阪口家へ
信也さんがうちの方向ではなく、お社の東側に歩いていくので怪訝に思った。ふと立ち止まって、
「のり子、厨にお夕飯要らないって言ってくれる?」
と甘え声を出した。
今の時間ならもうできている、「担当の方に悪いな」と思っているらしい。自分よりよっぽど周囲に気を配れている。
その後、信也さんは厨の前を通ってお社の前面に出、柏手を打ってからおどけた風に唱えた。
「懐かしき〜坂の麓の離れ家に〜深夜現る妖怪小僧〜」
法子は「何それ」と思ったけれど、本人に突っ込むのは止めた。
鏡池の廻りを歩き、お茶室の裏の生け垣の間を抜けた。確かにうちへ向かっている。
昔は裏山のほうへ上がる坂があって、その麓に住んでいた分家だから、坂口と呼ばれるようになったと聞いている。宗家は今では長慶と名乗っているけれど、元々、長慶院という苗字で、うちは「坂口長慶院」、余りに長ったらしいから坂口になって、いつからか、こざとへんに変わったそうだ。
社から見て大阪の方向にあるからかと思ったら、「別に関係ない」と祖父は言っていた。
今はお茶の葉を売っているが、阪口家は代々、漢方薬局のようなことをしていたらしい。
そう思い巡らせて法子は、信也さんのお参りの言葉は恐らく、「阪口家に行きます」という意味だろうと思った。
信也さんは身体を上下させながら、楽しそうに歩いた。
「何でそんなに前向きなんですか?」
法子は恨み言のように声を低くした。
「恵美さんに会えるから。まずは、お礼。真さんたちがどうしてるか聞く。それからじいちゃんのご機嫌伺い。うちの池の鯉にご挨拶はもう暗いかな。姉さんの声がまだ聞こえるか確かめる。楽しいことばかりじゃん」
「うちの父は?」
「克也叔父さんが帰ってくるまでに、何か名案考えつくさ」
信也さんらしいコメントだと思った。昔通りの、明るいままの、子供に返る前の。
でも法子は信也さんが治ったと手放しでは喜べない。まだ大人と子供が点滅している、と思う。
横に見上げる信也さんは背が高い。百八十にちょっと足らないくらいだろうか。
神官の水を打ったような静かな足取りじゃない。舞のステップでもない。スキップの手前のようなうきうき加減だ。
古い格子戸の重たい玄関をがらがらと開ける。
「ただいま」
法子がそう言うとお母さんが台所から顔を出して、「今日は早かった……」と言いかけたところで廊下を転がるように出てきた。
「信也!」
うちの高い上がり框から転げ落ちないように、信也さんは母の胴を抱きとめた。
「恵美さん」
「もう、アンタは……さんざん心配したんだからね」
「うん、ごめん。あの、お弁当ありがと……」
「そんなことどうでもいいでしょ、やっと、やっと会いに来てくれた……」
「ご両親は? 真さんは元気? 智子さんは?」
「元気、元気だから、もう齢だけど、アンタのほうが心配だったの」
母は信也さんの髪をぐしゃぐしゃかき混ぜている。
法子はふたりが抱き合っているのを見てどこかくすぐったい、複雑な気分がした。
オバサンになれば、信也さんに抱きついてもいいのかしらと心の中でひねくれた。
何も言わずに靴を脱いで母の横を通り過ぎ、二階の自分の部屋に向かう。
着替えて階段を降りてくると、茶の間からお祖父ちゃんの声が聞こえた。
「やっとここへ来れたんだな?」
「うん」
「阪口になんてなるんじゃなかったと一生泣いてるのかと思った」
自分も聞いていい会話なのかどうかわからなかったけれど、立ち聞きも嫌だし、法子は部屋に入って自分の定位置に座った。
ふたりは話題を変えたりはしなかった。
信也さんは、
「それはひどい。ここでも仲良くできなきゃ、僕は孤児院に行くしかない」
と言って薄く微笑んでみせた。
「と、おまえは十二才の長秋祭のあと泣いたんだったな。あの発言は青造の、人生最大の汚点だ」
おかずを卓袱台に並べていた母が口をはさんだ。
「汚点なんて、青造さんにそんなものないでしょう?」
「あるよ、ありあり大ありだ」
と男ふたりは顔を見合わせて笑った。
「十一才の子供に向かって青造が何と言ったと思う? おまえはもうここにはおけない。母親のところにも行けない。阪口信也にならないなら、孤児院に行くしかない」
「そんなおどしみたいに……」
「完璧おどしだよ。実の息子にだよ、信じられる? 最大の黒歴史だ。後で聞いたらいじらしくなっちゃったけどね。宗教一辺倒の長慶にはしたくない。堀内さんには絶対渡したくない。自分の目の届くところにいて欲しい。頼むから阪口克俊のところにいてくれ、その一心だったって」
「ほんとにでっかい子供を押しつけられたもんだ」
お茶の間に明るい笑いが響いた。
信也さんが改まった声で頭を下げた。
「ご心配かけて申し訳ありません」
大人っぽく、たぶん年相応に、話している。法子は内心驚いた。
「構わない。おまえは東京で青造の心配ばかりしていたのだろう? 今度はおまえが心配かける番でもいい」
「そんなこと言ってくれるの、じいちゃんしかいないね」
「あのな、心配ってのは心配できる者がするもんだ。こっちに余裕がなければ他人の心配などできないよ。まあ私もそろそろ、恵美や法子に心配かける側だからな」
「え〜、僕は? 僕は頼ってくれないの?」
「信也はまだだめだな」
大人三人笑っている。
「じゃ、ご飯にしましょう」
母はいつもよりとても楽しそうにご飯をよそっている。法子はお漬物やお汁、いろいろを卓袱台に運んだ。
四人が席に揃うと、祖父が訊いた。
「加代は呼ばなくていいのか?」
「後で行くって父さんに言っといた。あまり遅くならなければ大丈夫だと思う」
法子は首を傾げて尋ねた。
「深夜に行くって言いませんでした?」
ブフフと変な音をたてて発言者が笑う。
「のり子って全部ひっかかるから面白いよね」
バカにされているらしい。憮然としてしまった。
信也さんは人差し指で自分の鼻を撫でながら、
「信也現るって言ったんだよ」
と笑った。
「もう、妖怪小僧」
「深夜だとふたりとも寝ちゃうって知ってるもん。克也さんに会うほうが先らしいんだ」
「信也さんってこんな困った人だったわ」と茶化そうとしたら、自分のテスト結果のフォローのために来てくれたんだということを思い出さされた。




