徘徊の理由
どこまで話が通じるか危ぶみながらも話しかけてみた。
「信也さん、どうして他の人とお話しないの?」
「話? 誰と?」
「井村さんとか、話しかけても返事してくれないって淋しそうでした」
「井村さん? 会ってないよ。僕、社務所いかないもん」
「鏡池のところで」
「知らない。航さん遊びに来てくれないかなぁ」
「伯父さんとは話さないんですか?」
「オジサン? 僕の叔父さんは昇さんだけだよ、恐山にいる。航さんのお父さん」
聞いたことなかった。本当だとすると、高校教師をしている航さんと信也さんは従兄弟同士になる。どうしてそうなるのかはわからない。航さんは自分の母方の従兄だ。
でもお祖父ちゃんが、航さんは彬文さんか青山さまかに似ていると言っていた、
そう言われれば、確かに似ている。彬文さんと青山さまは隔世遺伝で、見た目はそっくりだったから、どちらでも。
「いえ、私の伯父さんです、阪口の。神主さま」
信也さんは法子の隣、縁側の上に座って、向こう側にでろんと横たわった。
「阪口さんは声は聞こえる。眼鏡しか見えない」
「見えない、の?」
「うん、見えない。姉さんは見えるけど声が聞こえない」
「そんな……」
「のり子は全部見えるし聞こえる。じいちゃんも見えたし聞こえた。彬文も大丈夫。航さんも。今はそれだけ」
「そうなんだ。お父さまは?」
「お父さんは全部見える。いつも一緒」
「そう」
それ以上言えることはなかった。死んだ人は見えて生きてる人は見えない。そんなこともあるんだ。
「今もあそこにいる。お社と講堂の間。こっち見てる」
「青山さま、いらっしゃる?」
「うん。でね、僕がそっちに歩いていくと隠れんぼする。そこまでいくといなくなってて、また向こうに見える。あそこだったら、次はきっとお社の角。そんで池のほとり。お茶室、蓬莱石。どんどん歩く。歩いても歩いても、会えない。見えるけど、会えない。声をかけても待っててくれない」
ああ、それで境内や裏山をうろうろしてたんだ。
それでも奥の院に閉じこもっているよりは、外を歩いていたほうが健康的だ。
「僕が止まってると近付いてきてくれる。眠たいと側にいてくれる。だったらいっぱい歩いて眠くなったほうがいいもんね!」
酷く淋しい話だ。何を言ってあげればいいのかもわからない。
話題を生きている人のことに戻そうと思った。
「神主さま、眼鏡外したらお顔見えるかもしれない?」
信也さんは横たわったまま、お腹と口を押さえて笑う真似をした。
「眼鏡なしの阪口さんなんて、僕見たことないから会ってもわかんないよ」
「あの、私近眼になっちゃって、普段学校で眼鏡かけてるんだけど、かけたら私のこともわからなくなる?」
「ならない。のり子は赤ちゃんだった時の匂いがするから」
「赤ちゃんの匂い?」
「うん。僕が初めてのり子に会ったとき、のり子はUFOみたいな歩行器に入ってた。恵美さんが抱き上げて歩かせたら僕のほうによたよた寄ってきた。よだれつきの手で僕のほっぺ撫でた」
「うそ」
「うっそじゃないもんね。いっぱいおうた歌ってあげたのにてんで憶えてないんだよー」
「ごめんなさい」
「でもね、僕もね、憶えてないの。僕が赤ちゃんのときね、僕のお父さんがおうた歌ってくれたんだよ。イチゴとか一緒におやつ食べて僕が作った歌も歌ったんだって」
というと歌い出した。でも抑揚がない。つぶやいてるだけだ。もっと楽しいメロディだったんだろうに。
「イチゴはちょっぴり酸っぱいけどね、おうたを歌えば甘くなる、甘くなる。一緒に食べれば甘くなる、甘くなる。ほらね、ごちそうさまでした、ハイ」
先日の誕生ケーキの上のイチゴ、この人はつぶやきながら独りで食べたんだろうか。
「子供の時のことも憶えてられたらよかったなあ。そしたらもっといっぱい思い出があったのに」
「でもお父さん、話してくれたんでしょ? その頃のこと」
「うん、僕は腹式呼吸でオペラみたいに泣く子だったって。それでお母さんの足とピアノの脚の間に挟まってた」
「ほら、話してくれた思い出があるから大丈夫」
「そうだね。全部話してもらったものね。大丈夫」
信也さんは起き上がって空を見上げた。
「でも、もっと甘えたかったな」
大人の信也さんが一瞬見えた。
「介護大変だった?」
「かいごって何? 幼虫のかいこのこと?」
あ、また子供だ。
「お父さんの可愛い信也のままでいたかったのに」
この発言はどっちだろう。大人? 子供? どっちでもいいか。
「そんなに髭伸ばしたら可愛くないです」
「髭? 僕、髭あるの?」
「あります。ありすぎです」
信也さんは両手で両頬を押さえた。顎のほうへ滑らせて、「これが髭?」と訊いた。
「はい。ないほうが可愛いです」
社務の井村さんは、うろうろするならせめて、髪と髭をどうにかして袴をはいて欲しいと言っていた。
今信也さんが認識できる人は数えるほどしかいない。
彬文さんは東京で、航さんは仕事がある。
後は、お祖父ちゃんか法子しかわからない、神主さまは声しか聞こえない。
となると、言葉を届けるのは法子の役目だろう。
家に帰って法子は、祖父に信也さんとのやりとりを話した。
ふたりは信也さんが養子に来た最初からずうっと仲良しだったらしいから、皆が祖父に相談に来る。心配すると見せかけて、愚痴を言う人もいる。仕方ない。
でも助かるのは情報が全部祖父のところに集まることだ。法子が自分の目で見たことと、祖父から聞く話を合わせると、信也さんのことがかなりわかる。
「そうか、実際、見えないのか。目には映っても心には繋がらない。どこかでブロックしてるんだな。敵に廻りそうな人を見えなくして心を守ってるのか」
「そんなことってあるの?」
「あるみたいだな。法子は信也が好きなのか?」
単刀直入に訊かれて逃げられなかった。法子は祖父に嘘が吐けた試しがない。
「うん」
「もし信也がこの世からいなくなったら、自分がどうなるかわかるか?」
「わからない」
「今の信也みたいになるかもしれない。信也にとって青造はそれくらい大切な人だったんだ」




