襖越しの伯父の話
伯父は生真面目な神主さまだから、不信心な父親と弟の住む家には少し距離を置いている。だからわざわざ来たのは信也さんのことだなと思った。
茶の間で世間話をしているうちに、母が「あんたは二階へ行きなさい」と言った。深刻な話になるということだ。
法子は「はい」と表面だけいい返事をして、座敷の押入れに隠れた。押入れの下側は、座敷で寝る祖父が上げ下ろししやすいように、一組の布団しか入ってない。
深刻な話なら、祖父たちは絶対座敷に移動してくる。
押入れの襖越しに法子が聞いた話はこんな風だった。
――――――
信也の心配をする前に、父さん、これだけ弱音を吐かせて下さい。
私は至らない父親ですが、少しでも手助けできたらと思っている。それをこんなに、ここまで突きつけられて、自信がない、築いてきたと思う信也との絆も神主として人を導くことも、長秋神道者として音楽を使って人を癒すことも。
あの子は航くんがすぐわかったんです。
丹沢の道場の木床にうずくまって、小声で歌いながらチョークで数限りない楕円を描いていた。殆ど全体が真っ白になるほど。
私がその光景にぞっとして動けないうちに、航くんは信也にそっと近付き膝をついて、
「何描いてるの?」と声をかけました。
信也は顔を上げて「お父さんの足跡!」と笑った。
「え、もしかして踊りのステップ?」
「うん、最初はね、禹歩だけでいいかなと思ったんだけど、止まんなくなっちゃった。航さんは禹歩できる?」
航くんはさすが、教師だ。子供っぽい信也のそのままを受け入れて会話を続けました。
「僕はできないよ。教わってないから」
「僕はね、お父さんに習ったの。だから描いてみた。習った通りに。それで次は奉納舞でしょ。それでそれで、G線上のアリア。お父さんね、『踊り見ただけでおまえは何の曲かわかるのか?』って驚いたんだよ、僕が彬文のショパン看破ったとき。G線上もね、お父さんが踊って僕が見事に当てちゃって、目まん丸にしてた」
床の上を四つん這いで移動して、
「こっちのはね、鳳凰の踊り。政治家さんのパーティで踊ったヤツの元。お父さんが作ってくれたんだよ、政治ってお金かかるけど、どうなのかなあ、ほんとに好きな人幸せにできるのかなあ。お金寄付するより好きな人と一緒にいるほうが大事だよぉって。ここで踊ってくれたんだよ」
「信也も? 一緒に踊った?」
「うん。いっぱい踊った」
「ここチョークだらけになっちゃったね」
「うん、僕もチョークだらけ。お膝とか肘で消えちゃうからまた描く。最初から描いてもいいよ」
「ね、本社でも信也のお父さんいっぱい踊ったよ?」
「うん、そう……だね」
「どうかな、次は本社で足跡描かない?」
「やだ」
「どうして?」
「あそこじゃふたりっきりになれないもん」
「なれるよ」
「おまえが社に来るなら私は席を外すから」
私は急いでそう言ったんですが、誰だかわかってるのかどうか、訝しげに見つめて、航くんに抱きついて。
「僕ここにいる。お父さんと一緒にいる!」
「京都に来てもお父さんは一緒に来てくれるよ」
「やだ、僕を阪口にやらないで。どこにもやらないで」
うちに来てから悩みながらも納得してくれていると思っていたのに、こんなところで本音をぶちまけられました。動揺を隠すのが精一杯で。
「うちには来なくてもいいから、信也。奥の院に住めるようにしたから」
「奥の……院?」
信也は子供の頃よくしていたように小首を傾げていた。航くんが繋いでくれて、
「お父さん、いつも泊まってただろう?」
「うん……」
「あそこならふたりっきりになれるし、お社で足跡描いてもいいし、お茶室でお琴弾いてもいいだろう?」
「……でもここにいないとお父さん淋しがるよ」
「どうして? お父さんはもう空を飛べるんだよ? 鳳凰みたいに信也を包んで信也と一緒にいてくれるだろう? ここにいなくてもいいんだよ?」
「でも琵琶が鳴るんだよ、夜、ここにいたら琵琶が鳴るの」
「じゃ、琵琶も持っていく?」
「……わかんない」
そう言ってしばらくの間チョークで楕円を描き続けて。
私と航くんは様子を見ようとお茶を淹れて応接間で飲んでいました。
信也が十一才から過ごした京都に、何かアイツを引き止めるものがあって欲しい。それが私の存在ではないとしても、実の姉の加代にでさえよそよそしいのが心底不甲斐ない。
落ち込み焦る私に航くんが話してくれたのですが、高校の時、同僚の進路指導の先生が信也と面談して、「阪口のご両親とはうまくいってるのか」と訊いたことがあるそうで。信也は笑って、
「ええ、一歩下がって僕を支えてくれる頼りになる父です」
と言ったというんです。
そんなこと一度も聞いたことなくて、いつも私には少し突っ張った態度を取っていたから、認めてもらえてるとは思いもしなくて。
その先生はついでに「実のお父さんとは?」と。
「めちゃくちゃ仲良しです。喜ばせたい親がたくさんいると思って下さい。阪口の両親、実の父母、それから実の父の奥さん、最低五人はいる」
と答えたらしい。
信也が達歳の儀の返礼に、輝くばかりの笑顔で似たようなことを言っていたのを思い出しました。
航くんは「相手は信也です。つらいからあんなになってるだけ、悲しみ、苦しみ、淋しさ、いろんな感情を持て余してるだけです。信也は感情の振幅が激しい『火』ですから、気のすむまで父を思わせてやるしかないと思います、さもないと『鎮火』しない」と。
「僕は信也に『木』だと言われてます。リスやカブトムシが集う大樹だと。そうありたい。
『信也の火で焼きつくせるって意味?』と笑いあったことがあります。
その時に、阪口神官は『金なんだ。外は冷たいのに中はどろどろに熱い。僕が近付くと表面は変形するかもだけど、本質は変わらない』、そんなことを言っていました。
信也は阪口さんを頼りにしています。何を言っても、どんな姿見せても支えてくれると思っている筈です」
そこへ信也が戸口から顔だけ出して訊いたんです。
「今日何日?」
私が「4月21日だね」と答えました。
「そう」
とだけ言って道場に戻ったようでした。
何だったんだろうと航くんと顔を見合わせていたら、しばらくしてまた信也が応接間に現れました。
「ねぇ、京都、車で行くの?」
「そうだよ、阪口さんの車で来たから」
「僕はいつも新幹線だったよ?」
「車のほうが新幹線より早いよ?」
「ほんと?」
「うん、乗り変えないし、こだまじゃないし」
「ふうん。チョーク持っていっていい?」
「いいよ、もちろん。荷造りする?」
「うん、お父さんのお洋服たくさん連れて行きたいの。車なら全部持ってけるから。でも琵琶は置いとく。滝の音と合奏するって」
「わかった」
「では阪口さん、宜しくお願いします」
私を斜めに見ながらそんなことを言った。航くんがどれ程慰めてくれても、私には敬語になってしまう信也が哀しくて。
荷物は信也が言うほどにはありませんでした。お義父さんがいつも使っていた旅行鞄ひとつ。他にはアイツにしか見えない荷物がたくさんあるようでしたが。
私は泣いてしまっていて、運転がすぐにはできそうになくて航くんが代わってくれて。
信也は車に乗り込むと、
「あれ、姉さんどこ? 一緒に来ないの?」と。
航くんは私をちらりと見てから答えました。
「加代さんは京都で待ってるよ」
「そうなの? 姉さん出たり消えたりするからわかんなくて」
と、まるでお義父さんより加代のほうが幽霊みたいだ。
「航さん前に座るのぉ? ま、いいか、後ろは僕とお父さんね」
と言っていた。
私などただの邪魔者なんだろうか、信也をお義父さんから引き離した悪者なんだろうか、これからどういう顔して接したらいいんだろうかと助手席でもっと泣いてしまった。