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帰ってきた人  作者: 陸 なるみ
第六章 恋の行方
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ピアノ・リサイタル


 突然どこかに配置されたPAシステムからピアノが聞こえ始めた。ロシアの作曲家の、「シェヘラザード・幼い王子と王女」だ。


 信也さんはムクッと起き上がって法子を見つめた。

「騙したね……」

 静かな声が恐かった。

「ごめんなさい……」


 信也さんは頂上からぽんと、中間地点に飛び降りてしまった。

「岩の端に座ってごらん。足をぶらぶらさせて。早く」


 嫌だと言える雰囲気ではない。体操座りから少しずつ前ににじり出て、足を投げ出した。膝小僧が信也さんの顔辺りだ。


「少しずつ前に出て。腰を掴んでいるから、落とさないから」


 お尻が岩からずり落ちるくらいになって信也さんは法子の体重を支え、中間地点に抱え降ろした。


「そこの岩の裏に隙間がある。入って目が慣れたら石段が見えてくる。ゆっくり降りて外に出ること」


「信也さんは?」

「ここで名ピアニストの演奏でも聴くよ」


 中に石段がちゃんとある、ロッククライミングする必要はなかったと、頭の端で思ったけれど、信也さんの動向のほうが気になる。


 岩山の洞窟側から出てくると信也さんはまだ中間地点にいた。十字に繋がれたように、岩に身体を預けている。


「どこにいればいいんだろう?」

 法子は自問した。


 飛び降りはしない? 中間地点からでも落ちたら骨折は免れない。でももし踊るとしたら、真下では見えにくい。渓流を少し降りて岸の石に腰かけてから見上げた。


 曲が変わる。チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」。ピアノの二重奏になっている。

信也さんは奉納舞の最初のポーズ、片手で天を押し上げ、印を結んだ指を口に当て静止した。


 ――踊る? 踊れる? そこで? それとも?


 身体が小刻みに震えているのが見えてしまった。


 ――踊りたいのに身体が動かないの? 動け、動き出せ、信也さんの身体!

 

 喉と胃を同時に押さえ前のめりになった。


 ――危ない、落ちないで、信也さん、信也さん……


 勇壮なオープニングが過ぎて軽快な部分に移ると信也さんはくるっと岩の隙間に入った。法子が使った石段を降りて来るらしい。


 洞窟の出口を見ていたのに出てこない。


 ――中で動けなくなってしまったとか? それとも目が慣れない内に降りようとして転んだとか? 


 心配になった。洞窟の中を見に行こうと思って立ち上がると、また曲が変わった。ピアニストたちが見えるわけではないのに、お茶室のほうを振り向いた。

 

 驚いた、踊り舞台の上に神官がいる。祭儀用の(しゅ)(ばかま)と卵色の(かり)(ぎぬ)、あの色合わせは伯父さまじゃない。信也さんしかしない。


「いつ岩山を下りていつ着替えたのよ!」


 法子は渓流の横を駆け下り、蓬莱石を過ぎ、鏡池を巡った。お社とは反対側でも池越しに信也さんの動きが見える。駆け足で息を切らせて、鶴亀石の亀の上に人魚姫の像みたいにへたり込んでしまった。


 聞き知った曲に変わる。ベートーベン、「ピアノコンチェルト・皇帝」だ。


 信也さんは踊り舞台にあたかも透明なキーボードが置いてあるかのように、立ったまま腕と指を動かしている。たまに片手を上げて印を結ぶ。

 お社の踊りの文字や単語が散りばめられているのだろう。舞に成熟する前の萌芽のようだ。


 後ろにお祖父ちゃんの声がした。

「天の川、汽車、九、九、九、なんだね、あれは」

「銀河鉄道でしょうか」

 と伯父さま。


「ああ、弾いてるんだわ、昔お母さんとオーケストラと弾いたって言ってたアニメの曲。アンコールで編曲してベートーベンに乗せたって」

 母が答えた。


 いつのまにか阪口家が自分の後ろに集結していた。伯母はもちろん、父まで来ている。


 第二楽章の追憶に浸るようなアダージョに移った。信也さんは欄干から境内に飛び降りて、池の中の飛び石の上で、音に合わせてステップを踏んだ。柔らかく、優しく、鍵盤を撫でるように。

 狩衣の袖がなびく。それだけで十分美しい舞になっていた。


 第三楽章の軽快なロンドは、飛び石を足場にしてその上を飛び跳ね踊った。

 背負っていた重荷を下ろしたかのように笑顔で、鶴亀石の手前まで来てくるりと回転して見せた。

 たーたらら、らーららら、と声をつけて岸に飛び移り、お茶室に入っていった。


「もう大丈夫なのかな?」

 法子は伯父さまにしては珍しい楽観的な発言だと思った。


 お茶室からは再会に胸がいっぱいの、女性ふたりの声が聞こえる。

「信也、何か弾くつもりかしら?」


「弾けるなら何でも大歓迎だ」


「私の目には今のままでも十分スゴイ男だと思うが……」


「信也のアイデンティティは音楽よ。今のままじゃ、信也はまだ半分も本人じゃないわ。あなたからお店を取り上げたらあなたじゃなくなるでしょ?」


 そんな阪口家メンバーの勝手なコメントを裏切って、信也さんはお茶室の濡れ縁に出てきた。


 濡れ縁は鏡池に突き出している。たたみ一畳にもう半分を付け足したくらいの幅と長さで、水面までは五十センチは離れている。手すりも欄干もない。

 信也さんは池のほうを、対岸の蓬莱石のほうを見て静止している。


 またピアノ演奏が始まる。オペラ「椿姫」の「前奏曲」の後に、信也さんが歌い始める。


 鍛えられた腹式発声の音量がどんどん上がる。法子の大好きなミルクチョコレート声が響き渡る。

 少しずつ身振りがつき、踊りに展開していく。


 僕の前に現れた

 (さち)と気品のあなたよ

 あの日から震えつつ

 未知の愛を生き

 その思い、鼓動は息づく

 僕の周りここかしこ漂う

 この不思議な、不思議ながら気高い

 拷問のような苦悩と

 (あま)()ける至福よ

 苦悩と至福よ

 あああああ〜あ

 いつまで〜も

 

 法子の下半身からぞわぞわっと寒気が上がってきた。

 池を渡る風全部が信也さんの歌声だ。その風を作っているのが信也さんの舞。

 

 水を打ったような静と(ほむら)()え上がる動、()を掌握し君臨する信也さんの舞が戻ってきた。

 翻る袖、高く上がる朱色の脚、一見、少林寺拳法の型の連続のようでもある。観客全員を異次元にトリップさせそうな情熱の踊り。


 鏡池全体に信也さんが充満した。

 

 ぼうっとした阪口家一同の目を醒まさせるかのように、信也さんは濡れ縁から池の中に飛び降りた。

 水しぶきが花火みたいだった。近くの飛び石に上がって、同じ歌詞を繰り返し舞いながらお社のほうへ歩を進める。


 きざはしから踊り舞台に上がると、鏡池側に向き、「その思い〜」からもう一度繰り返した。

 欄干に身を預け、右手を長く差し出し、くるりと回り、苦しげにのけぞり、空を見上げる。

 鳩尾に拳をつくる。今度は前傾したかと思うと、膝が崩れて舞台に手をつき、それでも心の中の「愛」を失うまいと身体を丸めて守っているように見えた。


 左手を床に伸ばし、次第に身体が力を失う。行き倒れるように停止して、歌もピアノも動きも止まった。


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