想いびと
また「阪口信也もの」です。本作品を読む前に、彼の人となりが端的に把握できる拙作「おやしろの信ちゃん」を読んでいただくことをお勧めします。そちらは短いので。彼の変人さ加減に免疫をつけてから読んでもらったほうがいいようです。
* 神社の話ばかり書いていますが、筆者本人は無宗教です。
登場人物を好きになってもらえれば嬉しいですが、全くのフィクションで、設定です。
特定の宗教とは関係ありません。
「あのひとが帰ってくる」
阪口法子はつぶやいた。
東京の大学へ行ったまま戻って来なかった、九才年上の従兄。話すのは年に一度か二度、うちにいる祖父に顔を見せにくるときだけだった。
数年前「大学辞めることにした」と告げた苦しそうな顔が思い出される。祖父は
「それでいいのか? おまえの人生を優先したらどうだ?」
と訊いていた。
あのひとは淋しそうにもはっきり「これが僕の人生だよ」と微笑んだ。
法子はこの春高校生になったばかりだ。口さがない女子高のクラスメイトたちは
「二十五才になろうとする従兄のことなど気にするのはおかしい」
と笑う。彼女たちにしたらもうオジサンの一種らしい。
「だって大学なり短大なりいくじゃない、その後結婚しようと思ったら、相手はもう三十過ぎよ」
三十過ぎの独身男性なんていくらでもいる。「結婚」してもらえると想像するほうが難しいということが友人たちはわかっていない。
「受験勉強終わってこの学校に入れて、これから楽しもうってときに、何で?」
何でと言われても、「あのひとほど眩しい相手はいない」、ただそれだけのことだ。
法子はいいとこのお嬢さんだと思われている。確かに学校は私立で、そういう学友も多い。
「家は大きく見えるけど」と法子はおかしくなる。
うちは庭に大きな池のある和建築で、古めかしく厳めしい。でもお庭は隣の伯父さんのうちと共有だということを皆知らない。
両阪口家の玄関が道路に面していて、長男である伯父さんの家が「離れ」、ソファを置いたリビングルームのある今どきの家だ。
それに引き換え「本家」と呼ばれる法子のうちはどこも和風で、自室の机につく以外は畳に正座することになる。元々、お祖父ちゃんの家だから本家なのだが、何故次男の父が同居しているのか、よくは知らない。
信也さん、法子の想いびとはだから、隣に住んでいた。物心ついた時にはそこにいた。庭に出ると、二階の彼の部屋からはいつも音楽が聞こえ、歌っていることもあった。たまに池の周りで踊っていることさえも。
法子は恥ずかしがりで、おゆうぎ、ダンスの類は苦手だ。音楽に乗る前に自分がどう見えるか想像してしまい、身体が強張る。
小学三年だったか、運動会の「ソーラン節」をしたくないとだだをこねた。お祖父ちゃんから聞いたのか、信也さんは庭で凄い複雑バージョンを踊ってくれた。
「ほらほら、真似して、ここターンであっち指差す、前を向いて手拭い廻す」
法子は信也さんの勢いに押され、忙し過ぎて照れる間もなく口囃子に乗せられた。
「盆踊り大会で専門家に習ったことがあるんだ」
受験生の信也さんは輝くばかりに笑っていた。
「法子上手じゃん。学校のは簡単過ぎてつまらないけど、踊ってあげれば?」
そう言われて気の持ちようががらりと変わった。「踊ってあげてもいいか」と法子も思ってしまっていたのだ。
伯父は阪口泰治という名で、京都北山にある大きな神社、長秋神社の神主をしている。いずれは信也さんが跡を継ぐと聞いていた。実はそのために、養子に来たのだそうだ。
伯父さんと信也さんは血が繋がってない。いや全く繋がってないわけじゃない。お父さん同士が従兄弟なのだから、「はとこ」と呼ばれるのだと思う。その二人が親子になった。
伯母さんのほうがもっとヘンだ。信也さんはお母さんになったはずの人をずうっと、「姉さん」と呼んでいた。血を分けた姉なのだそうだ。
加代伯母さんは日本舞踊をするステキな人で、自分の母のような所帯じみたところがない。性格もさっぱりとしていて、家事はささっとこなして「おでかけ」する。
その伯母が昨夜祖父のところに話しに来ていた。
「連れ戻すことにしました。力ずくになるかもしれませんが、このまま丹沢に籠らせておくわけにもいかないので」
「そうだな。あそこでは何かあったときに対応が遅れる。おまえも付きっきりでいられるわけでもない。うちか本社にいてくれれば目を配ることもできる」
「あの姿を晒すのも恐いのですが」
「それ程に不安定か?」
「はい、どれだけ周りを認識できているのか」
「酒は?」
「飲んではないようです」
「話はできるのか?」
「できたり、できなかったり。私の言葉は届きにくい」
「加代ならと思ったんだが?」
「つらいみたいです、私は子供の頃存分に時間を共にしたから。自分には一年も親でいてくれなかったと」
「そうか、その通りではあるが。よく似た姉弟なのに」
「それだからこそ、かな」
「泰治が行くのか?」
「はい。航くんが同行してくれます」
「それは頼もしい。学校でもお世話になったから」
「彬文のいうことは結構聞き分けていたので、航くんならと期待してしまって」
「そうだな。似過ぎているか似てないのかはわからないが」
お茶を出しながら耳にした、謎のような会話だった。
信也さんはまだまだ苦しんでいる。血を分けたお父さんが亡くなった。一周忌が終わったこの二月に、お酒を飲んで救急車で運ばれたことは聞いていた。
うちの一族の神社が所有する丹沢山荘で父親の菩提を弔っていると表向きは説明されている。そこで青山さまは亡くなったから。大学を辞めてまで介護していた信也さんの、実のお父さんが山荘で亡くなったから。
伯父夫婦、信也さんの養父母は彼をここ、京都に連れ戻す。
どんな姿になってしまったのか、会うのは怖い。怖いけれど会える。信也さんはもともと、ぱっちりとした二重の大きな目をくりくり動かす、表情豊かな人だった。
つらそうな顔は似合わない。すぐに名案を思いついて「こんなのどう?」と助けてくれた。その人がどんなふうに傷ついているのか。
信也さんは東京で母子家庭として育ち、父親が誰かずうっと知らなかった。十一才で知らされた途端、京都の阪口家に養子に出された。よくわからない、それがどれ程つらいことだったのか。法子は彼の笑顔ばかり憶えている。
大学生になって最初の二年は青山さまもまだお元気だった。京都本社で開かれる大きな行事にはふたり揃って東京から戻り、神官として参加していた。
音楽の神様をお祀りし、歌や踊り、雅楽が神事に使われるうちの神社では、青山さまも信也さんも神々しいばかりだった。