いなくなった人
ゴールデンウィーク後半、法子は気の済むまで神社に入りびたることができた。
商売人の父にとっては祝日も何もない。休みの日のほうがお店は忙しい。忙しくしていてくれれば助かる。
信也さんは子供っぽく社のお庭で遊んでいる。例えば、滝池からの渓流の流れを堰き止めようと、小石と枝でダムを作ったりだ。
どうしてダムを作るのか考えたら、社務所の皆のように「信也さんは変だ」という気がしてしまう。
でも五月になりたての晴れの日に、流れ落ちる小川に手を浸し、近くの小枝を集めて重ねていくのは、気持ちいいことのひとつだろう。微笑ましいと思いながら眺めていられた。
もうかなり大丈夫だという気がしていた。それで油断してしまっていたのかもしれない。伯父さんが夕食時に駆け込んで来た。
「信也がいない。奥の院にも社にもいない。社務所の皆が裏山を見廻ってくれてます。のりちゃん、どこか、心当たりはないか?」
「わかりません、でも私も行きます」
祖父も立ち上がった。お母さんも動揺していたけれど、「恵美は克也のためにうちにいなさい」とお祖父ちゃんが言って、膝の力が抜けたように座り込んだ。
「加代は?」
祖父が伯父に訊いた。
「先に行ってます」
「伯母さん、笛は? 笛持ってますか?」
法子は考える間もなく口にしていた。
「笛? 笛がいいのか?」
「音楽でおびき出すなら笛がいい。話せなくても笛なら届くって言ってたから」
「わかった、じゃ私はうちに戻って、加代の笛を取ってから合流します」
神社へ祖父と向かいながら、法子は「おびき出す」と言ってしまった自分を恥じた。
信也さんは仔犬や小鳥じゃない。お祖父ちゃんか伯父さんが唄ってもいいのかもしれない。でも縁の下での演奏のことがどこかに引っかかっている。
「笛を吹いたら出て来てくれる」
そう言った信也さんだから、出て来て欲しい。もしどこかに隠れていても、笛なら届く。
全く関係ない言葉に縋っているだけかもしれない。そう信じたいのは自分かもしれない。
自殺しようとはしていないと思う。お父さんと一緒にあの世へ行くという考えは、最初の頃から持ってなかった。
喪失に苦しんでいるだけで、自殺が選択肢に出てきたことは、ない。
何か理由があって隠れている。お父さんを感じられるところに潜んでいる……。
今までずうっと信也さんは、夕食後は奥の院で過ごしていた。
井村さんや宿直をした人々が、「ぶつぶつと亡者と会話しているのが聞こえる」と言っていた。
食後少しのんびりして、お風呂に入り、お父さんの布団、お父さんの衣類、お父さんの生まれた家に守られて、眠くなるとお父さんが近付いてきてくれる、側にいてくれると妄想しながら、睡眠が訪れるのを待っていたはずだ。
それが今日は奥の院ではない。
どこか、違うところで眠りたいのだろうか?
今日は何かの記念日だろうか?
青山さまのお誕生日は過ぎた。信也さんが京都に来たのは信也さんの誕生日の十月末。
お父さんが父だと告げたのは、小五の二学期、一学期の今は何も思い当たらない。
何だろう、信也さんが考えそうなこと。ひとりで試したくなるようなこと。
五音舞の練習をしている、とか。なら講堂か集会所のステージか。お父さんに見てもらおうと五音舞を練習する、これはあり得るかもしれない。
暗くなってきた道を神社に向かって歩きながら祖父に話しかけた。
「お祖父ちゃん、青山さまの五音舞見たことある?」
「イツツネマイ? 何だね、それは?」
祖父は心配のせいか思いここにあらずだ。
「ふふわふふわふわって踊り」
「ああ、五音の舞か。青造のは見たことない。最後に見たのは泰治のだな、信也が京都に来て、なんとか家族として落ち着いたから踊ったんだ。神さまにご恩ありがとうございます、と」
「信也さん、いつつねまいって呼んでた」
「同じものだよ。同じ漢字をどう読むかでいろんな意味を表現できる。それも実はうちの神官たちの得意技だ。『感謝しながら、いつも常に舞う』という意味を込めたのだろう、青造とふたりで。アイツは今踊れもしないくせに」
「うん、お歌もまだ悲しくなるって」
「そうだろう?」
お社の生け垣を入ると懐中電灯の灯があちこちに見えた。
だんだん集まってきて蓬莱石の辺りにたむろしている。鏡池に反射して波紋がちらちらする。
こんなときでなかったら、肝試しに絶好のセッティングだ、などと笑っているだろう。
祖父の手にある灯を認めて、皆がぞろぞろと社の前に移動してきた。
「ご隠居、裏山はもう暗くてこれ以上は探すほうが危険です。打ち切らないと」
井村さんだった。
「ああ、そうしよう。女性の皆さんにはもう帰ってもらって。ご家庭のこともあるでしょうから。夜できることは少ない。後は私たちが朝まで見廻ります。そして明朝来てもらえると助かります」
「でも……」
社務所やお料理担当や宿泊所のハウスキーパーさんたち、みんな敷地内を探してくれていたんだ。口籠っている。
「信也はうちの家族です。それを神社に預かっていただいているだけ。そう思って下さい。お手数掛けています。申し訳ありません」
祖父が皆に頭を下げた。
「そんな、信也さんは私たちにだって大事な人です。神官という意味ではなくて、子供の頃から知っている大切な……」
「ありがとうございます。そういって頂けるだけで肩の荷が下ります。大丈夫です」
皆さんは顔を見合わせ、頭を下げつつ帰っていった。
井村さんと加代伯母さんが残った。
「集会所の中見ましたか? それから時代衣装はどこに保管されていますか? 楽器はどこですか?」
法子は待っていられなくて井村さんに言葉をぶつけた。
「集会所の鍵は閉まっている」
「閉める前に入っていたら? 信也さんだけが知る出入り口があったら?」
問題はこれだ。信也さんほど、ここ本社を知っている人はいない。他の誰も知らない秘密基地やらトンネルでさえ掘っているかもしれない。
実際、先祖は千年の歴史の間にお茶室と本殿を繋ぐ地下トンネルを造ったのだから。
「鍵をとってこよう」
周りの暗闇より顔色が悪く見える井村さんに、法子は付いていった。
「衣装や楽器は講堂の裏の倉庫だよ」
「青山さまは何の楽器を使われましたか?」
「筝と琵琶がお得意だったが、笙も笛も、何でもござれだったな」
やはり信也さんのお父さんだ。
「五音の舞のご衣装は?」
「それも倉庫にあるが」
話しながら集会所のステージ裏や控室を見て廻った。
いない。
次は講堂を一通り調べてから倉庫に入った。
昔、青山さまが着ていた衣装にくるまって眠ってしまったとか、あるかもしれない。
中は、古文書棚、楽器庫、桐の衣装箱、欅の乱れ箱が整然と並んでいる。
「誰も触った様子じゃないよ、のりちゃん。節分会から変わってない」
信也さんがいない。後はどうしたらいいのかわからない。伯父さんに「心当たりはないか」と訊かれて、何とか行きついたのがここだったのに。
私の心の中、頭の中、どこかに、信也さんの思いが見える手掛かりはないか?
倉庫の出口とお社の裏角、奥の院の縁側とを繋ぐと、ちょうど三角形を形作る。その真ん中に伯父、伯母、祖父がいた。
「奥の院にも戻っていない」
祖父が法子に言った。
伯母は、
「そんな急に吹けと言われても何を吹けばいいんだか」
と夫に話している。
「『長慶子』でも『青海波』でも何でもいいから、吹いて」
信也さんの養父母は心配と焦りで普段と違って見える。
ぴーっと暗闇に和笛の音が響いた。
雅楽は法子にはどうも単調に聞こえる。上がり下がりが少ない。同じパッセージを延々と繰り返している気がする。
信也さんが祭儀に、西洋のクラシックを使いたくなる気持ちがわかる。
「あ、伯父さま、信也さんが笛で吹くショパンの曲って何だかわかりますか?」
「ショパン? ショパンか。どれなんだろう」
お祖父ちゃんも首を傾げた。
「ピアノでなら何でも弾いていたからなあ、雨だれ、ポロネーズ、ノクターン……」
「青山さまがお好きなショパンは?」
「それこそ、全部だな」
「奈緒子さんに訊けばわかるでしょうか?」
「奈緒子さんはショパンの名手と言われていた」
――どうしたらいい? どうしたら? このお社は広すぎる。信也さんが隠れたいと思えばいくらでも手がある。出て来たくなる方法を考えたいのに……。




