こどもの日 ② 柏餅
お弁当をもらい、蓬莱石側の池の縁に並んで食べた。信也さんはすぐ傍まで泳いでくる鯉にご飯粒を分けてあげていた。食べ終わったかと思うとじっとお茶室のほうを見ている。
神主の伯父が言っていた通り、ここは信也さんの領地だ。お社も池も裏山も、身体の一部みたいなのかもしれない。
子供の頃、ずうっとひとり遊びしていた姿が想像できてしまう。転校してきた学校では無理に明るく振る舞っても、ここでは淋しさの化身のように。
「お茶室行ってみますか? 信也さんのお琴、あそこにあります」
返ってきた言葉は妙に弾んでいた。
「お茶室じゃないよ、柏餅を見てるの」
「柏餅?」
「うん、今年の柏餅の方角はあっちらしいから」
「そんな、恵方巻きじゃあるまいし」
「社務所にもなかったんでしょ? お節句の神事は入ってない。となると誰も買いに行かない」
「加代伯母さんが持ってきて下さるはずです」
「姉さんは、今日はお師匠さんの日。子供の部の舞台発表会があるって昨日言ってた」
「じゃ、おでかけ?」
「うん。となると、残るチャンスはあっちの方角しかない」
「柏餅が飛んでくる?」
「僕の家には誰もいない。携帯も切ってる。
となるとのり子の家に電話する。じいちゃんは絶対いる。
克也叔父さんは抹茶を売ってるから、仲良しの和菓子屋さんがあるハズ。
売り切れてないといいなあ。さもないと恵美さんが四条のデパ地下とかに行かなきゃならなくなる」
「そこまでわかってるなら、信也さんが買いに行けばよかったじゃない」
「えー、こどもの日に子供は柏餅買わないよ?」
「なら、私がひとっ走り買いに行けばよかったんだわ。上賀茂神社のほうに美味しい和菓子屋さんあるのに」
「じいちゃんが行ってくれるよ。そして持ってきてくれる。だから生垣の間から、柏餅は現れる」
「お父さんの知り合いの和菓子屋さんが車で配達してくれたら、鳥居から来るわ」
「うん、そしたら大量だね! ふたつだけ届けてください、なんてお願いできないもん」
信也さんはどこまで大人で、どこまで甘やかしていいのか、今の法子にはてんでわからない。一緒に楽しく遊んでいればいいのだろうか?
「いい加減、しゃっきりしてください」と突き放したほうがいいのだろうか?
社務所の皆に「のりちゃんは信也さん係」と任命されてしまい、他に何の巫女仕事もしていない。
「お弁当箱返してきますね」
悩みながら、法子は立ち上がった。
厨から出ると、お社の正面側で子供たちが騒ぐ音が聞こえた。連休で暇を持て余して遊びに来たという感じだ。真面目に楽器や歌唱が上手になりますようにと、お祈りに来たようではない。
法子の巫女姿を見て、急に静かになると、その中の女の子がひとり寄ってきた。
「あのぉ、あの人、大丈夫ですか?」
信也さんが子供たちの向こうにいるらしい。地面にうずくまっているようだ。
「大丈夫ですよ。ここの神社に住んでいる方ですから」
にっこりと笑ってみせた。こんなときには身内がうろたえるのが一番いけない。
信也さんのいる辺りに近付いた。
声を掛けないうちに信也さんは、急に立ち上がって、お社のきざはしをダンダンと上がった。境内を見廻す。また降りて来て膝をつき、玉砂利の上に絵を描いているようだ。
丹沢の板の間に踊りのステップを描いたのだから、境内に何を描いてもおかしくない。真横まで近付いて、信也さんが、丸とその中に名前を書いているのがわかった。
「ここに彬文。隣に航さん。この桜の木のとこにお父さん。父さんは僕の後ろで口上を述べてた。春雄がここ、姉さんはあっち」
既に書き終えたものをのり子に一通り説明してからまた、きざはしを上がっては降りて来て境内のあちこちに丸を描き続けている。
その勢いに子供たちはたじたじだ。お賽銭を上げて、静かに拝もうとしている子もいるのだろうに、大人の男性がドタバタしているのだから、どうしようもない。
まずは信也さんの世界に同調して、何をしているのか把握するほうが先だ。航さんが丹沢でしたように。
「信也さん、皆そこにいたんですか?」
「うん、いた。僕がここで踊ったとき。稲妻の型で終わる瞬間、神当たりしたの」
「カムアタリ? ですか?」
「うん。神さまが身体の中を通り過ぎて、気を失ったの」
「大変でしたね」
法子はそのときのことは思い当たらなかった。いつ頃のことだろう?
「大丈夫、桜の木のところにいたお父さんがすぐ助けてくれたんだって。それでお社に寝かされた」
「いつのことですか?」
「昨日」
「昨日は祭壇に隠れたんですよ?」
「じゃ、もうちょっと前。十四才のとき」
「そうでしたか」
年齢差から言って、自分はまだ学校上がる前だ。その頃の記憶はとびとびにしか憶えていない。
「柏餅がどっちからくるか踊り舞台から見ていようとしたら、思い出して描きたくなった」
社の西角の回廊は舞のために正方形に広くなっている。そこからなら、お茶室側から祖父が来ても、鳥居からお菓子屋さんが来てもよく見える。そういうことか。
「じゃあ、一緒に見ていましょうか」
信也さんは踊り舞台に上がって座り込んだ。目を丸くしていた子供たちに、何か言ったほうがいい気がした。
「ご心配いりません、あの方はこのお社の守り神ですから。音楽がとっても上手なんですよ。皆さんもお参りして帰って下さいね」
そう言ってみたが、興味本位に信也さんを眺めている腕白小僧たちや、怖がっているらしい女の子たちは落ち着かないみたいだ。
「僕は守り神じゃないよ、守られ神!」
信也さんが立ち上がって叫んだ。子供たち皆が信也さんを見てぽかんとしている。
「守ってるんじゃなくて守られてるの!」
「でも、神さまなの?」
勇気があるのか少し天然なのか、ひとりの女の子が訊いた。
「そうだよ、僕、信ちゃん。スーパー神さま」
「何それ〜」
と笑いが起こった。
信也さんは簡単な振りをつけて「屋根より高い」のほうのこいのぼりの歌を唄い出した。昨夜「踊れない」と言っていた通り、「舞」と呼ぶにはシンプルだった。
お社の中から琵琶の伴奏が聞こえた。神主さまだ。
歌い終わったときには拍手が起こった。信也さんは舞台の上で頭を下げてまた背を向けた。
お社の中からは「甍の波」のほうの鯉のぼりの歌が聞こえてきた。神主さまが琵琶を弾きながら唄っている。
さすが伯父さま、外の様子を察してフォローしてるんだ。
社務所から井村さんが出てきたのが鳥居の向こうに見えた。法子に手招きしている。
「柏餅が届いたよ、和菓子司の『弓張り月』さんから木箱一段。二十個はある」
名前に心当たりがあった。父か祖父が手配したのだろう。
「では皆さんで分けて下さい。信也さんと私はひとつずつあれば」
「それでも多過ぎる……」
「では、お参りの方に配っていいか、神主さまに訊きます」
社内の神主さまに用事のあるときは、裏口の外から唄いかけなければならない。法子は、歌は好きなのに、唄うという行為が苦手だ。
神官それぞれに呼び出しの曲が実は決まっている。信也さんは「冬仙」という神官名のせいか、曲はビバルディの「冬」、秋歌さまはベートーベンの「田園」、伯父さまはドビュッシーの「月の光」だ。
「月の光」は簡単な曲じゃない。出だしからオクターブ跳ねる。
表で信也さんが聞いているかと思うとよっぽど委縮してしまう。でもお腹からしっかり声を出さないと音程が怪しくなる。
「ラ、ラーラ、ルルラ〜 ララリルラ〜 リロリ〜」
と腹を括って唄い出すとすぐに信也さんの声がついた。驚いた。歌えてる。神社の前に速足で戻った。
童謡は地声だったけれど、信也さんの本気の歌声はミルクチョコレートみたいだ。久々に聞き惚れてしまった。
意地悪な伯父さまは信也さんの声をもっと聞いていたいためか、すぐには出て来てくれなかった。法子は早めに口を閉じて信也さんに後を任せた。
神主さまは境内側、社の正面の引き戸を開けて賽銭箱の上へ出てこられた。舞付きだ。
伯父さまが踊るのを見るのは去年の十一月の長秋祭以来だと思う。クリーム色の斎服がまるで月光を撒きらすかのよう。
信也さんの声が曲の最後に行きつく前に止まった。そっぽを向いている。歌えない音があるのかもしれない。
法子は心配したが神主さまはそこでパタリと舞をやめて、
「信也、ありがとう」
と声をかけた。
そして境内にいた子供たちに笑顔を見せ、話し始めた。
「今日はこどもの日ですね。皆さん、おうちでお祝いしてもらいましたか? 歌を一曲でもいいですから、ご家族と声を合わせて歌ってみましょう」
伯父が法子を注視した。用事があるのは法子だなと当たりをつけて、境内に降りてくる。法子は急いで囁いた。
「信也さんが柏餅を待っていて、社務所に届いているんですがたくさん過ぎるようで、もしかして参拝の子供たちに配ってもいいでしょうか?」
「どちらの菓子屋さんから?」
「弓張り月さん」
「ああ、あそこなら父さんの代から知り合いだ。信頼できる。分ければいいよ」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう、のりちゃん」
伯父はそう囁いて神主の顔に戻るとお社に入っていった。
「信也さん、柏餅がたくさん届いたって。ここで、みんなで分けっこしましょう?」
「柏餅? 届いた? 食べるぅ!」
法子は嬉しくなって社務所に向けて駆け出した。




