信也さんの部屋
翌日は社務所で、「信也さん来てないよ」と言われた。
「自宅に帰ったままだって、神主さまからのりちゃんにご伝言」
「あ、わかりました、ありがとうございます」
昨日、伯父伯母と水入らずで過ごせたのだろうか?
親子というより信也さんにとっては、伯父は親神官、伯母はお姉さん、だけれど。
家に着いたら母が、
「信也、ずうっと電子ピアノ弾いてるみたいよ? 『あれだけ弾けるならもう大丈夫だ』っておじいちゃんも言ってるんだけど。それにしてもお腹すかせてるかもしいれないから、これでも持っていって」
母はラップのかかったおむすびのお皿を指差した。
二階同士だからか、法子の部屋には信也さんの部屋からの音楽が、真っ直ぐ響いてくる気がする。服を着替えて一階に戻り、庭越しに離れへ入った。
「信也さん、おむすび持ってきました。お腹すいてませんか?」
ノックをしても、部屋からは音楽が聞こえるだけで返事がない。「演奏に夢中になっているのだろうか」と片手でそっとドアを開けた。
「信也さん!」
ピアノは無人だ。信也さんはベッドの上に寝そべっている。体調悪いのかと思った。
もう似合わなくなってしまっている学習机の上におむすびの皿を置いて、上から見下ろした。
信也さんは大きな目を開けてどこともなく、虚空を見ているようだった。大きな涙が目尻からひとつ、ふたつと耳のほうに流れた。
――昨晩が外面。これが信也さんの、今の等身大の内面だ。子供の振りで無理に明るくしてもない。自分の心を守ってもない。剥き出しの悲しみ。
呑まれちゃだめだ。この悲しみに同調したら、一緒になって泣いてしまう。
それが相手を安心させるときもあるかもしれない。でも私は信也さんほど大切な人を亡くしたことがない。表面だけもらい泣きしても浅薄なだけだ。
くっと拳を握ってから声を出した。
「信也さんが弾いてるんだと思いました」
返事がくるまで数十秒かかった。
「僕、こんなにじょーずじゃないよ……」
「え、これレコードか何かですか?」
部屋中に細心の注意で置かれたサラウンド・システムから溢れ出ている曲の、音源はどこなんだろう?
「これはねぇ、とっても幸せな高校生のお兄ちゃんが弾いたの。大好きな人に聴いてもらおうって一生懸命。その人の好きな曲をひとつずつ、一音ずつ」
子供言葉ながら、上を向いたまま、感情が止まってしまったように話した。
「そのひとはね、ここのリットはいいな、このタメが威厳を醸し出す、とか、その和音展開はおまえのオリジナルか? 『めぐみ』の手ぶりにぴったり合うな。原曲より踊り易いとか、他の誰も気づかないことをコメントしながら聴いてくれた人なの」
*リット:リタルダント 次第に遅く*
「だからこんなに音が煌めいて、僕にはもう、こんなことできないんだ」
自分が、信也さんが高校時代に、お父さんのために録音したものだ。
その頃はCDを焼いたのだろうか、USBに落としたのだろうかわからないけれど、愛用の電子ピアノに記憶されていたんだろう。
学校にも行かなきゃならない、受験勉強もある、お社のこともある。京都にいて、お父さんと一つ屋根の下で暮らすことはできないままで、恋焦がれるように弾いたピアノ曲集だ。
その頃法子は小学生で、家やお社で信也さんをみかけていた。いつも明るく笑いかけてくれるお兄ちゃんが、こんなに深く人を好きでいたことなど、かけらも気付きもせずに。
少し語調が変わる。
「でもね、電子ピアノってね、余韻の長さの設定はできるけど、響かせたいとこだけ伸ばすには限界があるんだ。
お父さんはね、いつも余韻ってことを考えてた。自分が楽器を奏でるときも、僕の演奏を聴いても。普通のピアノでも鍵盤から指を離すのを遅らせられないかとかペダルが、とか。
だから本物のピアノのほうがいいけれど、となると録音が綺麗にできない。どんなに頑張ってもマイクで拾うと雑音が混ざる」
「いつか、ピアノ聞かせて下さい。私にも」
「弾けるようになったらね。音楽教室のピアノ借りよう。後藤の皆にも会いにいかなきゃなあ」
――今のはやんわりと断られたのだろうか? それとも、本当にまだ、ピアノ弾けないのだろうか? 歌えない音があると言っていた。弾けないから昔の録音を聞いていたのだろうか?
後藤さんは近くで音楽教室を開いている遠い親戚だ。長秋祭で雅楽を披露する氏子さんたちは皆、後藤音楽教室で練習している。
信也さんみたいな神官候補になると、小学校のうちからいろいろな雅楽器を習得する。伯父や祖父は琵琶だけでよかったみたいだけれど。
最近は宗教と関係なく、ピアノ教室としても繁盛しているようだ。
信也さんは子供の頃、引っ越してきた途端、お祖父ちゃんに教室に連れて行かれて、ピアノを弾きまくっていたと聞いている。
部屋の主は、ムクッと起き上がって両目をごしごし拭いた。そしておむすびに手を伸ばしてかぶりついた。
「お祖父ちゃんまでごまかされちゃいました」
「何のこと?」
「これだけの演奏ができるなら信也はもう大丈夫だって」
「残念でしたあ。録音と生演奏の区別もつかないなんて、困った元神官候補だ」
「お母さんだって、『そういえば昔もこんな風に同じ曲ばかり狂ったように弾き続けて』って」
「え、十二曲全体にリピートかけてたから、そんな単調じゃなかったハズ」
「だからごまかされちゃったんです、生演奏だって。お夕飯、伯母さまとですか? それともうちに来ますか?」
「姉さんがカレーを作ってくれてるらしい。それを食べてからお社に帰るよ」
「ひとりで食べるんですか?」
「そうだね、それがお昼の予定だったんだ。音楽かけたら動けなくなった」
「伯母さまの帰り遅いなら、うちで食べませんか? 私も伯母さまのカレー食べてみたいです」
「のり子も結構、してみたいことたくさんあるんだね」
信也さんが茶化した。
「そうでしたっけ?」
「五音舞がみたいとか、ピアノとか、カレーとか。我がままなんだ」
「え〜、信也さんがだめって言わなければ、それは我がままの部類には入らないんです。甘えんぼです」
アハハと笑ってくれた。
「もうひとつ甘えんぼあります。信也さんの袴姿がみたいです」
「我がまま、ワガママ、のり子のわあがままー」
不思議な節をつけて信也さんが言って、ふたりでキッチンのカレーを見に下りた。




