存在し、一撃で岩を砕いたり、空を飛んだり、手や目からビームを出したりするそうなのだ。
もっとも、ハイム国内ではそれは只の冗談だと思われていた。しかし今、アイズの目の前に空気を操って空を飛ぶ人間がいる。
「え、ええ、そうですよ。三級資格免許も持っていますし」
アイズの勢いに気圧されながらも、スケアが平然と肯定する。
「……もしかして、結構いるの? 魔法能力者って」
「ええ、世界中にいます。国際認定証が出ているくらいに」
「でも、私の国にはそんな人いなかったよ?」
「それは変ですね。学校で適性試験を行っていないのですか?」
「知らないわ、聞いたこともない。そんな……じゃあ、ハイム以外の人は学校で魔法を習ったりするんだ……」
「……ハイム?」
その名を聞いた途端、スケアの顔色が変わった。
「アイズさん……このようにお知り合いになれたのも何かの縁です。どうですか、一緒に夕食でも。ご馳走しますよ」
「え、ホントに?」
アイズが驚いて顔を上げると、スケアは真剣な顔で頷いた。
「ええ……私も色々とお聞きしたいことがありますから」
空中に浮かんでいることを除けば、町の様子は普通の港町と変わりなかった。
埠頭には何隻もの水空両用船が停泊しており、表通りは商店で賑わっている。町の中央には大マストと呼ばれる巨大な塔があり、先端に光を灯し灯台の役割を果たしていた。
「じゃあ、本当にビームを出したりできる魔法能力者っているの?」
「ほんの一握り……恵まれた素質があり、厳しい修行をおさめた人間だけですが」
町外れの静かなレストランに入ったアイズは、スケアから話を聞いていた。彼が言うところによると、自然界の魔力を利用することは基本的に誰にでも可能なことなのだそうだ。
「じゃあ、簡単なやつなら私にもできるようになるかな?」
「自然界の一員として、人間にも元々備わっている能力なんですから、できないことはないでしょう。まあ、それでもできない人もいますが、それはどうやっても泳ぐことのできない人がいるのと同じようなものです」
「泳ぐのは得意だけど……」
アイズの心配そうな呟きを耳に留めて、スケアは微笑んだ。
「大丈夫ですよ、きっと。あの優秀な魔法騎士を数多く生み出したリードランス王国の生まれなんですから」
「……リードランスって?」
スケアはアイズの言葉に眉を潜めた。
「リードランスのことも知らされていないのですか?」
「だから、それは何なの?」
「十年以上前に滅ぼされた国です。今ではハイム共和国と名前を変えています」
「それってつまり、私の国のこと?」
「その通りです」
スケアはじっとアイズの顔を見つめ、尋ねた。
「もう少し……あの国の内状について詳しく教えていただけませんか? あの国の方とお会いするのは初めてなので……」
その時、突然歌が聴こえた。
エコーデリックの中で聴こえたあの歌だ。たが今回はラジオを通してではない、頭の中に直接響いてくる。
「……聴こえる?」
「は? 何がですか?」
スケアがきょとんとする。
「歌よ。歌が聴こえない?」
「……いえ、私には何も……」
戸惑うスケアをよそに、アイズは店から外に飛び出した。
「歌? ……まさか」
スケアは何処からか取り出した小型ラジオのスイッチを入れた。幽かな……この世のものとも思えない美しい歌声が響いてくる。
「これは……No.24! やはりこの町か!」
「何処? 何処から聴こえてくるの?」
周囲に遮るもののない広場に出て、アイズは耳をすました。
歌声は町の中央に聳え立つ巨大な塔……大マストから聴こえてくるようだ。
アイズは大マストに向かって走り出した。
同時刻。
「見つけたわよ」
何処とも知れない暗闇の中で、幼い少女が呟いた。
「そこにいるのね、No.24……やっとつかまえたわ」
幼女はすっと手を動かした。
細く小さな人差し指の先端が、白く淡い光に包まれる……。
スケアはアイズを追って大マストへと走っていた。
その時、彼は気づいた。町の中に“何か”が入り込んできたことに。
そして、それが敵であることに。
「来たか、エンデ……!」
彼の周囲の空気が渦を巻く。
次の瞬間、スケアの体は空を舞っていた。
アイズが大マストの中に入ると、そこでは時計の内部のように大きな歯車やピストンが動いていた。普段ならマスト守と呼ばれる技師が常駐しているのだが、何処にも姿がない。そして、そんなことは知らないアイズは、ためらいなく奥へと続く扉を開けた。
誰かが動く物音がした。
反射的に立ち止まったアイズの目前に、マスト守の死体が落ちてくる。そしてその向こうには、白いフードつきマントを羽織った男の姿があった。
マスト守と揉み合ったのだろう、フードが中途半端に外れている。その下に見える男の顔には死人のように表情がなく、まるで生きている人間の気配がしなかった。
アイズは判断力の優れた少女だ。だがこのときばかりは、例え判断力の優れていない人間でも気づいただろう。それが普通の人間ではないということに。
アイズは逃げ出した。
しかし大マストの入口に更に数人、同じようにマントを羽織った男が現れた。
追い詰められたアイズは周りを見回した。小さな排気孔がある。金網で怪我をしそうな気もするが、迷っている暇はない。
アイズは老朽化していた金網を蹴破り、排気孔の中に飛び込んだ。
更に下の空間。
天井の排気孔を塞いでいた金網の金具が外れ、落ちてきたアイズは床に尻餅をついた。
かなりの距離を落ちてきたが、たいした怪我はしていない。アステルの風の影響で水と融和した大気から、それなりの浮力が働いたからだ。
「あいたたたた……」
アイズは腰を押さえながら辺りを見回した。
どうやら使われていない倉庫のようだ。位置的に考えるに大マストの基底部……町の中心部らしい。
アイズは携帯用のライトを懐から取り出した。
……と。
『誰……?』
声がした。あの歌と同じ、頭の中に直接響いてくる声だ。
『そこに……誰かいるの?』
「……ええ、そうよ。貴女は誰? 何処にいるの?」
アイズはライトで周囲を照らした。しかし、そこには誰もいない。あるのはやたらと大きな鞄だけだ。
本当に大きい……小さな女の子なら入れそうなくらいに。
「まさか、いくらなんでもそんなことは……」
呟きながらも、鞄を観察する。鍵がかかっているようだ。それも見たこともない鍵。
アイズは恐る恐る手を伸ばした。すると、指が鞄に触れた途端、鍵が呆気無く開いてしまった。驚くアイズに構うこともなく、鞄の蓋がひとりでに開いてゆく。
そして、鞄の中にあったのは……淡い紫色の長髪に包まれるようにして横たわる、一人の少女の姿だった。
「貴女は……?」
少女が目を開き、小さな声で尋ねる。ついさっき頭に直接響いてきた声や、ラジオから流れてきた歌声と同じ声。
「私はアイズ・リゲル……貴女の歌を聴いてここに来たの」
「……ありがとう……」
紫水晶のような瞳から涙が溢れる。
アイズが伸ばした手を取り、少女はゆっくりと起き上がった。
「私はトト……プライス博士に生み出されし二十四番目の人形です」
その時、天井を突き破って先程の男達が舞い降りた。
凄まじく重そうな音を立てて男達が着地する。
そして、一斉にアイズ達に向かって鋭い爪のついた腕を伸ばした。
トトが小さな悲鳴を上げてアイズの腕にしがみつく。
「大丈夫よ。貴女のことは私が守るから……」
アイズはトトを庇って立ち上がった。それが自分の役目のような気がしたのだ。
例え、自分に男達に対抗する手段が何一つなかったとしても。
男達が一斉に襲い掛かってくる。
刹那、破れた天井から別の影が飛び下りた。
まるで見えない壁に激突したかのように、男達がその場に倒れる。
「大丈夫ですか、アイズさん!」
「スケアさん……はは、ナ~イスタイミング」
アイズが脱力して床に座り込む。
「御無事で何よりです」
スケアは男達に向かって身構えた。彼の伸ばした両腕の周囲に、目に見えるほどの風が集まっていく。
「ここは私に任せて下さい。すぐに片付きます」
そう言って、スケアは微笑んだ。
その時、アイズは気づいた。スケアが『三級』の魔法能力者ではないことに。そして……彼が決して見た目通りの人間ではないことにも。
彼の微笑みを見た瞬間、アイズは初めてスケアのことを恐ろしく感じた。
同時刻。
町の遥か彼方では、アステルの風の第二波が発生しつつあった。
それは第一波と同じく、大地を揺るがすほどの大きな衝撃を伴うものだった。
【スケア・クラウン】
栗色の髪と瞳の美青年。風を操る魔法能力者。
第三級魔法能力者の国際認定証を持っているが、実際の実力は第一級魔法能力者の水準をも凌駕する。
【トト】
プライス・ドールズNo.24。設定年齢14歳。
淡い紫色の長髪と瞳。能力は『歌』。
自身の歌を電波に乗せて、世界中に届けることができる。
【聖オードリーの日】
『成功と繁栄の守護者』聖オードリーを称える日。
船乗りたちの間では、この日には船を降りて港で宴を催すことが通例となっている。
【聖サミュエルの日】
『出発と開拓の守護者』聖サミュエルを称える日。
船乗りたちの間では、この日に船を出すことが通例となっている。
【アステルの風】
世界七不思議の一つ。
前兆現象として大気密度と湿度の上昇、太陽光線の屈折率の変化に伴う空の色彩の変化が現れ、間もなく第一波が到来する。
第一波で空気と水の境界が消失し、融和する。
第二波で再度空気と水が分離し、通常の状態に戻る。
第一波と第二波の間隔は、通常は二日ほど。
その間アステルの風が通過した地域では、水棲生物と陸棲生物が一緒に生活するという奇妙な光景が見られる。
規模は様々だが、圧倒的な破壊をもたらした例も過去に幾つか存在するという。