こどもの日 ① 鯉のぼり
こいのぼりの歌はふたつとも、著作権フリーです。
法子は明くる日もお休みで助かったと思った。昨日布団に入った時間はいつもと変わらなかったけれど、心配やドキドキで興奮したせいか、すぐには寝付けなかった。その分、寝坊をした。
お父さんが見えなくなって悲しい。それはそうだろうが、目を開けた状態で見えていたほうがおかしい。
少しずつ、お父さんが見えるのは目をつむったとき、心の中でだとわかってくれたら。
そして、目を開けているときに見えるのは「まだ身体が温かい、生きている人たち」なのだと……。
昨夜の信也さんは大人っぽかった。阪口家三人の演奏や舞についてのコメントなんて、専門家っぽくて、伯母さんが言う通りに「生意気」だった。昔はそれが当たり前だったんだ。
信也さんの演奏も踊りも歌も敵う人がいない、敵うとしたら青山さまか、彬文さんくらいなものだと皆に尊敬されていた。
一族あげて音楽が得意だから、その微かな力量の違いがわかってしまうのだろうけれど、音楽の神さまを顕現させる神官として、信也さんは第一人者だ。
お社に着いたら十時過ぎになっていた。社務所はいつもの落ち着きを取り戻していて、
「昨夜は大変だったね」
と巫女のお姉さんが言ってくれた。
「いえ、裏山見廻って下さった方々のほうが大変だったと思います。お社の中におられるとわかってからは、もう心配しませんでしたから」
と頭を下げた。
「神主さまが最初にご覧になったときはいらっしゃらなかったのでしょう? どうしてわかったの?」
「あ、秋歌さまです。彬文さまが居場所ご存知でした」
「あら、そうだったの。私はまたのりちゃんが魔法を使ったんだと思ったわ」
「私の予想は悉く外れて、どうしようもなくてお電話したら、言い当ててくださいました」
「離れていても、さすがよねぇ」
「ご結婚されても秋歌さまには憧れるわぁ」
教団内の女性で彬文さんを尊敬しない人はいない。彼はそれ程紳士で、いつも相手のことを考えて発言、行動する。皆に目を配っている。
兄弟のように育ったふたりの宗家神官のうち、信也さんのほうが好きなのは、もしかして法子だけかもしれない。
彬文さんは静かで落ち着いている。信也さんは明るくて愛嬌があって、いたずらとかもする人だった。信也さんの明るさが翳っている今は、手がかかるばかりだし。
そう思いながら、信也さんを一層好きだと思ってしまう自分は救いようがない。
電話の向こうの彬文さんの言葉、「信也は狂ってしまったほうが楽なのに狂えない」が耳に蘇る。
彼のほうが自分より信也さんをよくわかっている。男同士だからか、齢がひとつしか違わないからかはわからない。でも彬文さんは短期間でも、子供の頃の、処世術を身につける前の「生の信也さん」を見ているのだろう。
「信也さん、今日はどちらですか?」
「ああ、さっきここに来られて」
井村さんの顔がまた冴えない。
「鯉のぼり欲しいなって」
「あ、今日、こどもの日ですね」
「それで、倉庫から一式出して差し上げた。きっと組み立て中だと思う」
また子供に戻ったらしい。それもいいか、そのほうが楽しい。
信也さんは奥の院の縁側で、新聞紙の兜を折っていた。鯉のぼりはもう既に、屋根に届く高さで風に泳いでいる。
「おはようございます」
「おそよう、じゃん。昔、彬文と一緒に鯉のぼりしたんだ。背くらべもした」
出来上がった兜を自分の頭にかぶった。
「のり子も欲しい? 兜」
「えっと、女の子もかぶるものですか?」
「かぶりたいかどうかって訊いてるの!」
あ、そうか、一般の約束事なんてどうでもいい、自分も欲しいかどうかを素直に答えればいいだけだ。相手は信也さんだった。
――信也さんが折ってくれるなら、私も欲しい。
「はい、お願いします」
「やったー」
「屋根より高い〜」と歌いながら新聞紙を折っている。
「おうた、歌えますね」
「うんとねー、子供のおうたなら歌えるみたい」
と他人事のように答えた。
「だから次はちょっと心配。いーらーかーのなあみぃとー、あ、ちょっとダメ」
何がダメなのかよくわからなかった。高らかに歌い上げる感じが足らないなとは思った。
「ビー・フラットがフラット過ぎる。エフ・メイジャーはまだだ。エフ好きなのになあ」
信也さんは得意の音楽用語を使って喋っている。頭はかなり大人だ。
「はい、のり子の兜。ね、厨にいって、柏餅あるか訊いてみようよ!」
巫女の衣装で、新聞紙の兜をかぶっているのはかなり勇気が要った。でも信也さんはそんなことお構いなしで、のり子の手首を掴んで半ば引きずる。
――父親が子供のおうまさんをさせられるとか、そんな感じなんだろうな。おもちゃ代わりといったところか。
信也さんは厨の扉を開けて、身体を半分入れると、
「柏餅ちょうだい!」
と叫んだ。法子は、自分の身体は厨の外でよかったと心底思ってしまった。
昨日信也さんを探してくれていた小母さんが返事をしている。
「あらあら、ごめんねぇ、今日は子供さんの宿泊はなくて、買ってないんだよ」
「えー、信じらんない、僕がいるのにぃ?」
この瞬間、信也さんは自分を子供だと信じ切っているのだろうか?
「端午の節句の神事も入ってないのぉ? だめだねぇ」
もしかして伯父さま、信也さんのことでそれどころじゃなくて、祭事が執り行えてないとかあるんだろうか? 急に心配になる。
「恐山では毎年子供たちみんな集めてお祭するんだよ? 彬文が言ってたもん。東京でだって日に二回とかじっちゃん忙しかったのに」
じっちゃんは青山さまのことだったなと法子は思い巡らす。兜を脱いで手に持ってから横から顔を入れた。
「信也さん、社務所に行ってみましょう、誰か買いに行ってくれるかも」
「そうだよ、それにもうすぐお昼だから、そっちをちゃんと食べてからがいいよ」
小母さんも笑っている。きっと、昨日大事に至らなくてよかったと思ってくれている。
信也さんは厨の扉を閉めてうつむいた。
「社務所、僕、きらい」
「さっき、鯉のぼり出してもらったんじゃないんですか?」
「一日一回行けば十分だと思う……」
井村さんの表情か何かが気になったのだろう。
「じゃ、私がお願いしてきますから」
「のり子が兜脱がないで社務所に入るなら許してあげる」
本人は急に顔を上げてにまにま笑った。
何を許してもらわなきゃならないのかわからなかったけれど、信也さんが社務所の前まで付いてきたのでどうしようもなかった。
机についていた井村さんはまずは顔をしかめて、「法子、おまえもか?」と言いたそうだった。でも、
「加代さまに電話してみるよ、おやつの時間に持って来てくれるんじゃないかな」
と言って笑いだした。
よかった。笑いをとるのは法子の得手ではないけれど、信也さんは元々劇やおゆうぎの大好きな芸人だ。一緒にいれば笑われることもあると覚悟するしかない。
信也さんは社務所の外でぶらぶらしながら「背くらべ」を歌っていた。
「柏餅はおやつの時間に、ですって」
「なあんだ。じゃ、背くらべもあとだね。柏餅食べるのが先だから」
「背くらべは歌えましたね」
「うん、エフかと思ったらシーでいけた。よかった!」
またよくわからなかったけれど、よかったんだろう。
信也さんは法子を鏡池に連れて行き、大きな縁石のひとつに座り込んだ。
「座って、座らないと鯉が近付いてきてくれないから」
隣り合って座ることになってしまった。
信也さんはぶつぶつ何か唱えている。
「甍の波と雲の波、えっと二番か三番、百瀬の滝を登りなば、忽ち龍になりぬべき、我が身に似よや男子よと、空に踊るや鯉のぼり……」
鯉は滝をのぼって、空に踊って、龍になる。
「お父さんね、笙も得意だったんだよ。長秋祭でよく吹いてた。笙は龍に変化した神さまが降りて来て、踊って、天に帰るときに吹くの」
「厳かな音ですものね」
「一度だけ一緒に鯉のぼりしたんだ。彬文とふたりでお祝いしてたら、お昼に神社から帰って来てくれて、『背くらべ』歌ってくれた。東京のおうちに三人の背の高さ、ナイフで傷つけたんだよ。きっと今でも残ってる」
「ちゃんと残ってますね」
「じっちゃんの背を測るのに僕、縁側に上がってやっと届いたんだ」
「やっぱり思い出たくさんあるじゃないですか」
「うん」
信也さんは黙って近付いてくる鯉を見ていた。
「僕はお父さんによく似てる……」
じっちゃんとお父さん両方出てきたけれど、どちらも青山さまのことだ。慣れてしまった自分が内心可笑しい。
「わがみにによや、って何の意味かわかんないって思ってた」
「鯉のぼりに似て龍になるほど立派になりなさいってことですよね?」
「うん、そうだけど、ほんとは違う」
「私、間違ってます?」
「お父さんはね、私に似てて嬉しいって思いながら、私を越えるほど先に行きなさいって思いを込めてた」
「あ、そうですね。ただ鯉のぼりに似て欲しいだけじゃない、ご両親の思いが……」
「それで朝から考えてた。お父さんは鯉のぼりになって帰ってきてくれたのかなって。お父さんは龍になって神さまになったと思うから、鯉のぼりかなって気もした」
すぐ同意していいのかわかりかねた。
「でもね、鯉のぼりだとね、年に一度しか会えないの。だからやめた」
ぶっと法子は吹き出して笑ってしまった。
「何で笑うの?」
信也さんがムッとする。
「お父さまが鯉のぼりかどうかなんて考える人、信也さんだけです」
「だって、このまま二度と会えないよりは、鯉のぼりでも会えたほうがいいじゃん」
「目をつぶったらいつでも青山さまと会えるでしょうに」
「会えるけど触れないじゃん」
ああ、触れるものがいいのか。形見というかよすがというのか、お父さんが籠っている何かがあったほうが、楽なのだろうか。
「じゃあ今晩は鯉のぼりにくるまって眠って下さい」
「うん、やってみる」
「それで普段はここにいる鯉が全部、お父さんだと思っててください」
「えー、鯉はちょっとぬめっとしてるからやだ。触っちゃだめなんだ、鯉さんたち触られるの嫌いなの」
「知ってるならいいです。じゃ、眺めるだけ」
「眺めてご飯あげるだけ。鯉さん、おむすび好きなんだよ」
「じゃ、お昼ご飯もらいに行きましょう。早く食べてまたお腹すかせて柏餅も食べなきゃね」
「うん、のり子はもっと太らなきゃね」
「一言多いです!」
笑いながら立ち上がってまた厨に戻った。




