音楽の力
何かが法子の頭にひらめいた。
「天岩戸作戦でいきませんか? 祭壇前で楽や舞をしましょう。お父さんだけが上手だったような言い方して、踊り見せてくれるの待ってるだなんて、失礼じゃないですか。お祖父ちゃんだって伯父さまだって伯母さまだってスゴイんだから」
「そんなことで出て来てくれるかな?」
伯父が首を傾げた。
「死んだ人だけ祀り上げて、ここにこんなに心配してる人がいてくれるのがわかってない。怒りたくなってきました。閉じ籠った人が出てくるのをただ待っても仕方ないと思います」
「それもそうだね。じゃあ琵琶を二本取ってこようか」
「お願いします。伯母さまは何か舞もする心づもりでいてくださいね」
「お社の踊りじゃなくてもいいのかしら?」
「何でもいいです」
「アメノウズメさまみたいに裸にならなくていい?」
「それは止めて下さい」
伯母さんにいつもの調子が戻ってきた。
――大丈夫、きっと大丈夫だ、これなら。
「私なら祭壇の中に入れると思うんです、あの開いた所から。毛布か何か持って入って信也さん温めないと」
「ええ、そうね、お願い。曲目はさっきの二曲?」
「あ、最初は何か他の曲のほうがいいかと思います。伯母さまが踊り易くて、信也さんが目を惹きつけられる曲」
「わかったわ、思いついた。信也と初めて日舞に行ったときのあの子の踊り、真似しちゃおう」
「そんな思い出の曲があるんですね?」
「ええ」
伯母さんは祖父と打ち合わせを始めた。
祭壇の左右のぼんぼりが淡く明るい。拝殿側の行燈はもっと明るく、ふたりを後ろから浮かびあがらせている。引き戸を開けて本殿と拝殿を繋げた今は、かなり広い板の間になる。
青山さまも信也さんもここで美しい舞を何度も披露していた。見ているだけで胸がひくひくしたり、手がびりびりした。そして終わったあとは何故か心がすうっとした。
法子は収納スペースに入って毛布らしきものを見つけた。
祭壇の入り口は法子の肩幅が何とか入る感じだった。
「まさかお尻が通らないことはないと思うけど」
と危ぶみながら匍匐前進して祭壇の中に入り込み、上体を起こしてから毛布をひき入れた。
間接照明になるように、懐中電灯を後ろ向きに置いた。
信也さんは座ったまま前にのり出して、祭壇の内壁に顔をつけている。
「覗き穴はそこですか? 信也さん小さかったんですね」
声をかけてみたが返事はなかった。十一才、十二才のときには立って眺めていたのだろう。
音楽が始まる。バッハ、カンタータ百四十七番、「主よ、人の望みの喜びよ」だった。
ソラシレドドミレレソファソレシ〜と聞こえる。
祖父と伯父のふたつの琵琶が掛け合いをしている。
伯母の笛が謳いあげる、シードレーレドーシラ〜。そしてまた琵琶の合奏。
「あ、姉さんが踊る」
信也さんがつぶやいた。信也さんの手は拍子に合わせて、さも踊っているかのように形を作る。伯母さんの踊りの勢いがきっと乗り移ってる。
ふたりの琵琶は主旋律を輪唱のように繰り返して終わった。
「のり子も覗いてみる?」
信也さんが言った。自分の存在なんて気にかけてもらってないと思っていた。
四つん這いで近付いて、覗き穴らしきところに目を近づけた。木製の祭壇に錐か何かで開けた、たったひとつの穴。法子は膝立ちしなくてはならない高さだ。
信也さんは身体を避けただけで、すぐ近くにいた。彼の膝の間に納まっている。触れてはいないがドキドキした。
穴から見た情景は幽玄だった。和紙を通したぼんぼりの灯が優しい。でも三人の演技者を十分に照らし出している。
もし時代衣装を着ていたら本当に美しく映えただろう。
信也さんが子供の頃見ていた祭儀は、とても幻想的に感じられたはずだ。
大好きなお父さんがそこにいて、荘厳な衣装で踊っていたのだから。
次の曲が始まって法子は信也さんに場所を譲った。
ソーラソドレミーソ、ファミレ、ミードソ〜、ショパンだ。伯母さんの笛の独奏。
信也さんは祭壇に両手を支えて肩をビクッと震わせた。
後ろから、忘れていた毛布を肩に差しかけた。
うつむいては瞬きをして、信也さんはまた目を拝殿に向ける。それを何度も繰り返した。
リストは琵琶二本で始まった。恐らくお祖父ちゃんが指で旋律を、伯父が和音をバチで弾いている。クライマックス部分をふたりで弾いた後、主旋律に戻り、お祖父ちゃんの独奏になった。指でか細くつま弾いている。
信也さんの身体がガタガタ震えだした。曲が終わった途端、信也さんは頭を抱え、
「うわあああああぁー」
と叫んだ。
絶叫が充ちて祭壇が、そしてお社が膨張した気がした。反響と共に少しずつ抜けて行って元のサイズに戻った。
信也さんは頭を抱えたままだった。
静寂が帰ってきた頃、お祖父ちゃんの声がした。
「おまえは、青造の演奏に伴奏を添えた。青造は『自分の淋しい個々の音を、信也が和音の綿でくるんでくれた』と言っていた。私の演奏は助けてくれないのか?」
左膝を曲げ、右足を投げ出し、信也さんはうつむいたまま動かない。
法子はそっと近付いて、毛布の背中に両手と頬をつけた。
何を言っていいかわからなかった。そのままじっとしていた。触れているところがどんどん熱くなる。
――従兄妹同士だからこうしていていい? こんなときなら寄り添っていていい?
心の中で考えながらも答えはでない。
――信也さんが振り除けない限りはいいんだろうか?
少し震えた静かな声がした。
「のり子はあったかいね」
「信也さんもあったかいです」
「お父さんはどんどん冷たくなった。ひっついててももう温かくならなかった」
――あ、死の瞬間に信也さんは隣にいたんだ。
「そしたら朝が来て、姉さんと彬文がお父さん連れてった」
「そうでしたか……」
信也さんは丹沢でお父さんを看取ったんだ……。
「ねぇ、冷たくなったのは僕が嫌いになったから?」
「え?」
「お父さん、僕のこと嫌いになったから冷たくなったの?」
「そんなことないです。青山さまはいつでも、いつまでも信也さんのこと好きです」
「でも、だって、よく言うじゃん、誰々さんが冷たくなった、きっと嫌われたんだろうって」
「それは比喩とか慣用句とかそんなもんでしょ? おふたりには当てはまりません。信也さんわかってるくせに」
「わかってた気がしたんだけど……」
嫌われたから死に別れたのかもと思いつくなんて、どうかしてる。逆に甘え過ぎなんじゃないかと突き放したくなる。
ムードを変えよう。
「夜になって、ちょっと悲しくなっちゃっただけでしょ? 信也さんがバカなこと言うなら私はもう帰ります。お祖父ちゃんとうちに帰りますね」
「じいちゃんも帰る?」
「ええ、お祖父ちゃんは早寝早起き、いつもはもう眠ってる時間だから」
「じゃあ僕も帰る」
「どこへ? 阪口へ?」
「奥の院……」
振り返った信也さんは目を細めて微笑んだ。少しだけ睫毛が濡れていて、全てわかっている大人の笑顔だった。
急に恥ずかしくなった。
祭壇の開口部から出るには信也さんにお尻を向けなきゃならない。
「帰るならさっさと縄梯子下りて下さい。私が出るところ見ないで!」
「どうしてさ? もし、つっかえたらお尻押さなきゃならないかもじゃん」
信也さんが軽口を言って、法子は身体中赤面した。
「ひとりで入れたんだからひとりで出られます。あっち向いてて下さい!」
思ったよりするりと出ることができ、安心した。
懐中電灯と毛布を引き出した。
祭壇最下段の隠し扉を閉めていると、信也さんはもう仕切り壁の向こうから現れた。
信也さんは三人の演奏者たちに近付いて行った。法子は毛布を畳みながら見ていた。
「じいちゃんの琵琶は悟りひらき過ぎ。淋しがってない。ひとりでいいと思ってるから助けない」
――あ、さっきの質問の答えだ。
「父さんは譜面どおりで内面の情熱が見えないでしょ。もっと遊びがあっていい、上手いんだから。姉さんは型が綺麗過ぎて繋ぎとの差が見え見え」
「あら、生意気ね。私はアンタの初めての日舞を真似たのよ?」
伯母さんが笑っている。
「あ、姉さんが聞こえた!」
信也さんは伯母さんの両手をとってぴょこぴょこ飛び跳ねた。
「もう、アンタが聞こえないなんていうから、ここ数日泰治さんと練習したのよ、神社での舞の型。言葉やら文字になってるでしょ?」
「うん、通じた。ちゃんと、通じたよ」
後ろ姿だったから微笑んでいるかどうか法子にはわからなかったけれど、柔らかい声だった。
「信也、おまえの家族はひとりだけじゃない。ここに四人いる。皆おまえを思っている。忘れるんじゃない。法子でさえ怒ってたぞ?」
「のり子が? 怒ったの? 僕に?」
急に信也さんが振り返った。
「冷たい人ばかりじゃなく、まだ温かい人のことも考えて下さい……」
法子はそっと囁いた。信也さんには、通じるはずだ。
「おやすみ、信也、また様子を見に来るから」
祖父はそう言ってお社を出た。伯父夫妻は、信也さんを奥の院まで送ってから帰宅するようだ。法子は祖父の後を追った。




