早朝のお社
一番暗いといわれる夜明け直前に、自宅に近い生垣の合間から社の敷地内に入った。目の前にお茶室があり、その向こうは鏡池という名前の、広く平べったい印象の池だ。
一応お茶室の中を覗いた。信也さんが法子の齢の頃はよくここで琴を弾いていたから。
「信也は池が好きだったな」
祖父は茶室の濡れ縁から池を見渡す。
ふと顔をお社に向けると祖父は、
「取りあえずお参りをしよう」と言った。
「お祖父ちゃん、信者じゃないって」
「信者じゃなくてもそこに神社があればまあ、手ぐらい合わせるだろう? それに、私の頼みは聞いてくれんでも信也のことは守ってくれるかもしれん。あれ程音楽が得意なんだから」
法子は黙って頷いた。うちの神社は音楽の神さま、信也さんはその生まれ変わりとよくいわれていた。
次に社の裏の奥の院に近付いた。お祖父ちゃんは付いて入らせてはくれなかった。できる限り音を立てないで入って、また静かにでてきた。
「中にはいない」
「トイレも? お風呂も? 押入れも?」
「うん、いなかった」
「いやだ、どこ? どこいっちゃったの? 裏山でもし……」
「法子、バカなことはいうな。口にしないほうがいい言葉はたくさんある」
社の裏をどんどん歩いた。鏡池が明るくなってきた空を映し、ぼうっと浮かびあがって見える。
お茶室の対岸にあたるこちら側に蓬莱石という大きな岩が立っている。極楽浄土のシンボルだ。
昔、信也さんが従弟の彬文さんと歌い踊った姿が思い出される。
岩に繋がれた恋人を信也さんが解放するというあらすじだった。池の上を渡るふたりの歌声。信也さんは水面に散らばる飛び石を足場にして舞い、緊張と決意、相手への思いを描き出した。
小学二年、法子はその時の感動を忘れていない。
「私は裏山に上がってくるから法子は帰りなさい」
「滝池まで行く」
鏡池に注ぎ込む小川というか小さな渓流があり、それを遡ると白糸の滝が一本落ちる滝池に出る。
法子は初めてみる景色に目を瞠った。池自体は一番長いところが十二メートルくらいと小さく、鏡池の五分の一くらいしかない。清々しい空気が充ちていた。信也さんの姿はない。
男性信者は、夏に水ごりをしたり、泳いだりもするらしい。こっちの池は女人禁制だということを、祖父は忘れているのかもしれない。
「ここは丹沢の池によく似ているから」
お祖父ちゃんがつぶやく。
「ここにいなかったら、泰治に連絡して裏山を探さなくては」
「やまがり?」
「またそんな悪い言葉を使う。法子は少しうちの神社の教義を勉強したほうがいいかもしれない」
「知ってるの?」
「私は若い頃神官を目指したことがある」
「うそ、知らなかった」
「言霊という言葉を聞いたことはないか? 縁起の悪いことを言うとその通りになってしまうことがある。口に出した言葉には力があるんだ。だからもしかしてと思っても、口にしない。できるね?」
「はい」
返事をしておいて疑問のほうが大きくなる。
「じゃあ、ここ女の子は来ちゃだめってお祖父ちゃん知ってるはず」
「ああ、そうだ、何故か知ってるか?」
「え? 女の子は汚ないから?」
「違う違う、女の子は宝物だろう、うちの宗教では。男は水ごりのとき、すっぽんぽんでする約束だからだよ」
「すっぽんぽん? 真っパなの?」
顔が赤くなるのを感じた。
「最近はそう言うのか? 全裸だ」
「うそ、信也さんいつも袴のまま泳いで洗濯ばかりしてた」
「信也は裸が良ければ裸になるし、服着てたほうが面白いと思えば着たままだよ。約束事なんてお構いなし」
心配しているのに笑ってしまった。お祖父ちゃんはちゃんと信也さんのことわかってる。