祈り
翌日社務所に行くと、先輩の巫女さんが「信也さん、昔通りカッコ良くなったね。古い映画のキリストみたいで恐かったけど」と言った。
ああ、そうかと頷いた。ゴルゴダの丘まで十字架を背負って、時に膝から崩れ落ち、苦しみながら歩き続けるイエスさまだ。
そこへ井村さんが思案顔で戻って来られた。
「信也さんが……」
「何かあったんですか?」
「いや、大丈夫だ、袴ははいてないけれど、あれならこちら側におられても。のりちゃんのお蔭だ、ありがとう」
お礼の言葉の筈がどこかうわの空だ。
「今どこで何されてますか?」
一応社では、神官格の信也さんには皆敬語を使う。
「お参りされていた」
「お参り? お社で? 拝んでいた?」
法子が知る限り今まで、信也さんはお社に入っていない。中でお父さんの足跡を描いてもない。幻を追ってお社の周囲を歩き回るだけで、拝んだりしていない。
「それが、まるで」
井村さんが口籠る。普通じゃないのだろう。
「二礼もなく、柏手も打たず、全く神官らしからぬ態度で」
「土足で上がり込んだとかお賽銭を投げつけたとかですか?」
信也さんが小銭を持っているかどうかさえ定かでないが言ってみた。
「まんまんさん、あーん、と」
井村さんはまだ自分が何を耳にしたのかわからない様子で繰り返した。
「まんまんさん? 呪文ですか?」
「教典にそんな言葉が?」
巫女さんふたりが井村さんに問いかける。井村さんはただ首を横に振った。
「仏さまを拝む時の言葉です。特にちっちゃい子供が」
法子が代わって答えた。頭のどこかに記憶がある。
「そうなんだ、『なんまいだ』みたいな言葉だ」
阪口家の大きな庭の片隅には先祖代々のお墓がある。お祖母ちゃんはそこに入っている。でも家の中に仏壇はない。
ああ、きっと純子お祖母ちゃんのお里へ行った時だ、島根の。座敷に神棚も仏壇もあって、親戚の子とお祖母ちゃんと一緒に拝んだ。
お祖母ちゃんは般若心経も唱えていたと思う。今思えば、般若心経なのだろうと思い当たる。
「ギャーテーギャーテー」というところで笑ってしまって怒られたから。
「神社なのに」
井村さんは力が抜けたように事務イスに座り込んだ。
「そんなに気にすることないと思います」
法子は本気でそう思っていた。
「長秋さまは亡くなられて神さまとなられたのでしょう?」
「神さまになったのであって仏さまになったわけじゃない」
「それは死に別れた者がそう決めただけかもしれないです。それに外国の方が自分の国の言葉で拝んでも、神さまが怒ったりはしないと思いますし」
「でも信也さまは神官だから」
「今の信也さんはただの信也くんで、冬仙さまじゃないと思ったほうがいいです」
「やはりそうなのか……」
冬仙とは、信也さんが十六才の「達歳の儀」の折に襲名した神官名だ。
井村さんが何故か納得している。
「冬仙さまと呼んでも絶対振り向いてもらえない。信也さんと呼び直すと、『僕、信也、信ちゃんだよ、バイバーイ』と行ってしまわれた」
――あ、井村さんの声は聞こえたんだ。井村さんとわかったかどうかは疑問だけど。
お父さんが死んだことを認めることができて、仏さまに祈ったのだろうか?
いや、死別自体はもうとうに、認めてる。幽霊でもいいから側にいて欲しいと思っているだけで、死を受け入れてないわけじゃない。
お社にお父さんがいると思ったんだろうか? それとも、うちの神さまを仏さまとして拝んだんだろうか?
また思い出した。父がこの宗教を嫌うわけ。お祖母ちゃんのお通夜のときにぶつぶつ言っていた。
「神官は死んだら神として社に祀られる。母は死後の世界でも兄とは一緒になれない。そんな不憫なことがあっていいものか」
「あの、井村さん、神官様が亡くなられるとどこに祀られるんですか?」
「神葬をするのは担当したお社だから、それぞれだよ」
「じゃ、青山さまは東京」
「そうだね」
「ここにおられるのは阪口の曽祖父と朱暁さま」
「よく勉強してるね、のりちゃん、その通りだよ」
――別に勉強じゃないんだけどな。信心でもない。
「黒龍さまは宮津の初代。だからその前は緑朗さまになるかな」
うちの一族の系図は平安時代、千年遡ることができるらしい。井村さんなら歴代の当代様を憶えていてもおかしくない。
「お祖父ちゃんの朱暁さんに話しかけていたのかもしれません。設定が子供なら神官修業の前で、神さまの拝み方知らなかったのかな」
法子のつぶやきにお姉さんたちが首を傾げた。
「設定?」
「あ、設定って言葉じゃないか、無意識だから。今信也さん、精神年齢がくるくる変わるんです。大抵は子供っぽいんですけど、ちょっと大人だったり、ぐっと幼かったり。普通の人って、何歳くらいで神さまには柏手を打つって憶えるもんですか?」
「さあ、私たちは普通とは言い難いものね、生まれた時からうちの神さまを拝むから」
「でも結構小さい頃から、初詣とか七五三とかで憶えるんじゃないかなあ」
「学校上がる頃には知ってそうよね」
「じゃあ五才くらいの信ちゃんだったんでしょう」
「そうなの、のりちゃんってほんと、信也さんのことよくわかるのね」
「何故か私とは話をしてくれるだけです。他の人にはまだ人見知りしていると思ってもらえばいいかと」
「人見知りか……」
井村さんも何となくわかってくれたみたいだ。他人の姿が見えないらしいとは言わないほうがいいだろう。
信也さんの夕食ができるまで奥庭を歩いてみた。池をぐるりと回って奥の院に戻ったところで信也さんを見つけた。昔は奥の院の中庭だっただろう植え込みのひとつ、ピンクの花の咲いている樹に紙垂のついた縄を巡らせていた。
「のーりこ、今日は自分でお髭剃ったよ。父さんがジョリジョリいうの、貸してくれた」
「電気カミソリですね」
「何かうるさいけど鏡見なくていいから」
「鏡、嫌ですか?」
「うん、影探したくない」
影は幻の意味だろうか、面影だろうか。自分の顔に父親を探したくなるからだろうか?
法子はまた意識して話題を変えた。
「髪の毛も思ったより上手く切れたみたい、違和感ないです。よかった」
「可愛い?」
「ハイ、かわいいです」
「よかったー」
「この花も可愛いですね。何の木ですか?」
「花梨。いい匂いの実がなるの。喉にいいんだよ。お父さんがね、もう何も飲み込めなくなって、でもお咳が出るから枕元にこの実を置いてあげたの」
「丹沢には花梨は生えてないの?」
「あるよ。姉さんがシロップ作ってくれて、クリスマスまでは飲んでた。お正月からは飲めなくなったから、この木の実を持ってきてもらった。だからありがとうって縄を掛けることにしたんだ」
「かりんさん、ありがとう」
法子はしっとりとした印象のネズミ色の幹を撫でた。
「ありがと、のり子」
「今日はお祈りの日ですね。お社にもお参りしたんでしょう?」
「うん、してみた。青ちゃんが、お父さんやお母さん、お兄さんと会えたかなあって思ったから」
「会いに行っちゃったの?」
「うん、また帰ってくるけどね」
「そうなんだ。えっと、お兄さまはどこで神官をされたんですか?」
「白泉兄ちゃんは宮津。でも結核で朱暁さんより先に死んじゃった。ふたりとも宗家神官だから、取りあえずここのお社でお祈りすれば通じると思ったんだ。お兄ちゃん、青ちゃんよりも教典読むの得意だったんだよ」
「うそ、それ凄いです。青山さま優秀だって有名だった」
「心配なのはちえさんなの」
「ちえさん、朱暁さまの奥さま、信也さんのお祖母ちゃんですね」
「うん、阪口ちえさん。克俊祖父ちゃんの叔母さん」
「ええ」
祖父の説明通りだ。
「祝詞で通じるかどうかわかんなくて。かしこみかしこみまおすって言ってはみたんだけど」
「えっと、朱暁さまの奥様だから、聖なる女性でしょ? ちゃんと通じると思います」
「そうかなあ。聖なる女性っていっても教典読んだりしないよ? だから念のため付け足しといた」
「何をですか?」
「うーんとたぶん、合ってたと思うんだ。まんまんさん、あーんって」
ああ、そうか、井村さんは付け足し部分だけ見て聞いて驚いたんだ。
「僕ね、考えたの。ちえさん、とっても優しいお母さんだったって聞いたから、もしかして、神さまでなくて慈母観音様になったかもしれないって。
観音様って仏さまの一種だよね? 阿弥陀様とか観音様とか、もしかしてそれぞれに特別なお祈りの言葉があるのかもしれないんだけど、他に思いつかなかったから」
「きっと大丈夫です、どんな言葉使っても気持ちは伝わると思います。英語でもフランス語でも仏さま語でも」
信也さんは昔みたいに目をくりくり輝かせた。
「ほんと? のり子もそう思う?」
「ええ、思います」
「よかったぁ、ありがとう、これで安心」
やっぱり信也さんはどこもおかしくない。自分の考えで動いているだけだ。
観音様にもお祈りしたかった。それが神社にそぐわないとか、神官のくせにとか、てんで関係ない。
お父さんを思う気持ち、お父さんのご家族を思う気持ち、ピュアにそれだけだ。
逆にそのほうが信也さんらしい。こうあるべきだと規則にそって行動する信也さんなんて、見たことない。




