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タネル

作者: 東屋 豊

初推敲作品

 



 タネル




 桔平は目にいっぱいの涙を溜めながら、荒れた砂利道を駆けていた。もう二度と、おかあさんの顔を拝むまいと、そう心に誓った。

 桔平は、裕福な家庭に生まれ育った、いわゆるお坊ちゃんである。しかしながら、桔平は、ああしたいだの、これが欲しいだのと云う、ごく普通の子供が皆、口にするであろう望みが、一度としておかあさんに聞き入れられたことがなかった。おかあさんは、たいへんに厳かな人であったのだ。キラキラと輝くおもちゃ屋のショーウィンドウに張り付き、柔らかなコットンで膨らんだ、愛らしい熊のぬいぐるみを、半刻ほど泣いて欲しがっても、おかあさんは決して、願いを聞き入れることはなかった。当時の桔平は、まだ歳が五つである。もうあれから2年も立つと云うのに、未だに忘れることができなかった。

 そんな時だって、桔平はこれほどの強い反感を、おかあさんに抱きはしなかった。桔平は、おかあさんの、全身を包み込むような優しい匂いが大好きだった。

 今、桔平を夢中に走らせている、おかあさんに対する悪感情は、間違いなく過去最高のものだ。

 さて、空はいよいよ赤みが差し、細長の雲がすうっと尾を引いて行く。そして緩やかなカーブを描きだした。桔平はまだ走り続けている。

 先の尖った砂利が、桔平の足に深く食い込んで痛いが、桔平は、そんなことよりも、家の門前に捨てられていた子犬のことが気の毒で仕様がなかった。

 今朝のことである。桔平が家の門をくぐって、近所の駄菓子屋に向かおうとすると、くぅぅん、と云う、なんとも哀愁の感ぜられる鳴き声が門の方から聞こえ、そしてそれが、ぬいぐるみのごとく愛らしい子犬であった。

 桔平は、子犬を脇にしかと抱えて家に連れこみ、先ずは体の汚れを落としてやった。それで、見た目はたいへんよろしくなったのだが、桔平は、子犬がひどく弱っていることに気がついて、自分が食べるはずだったおやつをみんな子犬にやってしまった。

 それから桔平は、子犬を外に連れ出して、年相応に、うんと遊びまわった。子犬も随分と楽しそうであった。

 家に帰る頃には、子犬はすっかり桔平に懐いていた。桔平は嬉しくなって、それもう、駄菓子屋で買ったお高いクッキーを、子犬に食わせてやったほどだ。

 だが、子犬を連れて家に帰った桔平を見て、おかあさんは冷たく、ただ一言「捨ててらっしゃい」とおっしゃった。おかあさんには、子犬に対しての、聊かの憐憫もないようであった。

 それで桔平は、生まれて初めて、おかあさんに真っ向から反発した。幾度か言い争った後、桔平は逃げるようにおかあさんのいる家から飛び出したのだ。それからかれこれ1時間ほど、桔平はこうして懸命に荒い砂利道を駆けているのだ。

 しかし、そんなに激しい衝動が、いつまでも続くわけもなく、いい加減、もっと底の厚い靴を履いてくればよかったと思い始めて、桔平は、はたと足を止めてしまった。

 むちゃくちゃに喚いたのと駆けたので、桔平は幾らか胸がすくのと共に、次第に胸の内に不安が広がっていた。

 あたりは、桔平の知らない景色で埋め尽くされていた。帰る宛がないことは明白である。

 桔平の腰が、ストンと地面に落ちた。小一時間走り続けた桔平の体は、疲労ですでに限界であったのだ。桔平は、足が痛むのと、家に帰れないのと、子犬がかわいそうなのとで、思わずわっと泣き出しそうになった。未だ桔平が泣けずにいるのは、もしここで情けなく泣いたら、おかあさんに笑われてしまうだろうと云う妄想に囚われていたからである。


 10分ほど経った頃だろうか、桔平の前を通りかかった、背の高い青年が、道端でうずくまっている桔平を不審に思ったのか、「もし、そこの少年」と桔平に声をかけた。


「一体、どうしたと云うんだ。どこか痛むのかい。」

「全然、僕は、へっちゃらだい。」


 それで大方の事情を把握したのか、青年は随分親身になって、桔平から色々と聞き出した。桔平の、要領を得ない受けごたえを一通り聞いた青年は一つ、首を縦に振った。


「なるほど、それは確かに君のお母さんが悪い。お母さんは、子犬君を助ける力があったのに、子犬君を見捨てたわけだ。ああ、子犬がたいそう不憫だよ。今頃どうしているのかな。」

「わからないや、おかあさん、すぐに子犬を追い立てたから……。」

「それはますますいけない。明日、探しに行こう。」


 桔平は、こんなに親身になって自分の話を聞いてくれる青年が、とても好きになった。いつのまにか、疲れは無くなっていた。


「今日はもう遅いから、自分の家泊まりなよ。ほら、もう日が沈みかけている。」


 確かに、日はすでに山々の向こう側にあった。桔平は、そのことに対する不安よりも、青年の家に行くのが楽しみで、すっかり気を良くした。

 二人は一緒になって、ところどころ影のある、あれた砂利道を歩いていった。青年は、桔平の歩幅に合わせて歩いてくれた。桔平は、無二の親友を得たような心持ちで、青年と語り合った。青年とは恐ろしいほどに気があったのだ。一度として話の噛み合わないことはなかった。桔平は、青年と手を繋ぎながら、このままずっと、青年と歩いていたいと思った。青年の瞳が、美しい宝石のように輝いていて、それが、なんだか自分の宝物のように思えた。

 あたりが薄暗くなってきた時、青年は突然ピタリと止まった。桔平は、青年が思いのほか強く手を握っていたので、リードで繋がれた犬がよくそうなるように、勢いよく前につんのめった。


「ここを通り向けた先に、自分の家があるんだ。」


 青年と桔平の前には、大きな、大きなタネル※の入り口があった。


 ※タネル・・・トンネル


 見上げるほど高い山の麓の、ちょうど山肌がむき出しになっているところにそれはあった。中からは煌々と光が溢れ出して、桔平はなんだかとても安心した気持ちになった。あたりがどんどん暗くなっていたので、多少の心細さが胸の内に芽生えていたのである。

 それに、たいそう魅力的にも映った。タネルから漏れ出す光は、黄金が放つそれとよく似ていた。タネルの中から風が吹き込んで、桔平は、体がぐっと吸い込まれるように動くのを感じた。青年はそれを見て笑った。


「さあ、行こうか」


 青年と桔平は、手を繋いだままタネルの中に入っていった。桔平は、急に周りの温度が寒くなったように感ぜられて、ブルリと身震いした。青年は、タネルの中は冷えるんだと言った。

 タネルはどんどん奥深くまで続いていた。桔平は、タネルの中に、線路が敷かれていることに気がついた。それは鈍く光っていた。


「どうして線路があるんだろう。」

「そりゃあ、移動に便利だからさ、このタネルは随分と長いからね。僕らもトロッコが使えたらよかったんだけど、あれにはお金がかかるから……。」


 青年と桔平は、しばらく黙って歩いた。桔平は、だんだんタネルの光が弱くなっていることに気がついた。壁面のライトの数が、徐々に減っているのである。


「どうしてだんだん暗くなってるのかな。」

「光を生み出すには火が必要だろう。そして火には空気が必要なんだ。タネルの奥に行くほど、空気の供給が減るから、火を減らす必要があるんだよ。だからさ。」

「フゥン」


 桔平には、青年の言っていることを理解できなかったが、なんだかそのことが恥ずかしいように思えて、つい知ったかぶりをした。


 その時、ゴウゥン、ゴウゥゥン、という音がタネルの壁を伝って、あたりに広がった。タネル全体が、細やかに波打つようであった。


「お、これはきっと、トロッコの音に違いない。後ろから来ているぞ。」


 青年がそう言ったので、桔平は後ろを見ると、確かに何かが高速で近づいていた。猫の目のように光る目が、つん、つん、と見えた。トロッコの、前方を照らす目である。幾人もの、屈強な見た目の大人たちを乗せているようであった。

 青年と桔平の横に、トロッコはキキッと停車した。歪な急ブレーキの音を、タネルは嫌がるかのように、体全体を使って急速に拡散させた。


「やあ、こんにちは」


 トロッコに乗っていたひとりの男性が、青年と桔平に声をかけた。真っ黒いヒゲを、上唇にたっぷりと乗せている。筋骨隆々の見た目は、桔平を少しばかり緊張させた。


「こんにちは」と青年が返したので、桔平も「こんにちは」と控えめに返した。


「おや、これはこれは。小さい子がこんな時間にタネルの中にいるとは驚いた。」髭男は、目をパチクリとさせた。その動作からは、なにやら子犬のような愛嬌を感ぜられて、桔平は思わずくすりと笑ってしまったが、すぐに今朝の子犬のことが思われて、しばらく忘れていた、子犬のことが悲しいというのと、おかあさんがにくいというのが、いっぺんに思い出させられた。それですぐに、真顔に戻った。


「一体どうしたんだい。」

「今からぼくたちの家に帰るのところなんです。」青年がそう答えた。


「そうかい、くれぐれも気をつけるんだよ。なんでも最近、この近くに人さらいが現れるんだとか」

「はい、すぐに帰ります。私が付いていますし、大丈夫でせう。」


 青年が、胸をどんと叩いた。「ところで、おじさんたちはどうしてトロッコに乗っているのですか。」


「俺たちはね、これからこの山の向こうに行って、石炭をいっぱい採ってくるんだ。仕事なんだ、随分と働く割りに、給与が少ないけどね。」そう言って、髭男は笑った。


「俺たちゃみんな負け組さ。元々の職を失くしちまった奴がこうして、山超えて炭掘りに行くのさ。」髭男のとなりにいた、顔の長い男が、吐き捨てるかのようにそう言った。「俺にはもうこのクソったれな仕事しか残ってねぇ。職も、家庭も家も、全部失くしちまったよ。」


「俺には家族がいる。」髭男の顔はフッと緩んで、優しい顔になった。桔平は、おかあさんのことを思い出した。先ほどのように、にくい気はしなかった。「ただ、娘が病気なんだ。それで、少しでも金が必要なんだよ。」


 桔平はなんだか、急におかあさんのことが恋しくなって、それが嫌で慌てて目をゴシゴシとこすった。


「まあ、でも、このタネルを作ってくれたX X X X Xさんには感謝しても仕切れないよう。なけりゃ今頃俺らみんな無職だい。」


 顔長男がそんなことを言ったので、桔平は思わずギョッとした。 X X X X Xが、おかあさんの名前とそっくりそのまんまであったからだ。


「ええ、そうですね。」


 青年は、心底共感している風であった。それで、桔平はなんだか、自分のことのように誇らしげになった。


「さあ、俺たちはもう行かないと。」髭男が本当に惜しいように、青年にそう言った。

「ええ、それではまたいつか。娘さんの病気、治るといいですね。」

「ああ、そうだといいんだが……」


 髭男は一瞬、その顔に暗い影が差した、と思ったら、トロッコが急に動き出して、瞬く間に彼の姿は見えなくなってしまった。あんなに明るかったタネルは、もうすっかり暗くなってしまって、トロッコが向かった先には、黒陶たる景色が広がるばかりである。そしてそれは、桔平がこれから歩む道でもあった。


 トロッコがすっかり見えなくなってから、桔平は興奮した様子で青年に語りかけた。


「すごいや、初めて知ったよ。僕のおかあさんがこのタネルを作ったなんて。」

「なんだって?君のお母さんが?」


 青年は、本当に仰天して桔平に聞き返した。それがとても愉快で、桔平は大声で笑った。


「そうなんだ、僕のおかあさんが作ったんだ。おかあさんはすごいんだ。おかあさんは、おかあさんは……」


 そこまで言って、桔平はワッと泣き出した。おかあさんの待つ家が、もう、すごく恋しくなった。タネルの中は魅力的であったし、青年といるのも楽しかったが、しかし、タネルや、青年が桔平に与えてくれたものは、すでにして桔平が持っていたものだったのだ。煌々たる黄金の光も、青年の優しい宝石の目も、おかあさんのいる家にあった。どんなに高価なぬいぐるみも、おかあさんの胸の柔らかさに勝るものはなかった。桔平は、おかあさんのことが大好きなのだ。


 青年は、とても寂しそうに、泣く桔平の背中を撫で続けた。その間に、なにかの決心を固めたようで、桔平が落ち着くと、青年はすぐに「家に帰りなさい。」と桔平に言った。桔平は渋った。青年がすごく悲しい目をしていたからだ。


「白状するよ。私はね、人さらいなんだ。」青年は、やはり悲しい口調でそう続けた。「タネルの近くを通りかかる、君くらいの子をね、タネルの向こう側の、とても恐ろしいところに連れて行くんだ。もう何人も、何人もね。君もその一人だったんだ。」


 青年は、しゃがみ込んで、桔平の柔らかな髪を、優しく撫でた。青年の声は、急に、しわがれた年寄りの声のようになった。


「君のお母さんにはすごく感謝しているんだ、本当だよ。タネルがなかったら、私は今頃死んでいるだろうから。それだから、息子の君に地獄を見せるわけには行かないんだよ。さあ、もう行くがいい。」


 桔平はそれを聞いて猶渋った。「一緒に帰る事はできないの?」


 青年は、笑って首を振った。そんな事、考えられもしないと言った風だった。そしてそれは、桔平とってはわけのわからぬ事であった。青年が自分と一緒に帰る事は、見た目のとおりに簡単なものに思えたからだ。


「もし君がまだ私に同情しているなら、いいだろう、これを聞くといい。私は君に幾らか嘘をついていたんだ。私は、君のおかあさんが子犬を追いやったことに、実はそこまで同情していない。おかあさんのしたことが正しいと思うからね。知ってたかい、クッキーとか、ビスケットなんかは、犬にとっては猛毒になり得るんだ。君は子犬にいっぱいくわせてやったようだから、子犬はもう助からないだろうさ。お母さんはそれに気づいていたから、君に気を使って、犬を追い立てたんだろう。」


 それで、桔平はハッとして、それからはもう、おかあさんのことで頭がいっぱいになったので、ようやく家に一人で帰る決断をした。


「さよなら、もう会う事はないだろう。」


 青年は、暗黒の続く道を一人、歩いていった。桔平はしばらく、青年の朧げに揺れる背を眺めていたが、ある地点を境に、それもふっと闇に消えてしまったので、桔平は来た道を引き返し始めた。

 桔平はもう泣かなかった。周りはどんどん明るくなっていった。だが、桔平が泣かなかったのは、そればかりが原因でもないように思われた。


 そうそう歩かぬうちに、桔平の背後で、ンゴゥゥン、ゴゥゥン、という、聞き覚えのある音が響いた。トロッコである。

 桔平の横で、トロッコがキュッと止まった。数人の男の人や、女の人が、愉快そうにトロッコに収まっていた。その一人が、桔平の姿を見て、驚いたようにトロッコから身を乗り出した。青大将に似た顔つきの、丸坊主のオヤジである。


「ややあ、こんなところで、お前さん、大丈夫なのかい。」

「いま帰るところです。」

「それなら、一緒に乗ってくかい。なあに、ちょうど人数が少なくて寂しかったんだ。」丸坊主が、にっこりと桔平に微笑んだ。


 桔平はトロッコに乗り込んだ。たしかに、トロッコの中は、桔平が乗り込んでも猶有り余るほどスペースが空いていた。


「いやあ、幸せだ、幸せだ。」と、周りの人たちがわけもなくつぶやいているので、桔平は気になって、このトロッコで唯一の知り合いである坊主に、「何かあったんですか。」と訪ねた。


「結婚式だよ。俺の甥が、えらいべっぴんさんを連れてだな、結婚する、っていうもんだからよ、わざわざこうして、山超えて結婚式を拝みに行くんだよさ。いやあ、自分のことのように嬉しいよ。」


「まだまだこれからですよ、お父さん。」隣に座っていた、丸坊主の妻らしき人が、笑いながら彼の肩を叩いた。「結婚はした後が大変なんですから。」

「そんなことは、俺も重々承知だわい。子供ができるとな、大変な忍耐が必要だわさ。親には我慢強さが必要だよ、それがあるのが、優れた親ってもんさ。」


 桔平は笑った。我慢強さなら、間違いなくおかあさんが一番だと考えたからだ。

 トロッコは始終、笑顔が絶えなかった。タネルは優しく、それを響かせてくれていた。


 トロッコがタネルの入り口に着くと、一同はそさくさとトロッコから降りて、暗い道を、やはり愉快そうに進み始めた。桔平もそれに続いた。タネルの入り口は、来た時よりも一層煌々と光り輝いていたが、桔平は進むべき道を誤りはしなかった。

 ふと、青年のことが頭に浮かんだ。おにいさんはもう、向こうの入り口についたろうか、いや、まだだろう。

 青年の進んだ道は、あれからも、もっと暗くなるように思われた。





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 あれから、もう12年も経ったのである。とある出版社に就職した桔平の目の前には、今も時々、あの煌々として明るいタネルの入り口が現れる。その度に桔平は、おかあさんと、あの青年のことを思い出して、入り口に入る前に一歩、立ち止まって考えるのだ。


 自分の行く先を……


 完

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それが、作者の次回作制作への励みになります。

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