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帰ってきた人  作者: 陸 なるみ
第五章 親というもの
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父と信也さん


 団欒の夕食が終わる頃、玄関に音がして、母が父を迎えに出た。

 父はいつも通り、奥に着替えに行く前に茶の間に顔を出し、祖父に「ただいま戻りました」と告げた。


 そして信也さんをじっと見つめ、

「もういいのか?」

 と訊いた。


 どういう意味だろうかと法子は思った。「もういいのか、狂人具合は?」とでも言いたいのだろうか。


 自分がテストのことで怒られるのは仕方ないにしても、信也さんに当たる必要はない。ついつい、信也さんを弁護したい気持ちになる。

 

「はい、お社で皆さんに、特にのり子さんにはお世話になっていますが」

 信也さんは悪びれた様子もなく微笑む。

「ただ、今回の中間テスト、あまりいい点が取れなかったそうなので、見せてもらいに来ました」


 ――えっ? 戦略? 先手必勝?


 父が見せろというまで信也さんは黙っていると思っていた。


「ああ、そうらしいんだ。食後に見せてもらうつもりだ」

 祖父や伯父とは違って祖母譲りで太めの父は、どすどすと足音を立てて奥の部屋にさがった。


「のり子、今のうちにテスト全部見せて」


 信也さんが笑いかけて、法子は急いで二階へ上がり、七教科分のテストの問題と答案を取りまとめ、降りてきた。


 信也さんと祖父は卓袱台を離れ、窓際に置いてある二人掛けソファに座っている。和室にはそぐわないけれど、お祖父ちゃんがテレビを観るとき用のものだ。もちろん、今はテレビはついていない。


 つまらない見栄だとわかっていても、ついつい百点満点がとれた国語を一番上にしてしまう。次が98点の英語。


 受け取った信也さんは成績のいいものはささっと選り分け、祖父の膝に置いた。

 でも全部目を通す前に襖が開く音がして、ソファの横に正座した法子の手に一式返してきた。


 父は黙々と食べている。祖父と信也さんは先日の柏餅の「弓張り月」さんについて雑談を始めた。

 店がどこにあるかとか、今の時期「若あゆ」とか水羊羹も美味しいだとか。


 法子は一番上になっていた数学の答案を見て、うなだれていた。

 母が食卓を片づけ出したのを見て取って、卓の上を拭き、皆にお茶を淹れ直した。


 父の沈黙は一種の武器だ。法子に向かって黙って伸ばされた手に、ソファの横に置いていた紙束を渡した。

 父は点数を見て顔をしかめ、答案を卓袱台の上に並べ置いた。


「信也、これでわかったろう? 法子を返してくれないか?」

 父がテストを睨みながら、唐突に信也さんに問うた。


 私の勉強不足の問題が、早速信也さんのせいにすり替えられている。うんざりだ。


「僕はもらっていません。さんざん心配はかけましたが」

「もらう」だなんてお嫁さんみたいな言い方されて身体中が火照った。

 父はテストを睨んでいるのか、信也さんを睨んでいるのかわからなくなってしまっている。


「神社から返してくれと言ってるんだ」

「神社も別にのり子にとり憑いているわけでもないです」


 信也さんは父が広げていない、試験問題のほうのプリントを手に取って眺めていた。静かな声で話した。


「のり子は社内(やしろうち)では一番クールで落ち着いています。さすが、叔父さんの娘、純子(じゅんこ)さんの孫娘です。信心も避けて通る」


 父が「どういう意味だ」と不可解な顔をしてみせた。

「その証拠をお見せしましょうか。ここに現代社会の設問があります。答案、見せて下さい」


 ――え、何、どの問題、もしかしてあの無記入の?

 

 信也さんはあろうことか、問題を読み上げてしまった。


「子供でも大人でもない青年のひとりとして、好ましい悩みの解決方法をひとつ上げ、その理由を述べなさい。叔父さんならどう答えますか?」

「今、私のテストをする必要はない」

 父は恥ずかしいほど不機嫌丸出しだ。


「のり子の答えは白紙です。長秋(ちょうしゅう)神道(しんとう)信者(しんじゃ)なら何かもっともらしい解答を書き連ねたと思いますよ。

 『神主に相談する』とか何とか。『悩みは口に出してみましょう』と説くのがうちの神主。

 それに対して歌ったり、踊ったり、助言したりするのがうちの神社の仕事のはずですから」


 苦虫を噛み潰したような顔というのは見たことはないが、今の父の顔が近いのかもしれない。


「他人を助けるはずの神官も、自分ひとり救えない。どれだけ音楽ができても、教典を読んでも、落ちるときは落ちる。のり子はそれをちゃんと見ている」

 信也さんは笑顔で自分のことを評している。


 父に対する信也さんはひどく大人っぽい。神官として信者さんの相談を受けているような様子だ。


 ――いつのまにここまで治ったのだろう? 


 京都に戻った途端は、自分を理解してくれそうな人、数人ばかりしか見えないと言っていた。


 父は法子を守ろうとするばかりに、信也さんの敵に廻る。それがわかっていながら、正面から丁寧に対応している。


 ――信也さんの思惑がわからない。どちらに話をもっていかれるのか、うすら寒い。


「わかった、宗教にかぶれてはいない。でも学業が疎かになっている。実際、クラスの平均点も取れない成績なんだろう? 時間がないのか、心に余裕がないのか、それとも授業についていく能力がないのか、どれかだろう?」


「いえ、全然心配ないですね。簡単なことです。期末試験にはトップの成績に戻ってますよ」

 信也さんは勝手に断言してしまった。


 ――その自信はどこからくるの? もしかして巫女を止めさせたいの? 私を遠ざけるためだったらどうしよう。


「化学と数学の解答用紙、見せて下さい」


 父から答案を受け取って、信也さんは目を通している。点数の低さより、自分が書いて消した、その戸惑いを見透かされるようで恥ずかしかった。


「化学、今から言う二つの呪文、聞いたことない? 一つ目、『水兵リーベ僕の船、なあ間があらあ、シップス来らあ』。二つ目、『か、貸そう、まあ、当てにすんな、ひど過ぎる借金』」


「二つ目は、似たようなのを先生が唱えてました」


「じゃ、それを一つ目と一緒に百回唱える。裏に書いておくから。それで解決。元素の周期表を部屋に貼っておくこと。ついでに世界地図もだね」

 法子は目を白黒させてしまった。


「数学、解の公式の憶え間違い。もしくは思い出し間違い。落ち着いてもう一度解いてごらん、全部できるから」


「それだけ?」


「そう、それだけのこと。焦っちゃってドギマギしただけ。全部頭に入ってる。お社にいるときみたいにクールでいられたら、こんな点数にならなかった。のり子は本番だと思うと力むほうだよね」


「この人はいったい誰なんだろう?」と法子は思ってしまった。

 お社の小川に木切れを流して遊んでいる男の子とは、到底同一人物と思えない。


 父は立て板に水の信也さんの解説に返す言葉もないようだ。

「叔父さんがプレッシャーかけ過ぎたんじゃないんですか?」

 と言って、逆ににっこりと笑いかけた。


 ――ああ、信也さんの武器はこの笑顔だった。

 

「僕は高一の一学期、中間テストは受けてません。花町通いで忙しかったんで」

「ああ、あの頃、祇園でお琴習ってた頃だな」

 ふと祖父が口をはさんだ。信也さんが父を煙に巻くのを黙って聞いていたのに。

 

 ――そうだ、信也さんは「煙に巻いて」いるんだ。


 法子は自分がふと思いつく言葉が、妙に事の真相をつくことがあるのを知っている。

 済んでしまったテストにうだうだお小言されてもどうしようもない。次、頑張ればいいだけだ。

 

「ええ、不登校の不良の頃です。夏休みに補習受けさせられましたが、何とかなりました。だからのり子も心配要らないです」


 父が信也さんに冷たいわけがわかった気がした。


 ――やりこめられるからだ。敵わないんだ。

 

 信也さんが特別なのか、神官になってからいろんな信者さんの悩みを解決してきたからか、自分も悩みながら成長したからか、それはわからない。でも信也さんの目の付け所は父にはない。


 お祖父ちゃんは齢の功だろうか、それとも神官修業をしたからなんだろうか、信也さんに気圧されたりしない。

 もしかしたら信也さんの思惑がわかっていて、助け舟を出したのかもしれない。

 

 それにしても、自分の試験結果も好意を寄せていることも、信也さん自身には何の責任もないのに、当たり散らして見える父が情けなく思えた。

 逆にテストの悪さを利用して、娘を信也さんから引き離そうと画策しているようにも見える。


 勉強さえちゃんとできるなら、神社に行こうが行くまいが、父に止める権利はない。信也さんを好きでいようが諦めようが、お父さんには関係ない。

 

 信也さんは私の恋心を否定しない。きっと気付いている。何も言わずに、一過性のものと時を置くつもりかもしれない。


 普段は子供の信ちゃんの遊び相手と見做していても、その向こうの大人の信也さんはきちんと法子のことを考えていてくれる。恐らく従兄として、保護者の一種として見ていてくれている。


 法子の恋に脈がなければ、折りを見てはっきり振ってくれると思う。好きになってしまったら、相手が実の父親でも好きでいるしかないと腹を括って成長した人だ。それがどこまで恋心だったのか、法子にはわからないとしても。


「叔父さん、僕は追ってご相談したいことがあります」

 信也さんが改まった声を出して、家族の皆がドキッとした。


「いずれ、お社で御神籤(おみくじ)や絵馬だけでなく、観光参拝客相手のお土産物っぽいものを売ってみようかと考えています。ただ、社務所は宗教団体としての簿記しか知らない。

 商売としてする場合の帳簿の付け方や税金対策、そしてできたら神社のホームページを作るご助言が欲しい。その折はどうか助けて下さい」


「あ、ああ、私にわかることでよければいつでも……」

 父はやっとのことでそれだけ返答したという態だ。


「このまま法子に巫女を続けさせてくれ」というんだと皆が予想したから、茶の間の空気がたちまちガクッと折れた気がした。


 法子に至っては緊張の中で、もしかしてもしかして、「法子さんにはいつも、自分の側にいて欲しい。いずれお嫁に欲しいから許嫁(いいなずけ)に」なんて夢さえも、瞬時に思い描いてしまったのだ。


「ありがとうございます、これで安心です」

 信也さんは急に立ち上がった。

「さて、僕は久々に親孝行に行ってきます。のり子もしっかりね、ご両親を大切にすること」

 と、急に矛先が自分に向いて焦った。


 本人はすたすたと玄関から靴を取ってきて、縁側から庭に降りていった。

「恵美さん、ごちそうさまでした、皆さん、お邪魔しました」と言いながら。

 

「あれが今の信也なのか?」

 父が母に訊いている。その言葉は法子の気持ちにぴったりだった。

「話に聞いていた様子と全く違うじゃないか」


「驚いてるのは私も同じだ」

 祖父が答えた。

「私も……」

 法子も口ごもった。


「ひとつ言えるのは、あれが信也の一番の外面(そとづら)だってことだ。表向きの、本音や本性を隠しまくった姿だな」

 祖父の言葉は法子の心に浸透した。


「それにしても……何者なんだ、アイツ……」

 お店に忙しくて小さい頃の信也さんとは余り交流のなかった父は、大人の信也さんも子供の信ちゃんも不思議でたまらないだろう。


 法子はつぶやいた。

「今日、自分で妖怪小僧だって言ってた……」

「あり得るわ」

 母が同意して、祖父も父も「煙に巻かれて」それぞれの部屋に解散した。


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