その日の朝
翌日曜日、店に出る父と一緒に法子が朝食を摂っていると、伯母さんがやってきた。
「のりちゃん、昨日はありがとうね。なんか、楽しかったみたいよ、おでかけ」
「はい……」
自分は楽しかったけれど、信也さんの本当の気持ちは誰にもわからない、と思った。
心の底では鬱陶しいと思っていたかもしれない。どれが信也さんの本心か、法子にも自信がない。
「あの、信也さん、もうお社ですか? 早く行って見張らないと、お茶室に入っちゃいます?」
「あ、大丈夫みたい。今朝うちのひとがね、『今日はお茶会が入っているからお茶室側は遠慮してくれないか?』って言ったの。そしたら、『心得てるよ、社務所の予定帳ちゃんと見てる』って答えたの。想像つかないほど治っちゃったのね、あの子」
確かに、戻ってきた途端やゴールデンウィークと比べると別人だ。でも奈緒子さん、実のお母さんはまだ安心できないと思っている。法子もそうだ。
お社のお茶室を使わせてくれという一般客からの依頼は少しずつ増えているようだ。
側に古井戸があり、いい水が湧くらしい。枯山水の狭庭と広々とした鏡池の景色は野点にも向く。
濃茶を売っている父のところにも問い合わせが来るという。
父は、
「いいお茶室ですよ、宗教団体の施設だということに問題がなければ、ですが」と答えることにしている、と話した。
「今回、それを利用して、わざわざ予定帳にうその記入をしたんだけどね。信也を騙すのはそう簡単じゃないから」
伯母はいつものイタズラ少女のような笑顔だ。
父親が出勤のため席をたつのを待ってから、法子は尋ねた。
「奈緒子さん、もっと早く会いに来れなかったんですか?」
生みの母親が今まで信也さんを放置したことが、不思議でならない。嫌味になるとはわかっていても、つい言葉にしてしまった。
丹沢山荘は距離としては奈緒子さんのうちに近い。でも千葉県といっても東京の通勤圏、新幹線に乗ってしまえば京都だって簡単に来れる筈。
「いやね、のりちゃん、来てるわよ。お腹痛めたわけじゃない私だって、ちょこちょこ様子見に行ってるのに。いつもふたりが楽しそうに遊んでたから声かけなかっただけで」
「奈緒子さんも?」
「ええ、丹沢から出て来てすぐに一度、端午の節句ができないかってこどもの日に一度」
「うそでしょう? 顔見せて一緒に柏餅食べてくれたらよかったのに!」
「そうしないほうがいい気がしたって言ってた。前夜に祭壇に入った話をしたら、『まだ私の出番じゃなさそう』って」
「伯母さん、奈緒子さんと仲いい?」
「もちろん。養子の話が来たときもその後も連絡取り合ってる。私の父は彼女の恋人をしてしまって信也ができて、そのくせ母は、奈緒子さんを娘のように思って仲良しだったのよ? 東京でも何度も会ってるわ」
「そうなんだ。何か私ひとりが信也さん係な気がしてた」
「ごめんね、任せっきりにしちゃったよね。でもこっちも何もしてなかったわけじゃないのよ? ただ信也が、のりちゃんといるといい顔するから。あの子すぐ皮かぶるじゃない? 猫とかトラとか狐とか。今は無理な背伸びはさせたくなかったし……」
それはわかる、と法子は思った。父、克也の前で見せた外面だけの信也さんにはなって欲しくない。
「今回の企画もね、早くから案は出てたの。信也がピアノの音を受け付けるかどうかが心配で。早いうちに後藤音楽教室にピアノ弾きに行くと予想してたんだけど、お社から出ようとしないし」
「後藤さんに挨拶しなきゃ、とは言ってましたけど」
「でしょ? 演奏したがってないのよ。踊れない、歌えないって言ってたでしょ? その上、弾けないんじゃないかって」
「もうこんな演奏はできないって、昔の録音聴いてた……」
「そんな悲しそうにしないで、のりちゃん。そこまで治ってるの。
のりちゃんが恵美さんやお祖父ちゃんに報告してくれること、全部奈緒子さんに伝えてあるから。
それと自分が電話で話した様子と合わせ考えて奈緒子さんが言うには、ここまで戻れば後は、踊りたい、歌いたい、弾きたいって思わせれば済むって。
だから奈緒子さんの出番なのよ。昔ふたりで連弾した曲たちを、さくらさんに頼んで再現するんだって。
『お父さんが死んで自分も半分以上死んじゃった気がしてるみたいだけれど、アンタはいったい何でできてるの? 何か忘れてるでしょう?』ってピアノで問いかけるの。
お父さんが誰だか知らないときだって、音楽は好きだったじゃない、私のピアノ聴きながら育ったくせにって」
「あの、私は何をすればいいですか?」
「いつも通り信也の傍にいてやって、嫌じゃなければ。あの子が何を言い出してどんな反応するか、わからないけれど。それから、奈緒子さん、後でのりちゃんに会いたいって」
「あ、はい……」




