青造・信也親子 ――信也の語ったこと
小学五年生、夏休みが終わって、学校が落ち着いた頃だった。国語の時間に詩を書かされた、『お母さんかお父さんのことを詩に書け』って。
クラスメイトは皆さらさらと鉛筆を走らせるのに、自分ひとり手が動かなかった。
放課後「加藤君、もう少し頑張ってみなさい、何か書けるだろう」と30分残された。
その頃、僕、加藤信也君だからね。お母さんの苗字。
「書けるならとっとと書いている」と不貞腐れた。
国語は退屈で嫌いだったが成績はよかった。古い言葉や難しい漢字もなぜか頭に入っている。それが小四の夏休みから預けられていた、長慶家のお蔭かな、なんて思っていた。
父親はいなくても、母のことを書けばいいと思うだろう?
でも書けなかった。母親は自分をおいて結婚した、新しい人生を求めていったんだ。
「僕は邪魔者」、そんな言葉が棘のように心の奥に突き刺さっていた。
とぼとぼとじっちゃんちに帰った。堂々とした門構えに「長慶青造」という大きな表札。
じっちゃんは遠い親戚のお爺さん、地続きになっている神社の神主で、立派な人だと思われている。
口数が少なくて、何考えているか知らないけれど、初詣に見せてもらったお神楽舞はひどくかっこよくて気に入ってた。
それでも僕の名は加藤信也だ。長慶青造と比べるとやはり場違いだと感じた。自分は行儀見習いに来ている「イソーロー」だと思っていたんだから。
座敷にいって帰宅の挨拶をした。
「ただいま戻りました」
「いつもより遅かったのではないか?」
じっちゃんは目を上げてもくれない。
「詩が書けず居残りでした」
「詩? 国語は得意であろうに」
本をめくりながらあまり興味はなさそうに訊いた。
「お父さんかお母さんの詩。僕には書けません」
「なぜかな? お母さんとは電話でよく話しておろう?」
返事ができなかった。黙りこくった僕にじっちゃんは、
「なら今晩書きなさい」
と、さも簡単そうに言った。
僕は黙って首を横に振った。なぜか涙が出てきた。
「信也、こっちに来なさい。私の横に来なさい」
そう言われて、座卓をぐるりと周った。掛け軸の垂れた床の間とテーブルの間、じっちゃんの横に座った。
「父親のことを書いたらどうだ?」
じっちゃんが余りに当たり前のことのように発音したからイラッとした。
「お父さんはいない。僕がいるつもりになっているだけで、どこにもいやしないんだ!」
大声で叫んでいた。涙があふれ出した。
何度訊いてもお母さんは答えてくれなかった。お父さんがどんな人でどこにいるのか。
そしたらふと声がした。
「おまえの父はこれにある」
しゃくりあげながら聞いたじっちゃんの言葉が、すぐには理解できなかった。
「おまえがこの家に住んでいるのはここが父親の家だからだ」
僕は「嘘だ」とも言えずじっちゃんの顔を見上げた。
「そんなこと聞いたことがない」と心の中に言葉が浮かんだ。でも口にできずじっちゃんが肖像画であるかのように眺めていた。
「長らく黙っていたが私がおまえの父親だ。それともおまえはこんな年寄りの父親は嫌か?」
僕の頭は混乱の真っただ中。
じっちゃんが僕のお父さん? 子どもの頃からよく連れてこられたこのうち、お菓子をもらったり食事をしたり、でもじっちゃんはいつもじっちゃんで……。
「おまえの母親と結婚することはできなかった。そのくらいのことはもうわかる齢であろう?」
そりゃ、ばあちゃんがいて、彬文のお父さんはふたりの子どもで、僕のお母さんは、お母さんは……。
「うわぁ〜っ」
何倍もの大声で泣きだしてしまった。
足の届かない筈の海で溺れかけて、足元にやっと海底を踏み当てたみたいだったのかもしれない。
じっちゃんは僕をあぐらの足の上に乗せた。
「泣かずともよい。おまえの父親はちゃんとここにいる」
初めて抱っこしてもらった、とその時は思った。じっちゃんの着物の胸元をしっかり掴んでいた。もう逃がさないとでもいうように。
「普通の家族のように三人一緒に暮らすことはできぬがおまえが何ら恥じることはない」
「じっちゃん……おとう……さん……?」
「ふたりっきりのときはそう呼んでいい」
「おとう……さん」
「信也」
泣きやむまで抱きしめていてくれた。
少し落ち着いてからおずおずと訊いた。
「お父さん、僕、邪魔? 堀内さんと暮らして欲しい?」
じっちゃんが父親として僕を愛してくれているなんて、想像できなかった。
「違う、奈緒子と一緒がいいだろうと思っただけだ」
その一言でやっと、お父さんが見え始めた。
「詩を書いてみなさい」
「はい」
僕はじっちゃんの膝から降りて横に座った。
じっちゃんの手が、紙と鉛筆を目の前の卓の上に置く。お父さんの手の筈だが実感はまだない。
床の間側から見ると座敷は、八畳なのか十畳なのか広々と景色が違った。いつもはじっちゃんと掛け軸と座卓しか目に入らないんだ。
読書に戻った横の人を何度か見上げた。
――お父さん――
詩を書く間もなく、みどりさん――お手伝いさんだけど――が「お風呂の用意ができました」と告げに来てしまった。
じっちゃんがいつも一番風呂だ。じっちゃんがはいらないと後の者がはいれない。僕はしぶしぶ自分の部屋に戻った。
学習机について、じっちゃんがくれた紙と鉛筆を目の前に置いた。
詩を書く。何を詩と呼ぶのかよくはわからない。
だらだらしてなくて、一ページに白いところが多い。漠然と「歌いやすいもの」が詩だと思っていた。
じっちゃんの姿を瞼に浮かべて書き始めた。「父」という言葉がパズルのようにぴったりとはまりこむ。一瞬にして書けた。
父
古い書物を読む父の
ページをめくる指を見る
あぐらをかいたその足の
横に静かに正座する
大きな背中にそっとよりそう
締切には遅れたけど、明日担任に見せてやるくらいはしてもいいだろうと思った。「書いてやったぞ」って。
それきり詩のことは僕の中で終わっていた。
それよりも、「お父さん」とまた呼べるときがくる。そう想像するだけでうきうきした。
朝の「いってきます」、夕の「ただいま」の挨拶にじっちゃんと呼ぼうか「お父さん」と呼んでみようか、考えてにやけていたんだ。
そしたら数日後の国語の時間、先生に僕の詩を読み上げられてきょとんとしてしまった。
担任は「とてもよくできているので、コンクールに応募する」と言う。
他人に音読されてみると、たった五行で言いたいことは何も言えてないと感じた。それなのに先生は、「お父さんを好きな気持ちがじんじんと伝わってくる」と言い、皆が拍手をしてくれた。
狐につままれた気分で学校を後にした。家に近づくにつれ、嬉しさの方が勝ってきた。
帰宅してすぐ「ただいまの挨拶」にじっちゃんのいる座敷にいった。
「ただいま戻りました」
「うむ、何かいいことがあったのかな?」
「はい」
廊下を歩く僕の足音が弾んでいるの、気付いてたんだ。
原稿用紙を座卓の上に置き向きを変え、じっちゃんのほうへ押し出した。
「いいリズムでよく書けている」
じっちゃんの声は少し震えていた。
「お父さん……」
言ってみた。
「こっちに来なさい」
じっちゃんが右手を伸ばして、僕は気がつく前にお父さんの膝の上に乗っていた。
「あのね、あのね、コンクールに出すんだって」
しがみついた。
「入賞間違いない。賞など取らずとも私には身に余る」
お父さんてばね、居残りさせられた日、僕の帰りが遅くておろおろしてたんだって。本を開いただけで読書もできずに卓についていた。動揺を見せたくないからうつむいてたの。
詩が書けないって言ったときも、
「音楽が得意で、替え歌ばかり歌っている信也に詩が書けないはずはない。単にテーマが父母のことだからだ。両親のことは信也の弱点だ、そしてその元凶は自分以外にない」って思って決心したんだって。
「生まれてから幼稚園に上がるまで、いや母親の腹の中にいるときから、おまえはこの家に住んでいたんだよ。私は父としてずうっとおまえを見ていたよって、全部話してしまいたかった」って。
「ね、いい話でしょ?」
信也さんはにっこりとして感動の中に漂っていた法子を現実に引き戻した。
「げきてき、ですね」
「そうでしょ。そして、好きになっちゃうでしょ?」
「なっちゃう、気がします……。その人が人生の全てになっちゃいそうなくらい……」
信也さんの笑顔はろうそくの火が消えるように過ぎ去っていった。




