奥の院のお風呂場で ②
「お酒もう飲まないでくださいね」
法子は信也の後ろ頭に囁いた。
遠く離れて、何がどうなっているのかも知らされないで、好きな人が急性アルコール中毒で死んでしまったら、愚か過ぎる。
「止めて」とも「好きです」とも言わないままに信也さんがいなくなってしまったら。
法子の左手が埋まっている信也さんの髪は、頭はこんなにも温かい。信也さんは生きている。熱を発して生きている。
「お酒? ああ、あれはもうナシ」
「どうして死ぬほど飲んだの?」
死にたかったからという答えだったらどうするのか、質問してから恐くなった。
「お酒飲むとね、お父さんが増えたの」
「増えた?」
「うん、いっぱい。丹沢のお部屋中、お父さんが分身して僕を包んでくれた。嬉しかったの」
「そう」
「お話もしてくれたし」
三か月前はお父さんと会話ができたんだ、お酒の勢いだったとしても。
「でもね、病院から帰ったらいなくなってた。お酒舐めても気分悪くなるだけで、出て来てくれなくなった」
「そうなんだ」
「出て来てもどんどん遠くなってる。可愛くなっても近付いてくれないかもしれない」
この話題は何とか否定したいと、法子はとっさに思った。
「信也さん、私のこと今でも可愛い? 赤ちゃんでなくても」
「のり子? うん、可愛い」
「じゃ、信也さんがどんなでもほんとは可愛いんじゃない? 髭があって可愛くないって言ったのは私で、お父さんじゃないです」
「あ、そうか。そうだね。赤ちゃんの時も不良の時も、無視しても側にいても、好きでいてくれたもんね。大人になっても、僕が何しても、しなくても」
「出て来てくれなくなっても、信也さんの心の中にはいっぱい青山さまいらっしゃるんでしょ?」
「うん、いっぱいいる」
「だから大丈夫です。ずうっと憶えておいて何度も何度も思い出して、信也さんの心の中のお父さまは信也さんのものだから」
「うん、そうだね……」
背中が、肩がふるえていた。泣いているらしかった。
――髪を切っても髭をそってももうお父さんには会えないと突きつけている。ひどい女だと思う。友人が言うように、私は冷たい。
でも少しずつ少しずつ、現実に戻ってきて。眩しい信也さんに戻って。
もし戻れなくても、今のままだとしても、困ったことに私は信也さんが好きだ。子供っぽくても訳わからなくても好きだ。
背中に抱きつけたら、この広い肩に頬を乗せて一緒に泣いてしまえたら――
手が震える。でも法子は思いとどまった。
感情のまま衝動に自分を任せるわけにはいかない。信也さんを支える、そのほうが大事だ。
「大丈夫です、信也さん。きっと」
何が大丈夫なのか自分でもわからない。それでもそれしか言ってあげられなかった。
「私が側にいますから」と言っても意味ないだろうし、「生きていればきっといいことがある」なんてよっぽど薄っぺらい。
「髪の毛、とりあえず、こんな感じでいいと思います。明日みて変だったらまた直します。シャワー浴びて下さい」
「うん、ありがとう」
法子はそそくさと道具を持ってお風呂場を出た。奥の院を出てから、自分がもらい泣きしているのに気がついた。




