彬文さんとの電話
伯母の笛が止まって社がまた沈黙した。
信也さんが奥の院の縁の下で吹いた曲はいったい何だろう。
「秋歌さまに電話します」
伯父さんが祖父にそう言って、常衣の胸元から携帯を出した。
秋歌さまとは東京の彬文さんの神官名だ。相手はすぐに答えたようで、伯父は今までどこを探して何をしたか説明している。
しばしの沈黙の後、伯父さんから携帯を渡された。
「のりちゃんと話したいそうだ」
――え、私?
電話の向こうから静かな低い声が聞こえてきた。
「法子さん、信也のことをわかろうとしてくれてどうもありがとう」
急にそんなことを言われてどうしようもなかった。ダムが決壊したように話してしまった。
「私なんて、私なんて何もわかってないんです。信也さんが何をしたいのか、どこにいたいのか、心当たりを考えても、てんで間違ってばかり……」
「いえ、あなたは信也をわかっている。信也のすることには全て理由がある。狂ってもなければ死のうともしていない、そうでしょう?」
「あ、それは……はい、そう思います。でももう信也さんのしたいことが思いつかない。だめなんです、私ひとりに話しかけてくれるから、何か特別な気分になっていただけで、私なんて、私なんて……結局何にもできない……」
涙声になってしまった。
「落ち着いて。加代伯母さんに笛を吹いてもらおうと思ったのは何故?」
「信也さんが『笛を吹いたら出て来てくれる』って言ったから」
「いつのことですか?」
「えっと、数日前」
「そうじゃなくて、いつのときのこと、信也がどこかで父親に笛を聞かせたんですね?」
「ええ、奥の院の縁の下で吹いたって」
「ああ、そのときのことか、わかりました。とてもいい目の付け所だよ、のりちゃん」
どこがどういいのか全くわからなかったが、彬文さんは信也さんをよく知っている。
「ショパンを吹いたって、ショパンのどれですか?」
「幻想即興曲。ファンタジー・インプロンプツだね」
「どんな曲ですか?」
電話の向こうの人はふと唄い始めた。
「ラーラララララッラ、ラララ、ラーララ」
「えっと、もしかして、池渡りの劇の二曲目?」
「ああ、そうだ、よく憶えていたね。わ〜れはここに、愛しきひと、我が歌に応え、美しき声あげよ、とく胸にいだか〜ん」
蓬莱石に繋がれた彬文さんを信也さんが助ける劇で、信也さんが歌詞をつけて唄った曲だ。
「伯母さんなら吹けると思う。ついでに、そのとき奥の院の中で、青山は琵琶を弾いていた。リストのリーベシュトラウムだ」
「リーベシュトラウム」
「もしものときは泰治さんに弾いてもらって。その二曲を聞いても出て来ないとしたら、どこかで眠りこけている」
「眠ってる? それだけ? ただそれだけですか?」
「たぶん、きっとね」
「うそ」
「嘘じゃ困るだろう? 他の理由がいいかい? 信じてごらん。相手は信也だ。狂いたくても狂えない。狂ってしまったほうが楽なのに狂えない、そう思わないかい?」
「思います」
「じゃ、阪口神官にもう一度代わってくれるかな?」
法子は携帯を伯父に返した。
伯父は携帯を喰い入るように見て驚いていた。
「祭壇の中? 入れるんですか? 後ろの一番下ですね? はい、覗いてみます」
電話は切れた。
伯父は社の裏口から本殿に入っていった。神官しか入れない約束なので、他の者は外に残った。
「のりちゃん、リーベシュトラウムって言った? リストね」
伯母さんが話しかけた。
「あ、はい、でもそれは笛じゃなくて琵琶だそうです。青山さまが弾いてたって。信也さんが吹いたのは幻想即興曲」
「ファンタジー・インプロンプツなの? あんな速いの吹けないわ」
「いえ、スローな部分」
伯母はすぐには思い出せないようで法子は仕方なしに歌い出した。
「ああ、そこなら助かるわ」
伯母さんは微笑んでくれた。




